北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

これを前項として。

散々取り上げたのだ。

ならば方形型火葬墓をピックアップして並べてみようではないか。

資料は前回同様「中世墓資料集成」で、県別,時代別に並べたらどうなるのか?だ。

ピックアップの条件としては、

①方形の配石で基本は火葬墓

②表中で「方形」記述、又は添付図例で同等と見做せるもの

③方形配石の区画がされるもの

④墓数記述が無いので、前回同様に遺跡数とする

以上。

では、今回はかなり明確な北陸から日本海側を北上、北海道から東北へ南下して最後に北関東へ。

 

福井県(3箇所)

福井市「武者野遺跡」(15世紀~1573年まで)

・若狭市「保谷墳墓群」13~14世紀

・大飯町「山田中世墓群」13~16?世紀

※発掘無き場合が多く全体像不明

 

②石川県(9箇所)

七尾市「小牧白山社中世墓地」15~16世紀

七尾市「上町マンダラ中世墳墓群」14~16世紀

七尾市「垣吉マツサキヤマ中世墓」15世紀

白山市「白山遺跡・白山町墳墓遺跡」13前,14後~16前

能美市「宮竹墓谷中世墓」13後~15世紀

小松市「八里向山F遺跡」13前,16世紀

小松市「八里向山H遺跡」13後~15前世紀

小松市「軽海中世墓群」14~15前世紀

七尾市「長浦遺跡」14後~15世紀

※総数144の内、図例が途中から載せられておらず全体像不明

 

富山県(7箇所)

南砺市「香城寺遺跡古宮遺跡」14~15世紀

南砺市「香城寺惣堂遺跡」13後~14初世紀

南砺市「岩安神明社墳墓群」中世

富山市「杉谷H遺跡」中世

富山市「安養寺遺跡」13世紀~近世

上市町「黒川上山古墓」12後~14前世紀

魚津市「石垣遺跡」13~15世紀

南砺市の事例は「医王山」周辺で関連が示唆される。

また、方形周溝を施し内部に集石するものもあり(カウントせず)

 

新潟県(一箇所)

妙高市「旧得法寺跡」15~16世紀

※土壇的に方形に集石させたものはあるが、内部解らずカウントせず

 

山形県(無し)

方形周溝はあるが、明確な方形は図例には見当たらなかった。

因みに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/22/112144

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝−2…山形県の「ケルン(ケールン)?」と「天神山の石組遺構」についての備忘録」…

この「天神山遺跡」の石組遺構や配石遺構だが、共伴の土師器は引田式に類似するらしく古墳中期位(5世紀位?)を想定している様だ。

なので直結させるのは少々ムリがありそうだ。

また、山形の場合は「集石塚」が目立つ。

 

秋田県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

但し、火葬墓と言うより「集石塚」に当たるのだろうが、この様なものはある。

河辺町(現秋田市河辺)「上祭沢遺跡」平安末~鎌倉期

どうも、周溝に施し集石し、中央付近にも集石している様だ。

関連性が解らないのでカウントせず参考である。

 

青森県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

こんな事例はある。

方形配石である。

市浦村「山王坊遺跡」南北朝期。

勿論、十三湊に隣接する神仏習合の宗教施設跡。

名前からすれば山王坊と言えば日枝神社,日吉神社系だろう。

天台宗の「本山派」になるのか?

この「石組列」からは人骨は出土していない模様で、遺物は「無縫塔?の台座 (八角形・ 安山岩質) 基礎・請花 (蓮弁八葉間弁八葉の単弁蓮華文)の一部」との事なので、墓と言うよりは宗教施設の一部なのかも知れない。

と言う事で土葬:火葬のカウントには入れてはいない。

 

⑧北海道(二箇所)

まだ「中世墓資料集成−北海道編−」の確認は出来ていないが、「出土資料からみたアイヌ文化の特色」よりお借りしよう。

伊達市「オヤコツ遺跡方形配石墓Ⅰ・Ⅱ号」

余市町「大川遺跡迂回路地点 P-41」

であり、「13~15世紀の初期アイノ文化」で且つ「大陸系文化が消える前」と指摘する。

では手持ちの「大川遺跡」の発掘調査報告書より…

 

「墓壌の平面形は約 4.8×4.4mの隅丸方形を呈するものであり、長軸方は北西−南東である。土壙には偏平な角礫が敷き詰められている (第57図)。角礫が配置された後に墓壙の周縁部が灰白色砂によって埋められ、長さ約0.4m 幅0.2mほどのクリの板材を方形に組み合わせた約3m四方の木枠がその上に配置される。木枠に沿って角礫が配置され(第55回) 、その内側に遺体と太刀・刀子・青磁漆器・骨角器等の副葬品(第58~67図)が配置されている。遺体と副葬品は配置後に焼成されていると思われ、焼成後には墓壙全体を暗褐色砂等で埋めている。墓壙はマウンド状を呈していた可能性があるが判然としない。

