https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421
「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」…前項はこちら。
では、前項に準じ、山形より南、北陸へその傾向を伸ばしてみよう。
抽出方法は前項同様。
まずはその傾向を見ていく事が最優先…深掘りの為の叩き台。
では抽出データより。
一つだけ注意点。
東北でガラス玉や水晶の検出があった。
ここ北陸ではそういう記載ではなく、ズバリ「数珠」と記載されたものが検出され、材質記載が無い。一応、数珠はガラス玉,水晶に上げていく。
A,新潟県
・遺跡総数
900
・土葬or火葬
土葬→11
火葬→14
・特徴ある副葬
古銭→17
ガラス玉(水晶,土玉含む)→0
鏡→0
鉄鍋→0
鉄釘→4
刀剣(刀子含む)→2
陶器,かわらけ→14
漆器→9
仏具(五輪塔,板碑含む)→8
馬具→0
甲冑→0
骨骨器→0
硯→0
布→1
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→0
石積塚→0
B,富山県
・遺跡総数
118
・土葬or火葬
土葬→11
火葬→16
・特徴ある副葬
古銭→17
ガラス玉(水晶,土玉含む)→0
鏡→0
鉄鍋→0
鉄釘→4
刀剣(刀子含む)→0
陶器,かわらけ→14
漆器→9
仏具(五輪塔,板碑含む)→7
馬具→0
甲冑→0
骨骨器→0
硯→0
布→1
・特徴ある墓制
周溝墓→1
鍋被り→0
石積塚→3
C,石川県
・遺跡総数
114
・土葬or火葬
土葬→25
火葬→48
・特徴ある副葬
古銭→14
ガラス玉(水晶,土玉含む)→4
鏡→0
鉄鍋→0
鉄釘→5
刀剣(刀子含む)→5
陶器,かわらけ→51
漆器→3
仏具(五輪塔,板碑含む)→36
馬具→0
甲冑→0
骨骨器→0
硯→1
布→0
・特徴ある墓制
周溝墓→1
鍋被り→0
石積塚→3
D,福井県
・遺跡総数
44
・土葬or火葬
土葬→1
火葬→6
・特徴ある副葬
古銭→2
ガラス玉(水晶,土玉含む)→0
鏡→0
鉄鍋→1
鉄釘→1
刀剣(刀子含む)→0
陶器,かわらけ→4
漆器→0
仏具(五輪塔,板碑含む)→2
馬具→0
甲冑→0
骨骨器→0
硯→1
布→0
石帯→1
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→0
石積塚→0
以上である。
まずは、新潟と福井の総数とカウント数の差違だが、板碑や五輪塔として検出、
発掘調査を行っていない事例が多い為である。
逆に石川では、割と土葬,火葬も含めて発掘内容が記載されており、カウント数が自然と多くなる傾向はある。
この辺は資料を纏めるに当り、各県の埋文担当らに執筆依頼した様なので、東北編でもそのニュアンスは各県毎に違う。
その辺は予測出来たので、なるべく同じシリーズの資料集(統一された依頼内容)で比較したかったのはある。
では、考察していこう。
A,土葬or火葬…
北陸では、カウント数が多い石川の事例ではある程度ハッキリ火葬優位だが、他は割と同数位。
これは発掘数が増えてくれば変わってくる可能性はある。
添付された発掘調査報告らの資料で、明確に石を敷き詰められた遺構且つ人骨が伴わないものが増えカウント出来ないものが増えてくるからだ。
また、割と両方検出されるものが多いのは、近辺に寺社がありそれに付帯した墓地である事が多く、同時に存続期間が長く途中で変化するからだろう。
勿論土葬→火葬の傾向はある。
そう考えると、石川の事例傾向が実態に近いかも知れない。
また、土葬に於ける南北、東西の方向だが、やはり南北向きが多い様に見受けられるが、局部的にはこんな事例もある。
新潟県「柏崎町遺跡」、15~17世紀だが同書から引用してみる。
「重複が激しく発掘中に下部から新たな墓壙が検出されることも多かった。楕円形を呈するものが主体で、主軸はおおむね真北一真南を指向するものが多いが真東一真西を示すものも少なくなかった。」
「白磁,肥前,青磁,土師器,珠洲, フイゴ羽口,銭貨,砥石」
楕円形の土壙墓ではあるが、東北同様に東北方向を向くものもある。
B,特徴ある副葬について…
先述のハッキリ「数珠」と書かれた事例やA,で何気に引用した「柏崎町遺跡」にあるのが「フイゴ羽口」。
実は鉄滓の副葬の記載が他に二箇所。
これは何を意味するのだろうか?
鍛冶の墓だから?なかなか興味深い。
石川の事例である「漆器」だが、その内の一つは漆器椀ではなく「烏帽子」である。
以前の報告、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/08/065833
「「川連漆器」等の元祖は平安期?を考える為の備忘録…中世領主達が種を撒き、佐竹公が育てて刈り取る②」…この項で雄物川町歴史民俗資料館の「発掘された横手」特別展の話を紹介したが、実はこの特別展でも、
烏帽子の出土があった。
全国的にも珍しい様で、石川の事例は白山市「中村ゴウデン遺跡」12世紀の木棺で北頭位だそうだ。
平安末〜鎌倉期位であろうか。
とすると、地頭やそれに類する地位の人物になるのかも知れない。
C,周溝を含めた墓制変遷…
前項で触れた周溝墓だが、さすがに北陸では明確にこれだと言うものは1基のみ、且つ北向きではあるが、富山県高岡市「中保B遺跡」で検出している。
また同書本文から引用してみよう。13世紀と考えられる。
「木棺墓SZ03 (2.5m×1m×0.5) U字 形の周溝を持つSZ04(2.4m×1.5m ×0.5m)」
「SZ03(筆者註:木棺内検出):漆器椀1 皿3 三足盤、 SZ04(筆者註:周溝内検出): 鉄刀鞘・漆器皿2」
「古代からの船着き場の近辺に立地し、周辺に掘立柱建物がある。」
とある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140
「「阿光坊古墳群」に残される墓参と思われる痕跡…末期古墳を作った人々の断片と製鉄ルート」…ここで報告した様に、この手の「周溝を伴う木棺墓」が末期古墳の延長線上にあるとすれば、北海道〜北東北で検出されている周溝墓はより古い型を残している事になるのか?
同時にそうなら、周溝部分へ副葬された刀剣,漆器は墓参の存在を示す事に。
北東北から離れての検出ではあるが、「古代からの船着き場」…これで何となく納得出来てしまう気がする。
日本海ルート上の湊や船着き場なら、船乗りとして訪れる可能性が出てくるだろう。
D,集石塚について…
山形の事例らと比べて数が少なく、且つ富山と石川に限定される。
集石塚と言えば、この手の形を思い浮かべるだろう。
北陸にも土の塚はあるし、東北では見掛けない「3段位の土壇」、そして火葬施設としての敷石を伴う形に
変わっていく。
塚状に積み上げる訳ではなく、敷いている感じか。
では、昨日、たまたまSNS上で出た話に触れる。
相互フォロワーさんらとアイノ文化の定義の話に。
そこで出た話から、検索したところ、関連ワード「方形配石荼毘墓」が。
「筆者は、コシャマインの戦い以前、すなわち13 世紀から 15 世紀前半までの初期アイヌ文化にみられる方形配石荼毘墓、ワイヤー製装身具、小型のトンボ玉・メノウ玉、金属板象嵌技法は、いずれも大陸に由来すると考える。そして 15 世紀後半以降、アイヌ文化における大陸的要素は急速に希薄になると考える。」
「出土資料からみたアイヌ文化の特色」 関根達人 2012-03-31 より引用…
関根氏が初期アイノ文化の特徴として挙げた「方形配石荼毘墓」の事例は、「伊達市オヤコツ遺跡方形配石墓Ⅰ・Ⅱ号」と「余市町大川遺跡迂回路地点 P-41」の二箇所が該当し、これが、アムール川流域の「パクロフカ文化(アムール女真)」と共通点を持つと指摘する。
11世紀の遺跡らしい。
実はその時、筆者は正にこの項を書くべく「中世墓資料集成−北陸編−」と格闘していただが、これを…
・富山の南砺市「香城寺惣堂遺跡」13後〜14初世紀。
富山の「医王山信仰」に纏わるものと考えられる。
・石川の七尾市「上町マンダラ中世墳墓群」14〜16前世紀。
配石墓64基以上、火葬ピット14基以上、周辺の在地領主一族の集団墓で被葬者は200人以上推定。
・石川の「宮竹墓谷中世墳」13後〜15世紀。
三段状のテラス造成、石塔類を配し方形区画した配石墓群。
区画数の割に火葬骨と蔵骨器の出土数が少ないらしい。
筆者的には、この辺が本命なのではないかと考えたりする。
石川の白山市白山町「白山遺跡・白山町墳墓遺跡」13前,14後〜16前世紀で、中世白山宮に付随した社僧坊群敷地内の土葬墓と火葬墓の火葬墓側。
まだまだあるが、キリがない。
東北の出羽三山は石積塚を作るが、北陸ではこんな風に方形区画を設けた配石墓を作る様だ。
筆者は疑問である。
わざわざ二百年離れ、長い航海を必要とする大陸に起源を求めるのか?