木枠内には頭蓋骨片が2ヶ所に見られ、その周辺から他の部位と思われる人骨片が多量に検出されていることから2体以上の合葬と考えられる(第56図)。これらの多量の骨片であるが、被熱による変形や破砕のために明確な部位は確認されなかった。頭蓋骨の位置などから頭位は東北東と南南西の可能性があるが判然としない。

第58図2・3は刀子であり、意図的に曲げられていると思われる。漆器椀とともに各人骨に伴って配置されているが、その置かれた方向は約90度の差がある。第59図21・22~62図は端部を加工した骨角製の柄に三角形の鉄鏃を差し込み鋲状の金属で固定しているもので、木枠の東部より先端を北に向けまとめられた状態で出土している。

第63回44~57、第64回60~80・83、第65回、第66図109~117は骨鏃と思われ被熱により変形している。 逆刺しが作出されているもの (第63回51・52、第64図60~80・83) と作出されていないもの(第63図44~48・53、第65回86~94、100~104) がある。類似する資料 は千歳市末広遺跡墓壙、上ノ国町勝山館、 伊達市オヤコツ遺跡方形配石墓等より出土しており、本資料は逆刺しが抉り込むように作出されている。

第36図14は元祐通費と思われる古銭で、北東側より検出した人骨の頭部付近より出土し ている。 第59図15~20は刀装具と思われる金属製品で、15は石突、16・17は座金、18は鋲、19・20は対の状態で出土した目貫である。

第58図7は砥石で、自然礫の一面を使用しており、被熱のためか破砕している。第66図119~121は青磁碗で、119・120は鎬蓮弁文が、 121は双魚文が施されている。

青磁碗などから14世紀に属する火葬墓と思われ、伊達市オヤコツ遺跡より検出された2基の方形配石墓に形態や伴出遺物が類似しており、関連性が窺える。」

「大川遺跡発掘調査報告書(2000・2001年度)大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」 余市町教育委員会 平成14.3.29 より引用…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/05/191915

「中世の火葬墓跡と「本州縁の人々」の存在…更に余市「大川遺跡」を検証」…

実は、我々はほぼ3年前にこの火葬墓と発掘調査報告書には辿り着いて、その後代に「木棺墓,東頭位伸展土葬,多彩な副葬」がアイノ文化墓の象徴…的な話と矛盾している事に気がついており、これが逆に本州人の痕跡では?と疑いは持っていた。

それはそうである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447

余市町茂入山…冗談とチームワークと執念」…

余市町は縄文,続縄文,擦文,中世と、連続的(又は断続的)に痕跡を残すホットスポットで、中~近世東北でも珍しい「石垣」があると初期から言ってきた。

3年掛かってやっと本州側から墓制を俯瞰するところまで来た…と言う事だ。

まぁ北海道での中世墓制の全体像はまだ捉えていない。

まずはここまで。

 

岩手県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

土葬が強い岩手県ではさすがに厳しいか。

個別に探す必要がある。

 

宮城県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

但し、仙台市「王ノ壇遺跡」12後~15世紀で検出した

屋敷墓(12末~13中)は、方形配石墓はあるが中央の墓が土葬墓となるのでカウントしていない。

 

福島県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

東北編で述べたが、宮城より南、福島や北関東では、

こんなT型の火葬墓が増え、主流になる様だ。

だが、十字型のものは見当たらずなのだ。

墓域区画の為の方形の溝はある様だが、明確な方形配石は見当たらない。

 

茨城県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

土台、山形~宮城ラインより南になると、板碑や五輪塔の様な石塔が増え、端から墓と解る(現実は生前供養があるので墓とは限らず)傾向はあるので、わざわざ集石の必要はないのかも知れない。

勿論、墓域区画の溝はある場合はある。

 

⑬栃木県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

茨城と同じ様な傾向か。

 

群馬県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

北関東編で述べた様に、

前橋市「鳥羽遺跡」古代~近世で方形周溝に土葬…こんなケースはある。

配石火葬墓としては、

藤岡市「白石太子堂遺跡」15世紀

桐生市「広沢古墓」中世

(記載は正応25年とあるが、正応2(1289)又は正応5(1292)の誤植か?)

と、広沢古墓の様に墓石と骨蔵器を納める為の土壇(石壇?)の様なので、敢えてカウントはしていない。

 

⑮千葉県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

北関東編でも書いたが千葉は「やぐら」が非常に目立つ。

 

⑯埼玉県(無し)

明確に方形火葬墓と見られるものは見当たらなかった。

北関東では集石墓自体が少ない様だが、ここ埼玉ではポツポツ見受けられる。

近似の事例では、

熊谷市「若松遺跡」15世紀

の配石遺構1,2

・川本町「畠山重忠墓」13中~14世紀

となるか。

但し、若松遺跡は集石遺構の下に複数土坑がある形で、畠山重忠墓は群馬の事例同様だろう。

墓単体を方形配石で区切る形にはなっていないので、敢えてカウントから外した。

 