同時代、それも「新羅之記録史観」での「武田信広」の出身地である北陸に起源を求めれば良いのではないか?似た墳墓群がボコボコにある。
ここで、北陸、こと富山と石川をクローズアップしてみよう。
まだ北陸の地方史書は入手していないのでウィキから。
富山…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%8F%BE
医王山信仰。
「医王山は中世には白山・石動山と並んで北陸の修験道場の一大拠点として隆盛し、48寺・約3,000坊もあったと伝わる。医王山の伽藍諸坊は、文明13年(1481年)に瑞泉寺一向宗の門徒との戦いに敗れ、全山が焼き払われてしまったという[1]。」
石川…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%95%E5%B1%B1
石動山信仰…
「鎌倉時代には真言系の修験道者によって伽藍堂宇が造営されて神仏習合の「石動寺」と称されるようになった[4]。
南北朝時代初頭の1335年、建武の乱が起こると朝廷側の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏に呼応した同国守護普門俊清に焼き討ちされて一時衰退した(一度目の石動山合戦)[3][4][7]。その後、足利将軍家の支援で堂塔などが再建され、京都の真言宗勧修寺の末寺となったことで「天平寺」を称するようになった[4]。
天正10年(1582年)には越後国の上杉家に逃げ込んでいた能登の温井景隆らが石動山衆徒と組んで石動山から峰続きの荒山砦に籠城したが、織田信長の家臣である前田利家や佐久間盛政らにより陥落し再び焼き討ちに遭った(二度目の石動山合戦、荒山合戦)[3][4]。」
そして、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0
白山信仰…
「白山修験は熊野修験に次ぐ勢力だったといい、特に南北朝時代に北朝方の高師直が吉野一山を攻めて南朝の敗勢が決定的となった際には、吉野熊野三山間の入峯が途絶したため、白山修験が勢力を伸ばし、日本全国に白山信仰が広まった[7]。
『源平盛衰記』や『平家物語』に記された白山衆徒(僧兵)が、対立した加賀国守を追放した安元事件に代表されるように、加賀国では白山修験は一向宗(加賀一向一揆)と並んで強大な軍事力を有する教団勢力として恐れられた。しかし、戦国時代には一向宗門徒によって焼き討ちにされて加賀国では教団勢力は衰退したが、江戸時代になると加賀藩主前田家の支援により復興された。
白山修験の僧兵は山門(延暦寺)の僧兵と結びつき、特に霊応山平泉寺は最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝わる。」
これら修験の山には、開山や伝承に白山信仰を開いた「泰澄」が絡む様で。
上記引用は、各山の盛衰や戦乱に纏わる部分。
南北朝や応仁の乱後の混乱や一向一揆の台頭や吉野,熊野の峰入中止らで勢力の増減があったと伝わる様だ。
つまり、敵対勢力から逃げる為、又は勢力拡大の為に一部又は大勢が移動する理由がある。
それ以前から日本海の交易ルートを使用して北上をする事は有り得る事になる。
これ、関根氏指摘の初期アイノ文化の時期と被る。
途中には、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…「立川町史」にある様に、出羽三山の霞が控える。
何せ鎌倉幕府に対してもエグい要求を突き付ける勢力。
受け入れられれば無事は保証されるだろうが、ダメなら?
更に北上するしかない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214
「津軽,秋田に残る金石造文化財…紀年遺物に刻まれた安東氏の宗教観」…十三湊や南下仕立の男鹿半島で安東氏が受け入れたかも知れない。
それも叶わねば、再北上…
文献と遺物を組み合わせればこんな感じであろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…厚真でご教示戴いた「アイノ文化の源流に修験有り」…これと合致してくる。
なら、各地に残る「北海道中世墓の被葬者」は誰なのか?
前項にある様に、夷王山墳墓群は複数の墓制を持つ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006
「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…近現代でも墓制はごちゃ混ぜで同様の傾向。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…タダでなくても、中世遺跡が限定される中、墓制で区別可能なのだろうか?
まぁ身も蓋もないので、話しを元に戻す。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505
「日本海交易拡大を計る戦国大名達…「朝倉義景公」「上杉謙信公」から「安東愛季公」への書状」…この様に、室町〜戦国段階で、越前の朝倉氏と秋田湊の湊(上国)安東氏は好を結び、桧山と湊統一後の安東愛季には、朝倉氏や越後の上杉氏が書状を送り、特に上杉は「船を回す」と記述している。
この段階では、商船ベースで武将間同士でも交渉ルートを持っていたと考えられる。
鎌倉期の得宗領の管理や「関東御免津軽船」の運用に安東氏が従事したであろう事、後に安東氏は北朝方足利尊氏からその業務らを安堵されている事を鑑みれば、最低限で鎌倉以降戦国迄は安東氏運用で日本海海運ルートは通じていたであろうと言えるかと考える。
商船らでの北上は可能だろう。
一応、付け加える。
「方形配石荼毘墓」の移入ルートだが、大陸由来を否定するものではない。
修験道のベースは、神道や山岳信仰,道教ら、そして仏教(密教)との神仏習合とするなれば、構成要素である密教は大陸からの移入になる。
直接北海道に入らずとも、ニつの事例のタイミングなら、修験の移動に伴い、大陸→北陸→北海道と言うルートの蓋然性が高くなるだろうと言う事だ。
仮に直接入るなら、もっと事例は多くなるのでは?
北陸以西はまだ調べてもいない。
「方形配石荼毘墓」が吉野や熊野でも検出されたらどうなるか?
まぁこの辺はまだ断片、少しずつ周りに広げていこうと思う。
また、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134
「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…箕島氏の見解では、中世の検出事例がなく、擦文→近世迄飛ぶと言うもの。
この辺も墓制確認らの拡大と共に追っていこうとは思っている。
E,十字型火葬墓について…
前項に於いて見つけた上ノ国夷王山墳墓群と秋田県沿岸北部を中心としたところに限定される「十字型火葬墓」だが、この資料集の事例の中には記載が無い。
つまり、北陸起源では無い可能性が高い。
宿題完結せずである。
そもそも祭祀遺跡とは何か?
少し、改めて学んでみようかと思う。
何度か書いているが、我々は知識「〇」からの開始。
そもそも基礎がないので、「絨毯爆撃」が基本。
片っ端から学ぶまで。
如何であろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…石積み,石塁、土塁,空堀らにして、墓制にして、行き着いた先には何故か修験系の話に。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612
「実は「出羽三山」では金銀銅水銀、そして鉄が揃う…「月山鍛冶」の答え合わせ、そして技術や文化への宗教の関与は?」…それは元々、金銀銅ら貴金属や製鉄,鍛冶らでの関与を疑っていたからだけの事で、修験者を「技術,文化の伝播者」と捉えれば、極当然の事なのだろう。
上記はまだ断片の一つに過ぎず、まだ裏取りは必要。
宿題を片付けつつ、コツコツ地道に学んでいこうではないか。
まだ、先は長い…
参考文献∶
「中世墓資料集成−北陸編−」 中
世墓資料集成研究会 2004.3月