以上の通りである。

さて、この際である。

分布をグーグルアースの地図上にプロットしてみよう。

相変わらず範囲が広い為に県単位でマーキングしているのはご容赦戴きたい。

同時に起源を探る目的なので、墓域の年代の古い方でマーキングしてある。

それぞれ単体の年代でマーキングすべきだが、敢えてやってはいないのであくまでも参考である。

黄色が12世紀

緑が13世紀

青が14世紀

紫が15世紀      である。

参考として、白は墓か断定不能な十三湊「山王坊跡」の事例である。

考察してみよう。

①北陸一帯では12~13世紀から出現し、近世迄使われ続ける。

北陸編で述べた様に、医王山信仰や石動山信仰,白山信仰に纏わる地域に濃い傾向はある。

②新潟から希薄になり、日本海側の山形と秋田,津軽では明確なものは見当たらない。

新潟の事例は妙高市で、妙高山信仰は善光寺との繋がりが深い様だ。

山形は出羽三山のお膝元、秋田は本山派(男鹿半島)や太平山三吉神社の信仰があるし、十三湊も本山派であろう。

これが、北陸の修験の定着を阻止したのではないだろうか?

③いきなり北海道へ飛ぶが、後代は方形型火葬墓は使われてはいない様だ。北海道の火葬墓については千歳市末広遺跡でも検出してる様なので、今後傾向確認していく。

④南部領以南の太平洋側では、明瞭な方形型火葬墓は見受けられなかった。

同じ火葬墓でも地域差はありそうで、北側→円形や楕円,不定形、南側→T字型が主流となりそうである。

この辺も火葬墓形式の北上を示すのかも知れない。

⑤ここまで、土葬:火葬の比率や今回の方形型火葬墓の動きを見て、中世では単純に西→東日本へ順に北上していくと言うよりは、土着信仰と新たな信仰の拡散度合いで、その地域の墓制が変わる様な傾向が見られるのではないだろうか?

なら、単発で出現している特異点は、直接そこに人の移動があり短期間運用から再移動したか?土着信仰へ飲み込まれたと考えるべきではないだろうか?

この地図を見る限り、北陸の濃さや時系列での継続性をみれば、そこから拡散したと考えるのが妥当だろう。

ならば、北海道の2つの事例は北陸からダイレクトに海路で北上した痕跡…これで説明可能だろう。

北陸編で述べた様に、

①関東御免津軽船らが既に運用されていた。

②鎌倉末、南北朝、室町(応仁の乱)、戦国と戦乱があり、武将間また宗教勢力同士での争いがあった北陸では、戦闘からの回避や奪われたり焼かれたりした縄張り奪還の足掛かりが必要になる…ら、北上する理由が明確にある。

③北陸や「日持」の様に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/06/193926

「北海道の寺社の盛衰とは?…道南の2寺をモデルに確認してみる」…

北陸や関東方面から東北へ長期布教せずほぼダイレクトに北海道入りしたてあろう僧侶の伝承はある

これらから、東北を飛び越えて北海道へ入る事は十二分にあり得る事になる。

これら布教や墓制の変遷を考えれば、「北海道の二例の方形型火葬墓は北陸から北上した修験系の僧侶に纏わる墓」で説明可能となってくる。

当然、その場合は「中世初期アイノ文化墓ではない」事になり、「アイノ文化の起源に修験有り」と言う論を強くする事になる。

ハッキリ書けば、中世北海道に於いてはアイノ文化と言うより、本州文化により近い文化集団が余市や千歳には居た可能性が高くなり、アイノ文化の萌芽はまだまだ先になる。

と、同時に…

「中世に北方から入ってきた訳ではない」事にもなる。

少なくとも、これが「修験僧の墓」なれば北方系の痕跡は消える。

この時代に道南~道央~胆振に居た人々は本州に極近い生活をし、東北,北陸と行き来して生業をなし、その結果得た「本州産の生活資材を使い暮らしていた」のだから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

何度も書くが、中世遺跡、特に居住遺跡が極薄い現状を鑑みれば、大陸らからの移住者が大量に押し寄せ住み着いた根拠もまた薄い。

遺物らの何を持ってして大陸からの移住者としてみなすのか?

殆ど「本州産」の文物で占められるのだが。

 

まぁ、まだ叩き台である。

今後としては、

・北海道や他の地域での傾向の確認

・特異な副葬らの動向確認

・政治的動きとして中世城館の状況との整合

・祭祀場についての知識拡大とその動向

・修験者,行者,占い師や僧侶の移動実績と霞の把握

・北陸らの地域史との整合

・先行研究論文の確認と整合

こんなところか?

何処まで迫れるか?

ジワジワと行ってみようではないか。

 

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−北陸編−」 中

世墓資料集成研究会 2004.3月

 

「出土資料からみたアイヌ文化の特色」 関根達人 2012-03-31

 

「大川遺跡発掘調査報告書(2000・2001年度)大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」 余市町教育委員会 平成14.3.29

 

「中世墓資料集成−東北編−」 中

世墓資料集成研究会 2004.3月

 

「中世墓資料集成−関東編(1)−」 中

世墓資料集成研究会 2004.3月