中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

中世墓を見ていくシリーズも北海道、東北、北陸、関東、中部,東海、四国、此処まで見てみた。

これらは謂わば「森」だと筆者は思っている。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

こんな風に個別の遺跡や墓を見ていくのが「木」を見る事。

以前から書いているが、「木を見て森を見ず、森を見て木を見ず」はNG。

話をして、論文を読んでるがその論の元となる引用文や史料確認をしない方は結構いらっしゃる。

筆者はその手の専門教育は一切受けていないので、疑問を持てば根拠となる発掘調査報告書迄遡らねばならない。

現在、森を見ながら木を見ている訳だが、森だけではなく「山」も学ぼうではないか…専門家が森や木をどんな捉え方でみているか?の概略だ。

コトバンクより、事典とは?

「物や事柄をあらわす語を集めて一定の順序に並べ、説明した書物。百科事典など。」…

「事典 墓の考古学」という本を紹介していただいたので、そこからそれを学んでみようかと。

この本は我が国の原始・縄文期からの墓制,古墳らについて時代毎に纏めている。

まぁ筆者は現在中世墓に特化しているが、前後の時代も接続出来ると考えればラッキーだ。

 

では中世墓の特徴から。

「中世は武士の時代である。その武士の墓は貴族の墓の模倣から始まった。平安貴族に近づいた奥州藤原氏が栄華を誇った平泉の中尊寺金色堂は、数少ない平安時代後期の墳墓堂遺構で、その須弥壇内に藤原清衡以下三代の遺体と四代泰衡の首級を埋葬することはあまりにも有名である。同時期の平安京では、天皇や貴族の遺体・遺骨を堂塔内に埋葬する事例が増加しており、奥州藤原氏がそれらの状況を意識しなかったはずはない。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

本書では中世は鎌倉〜江戸期迄の間を取り扱っている。

ズバリ「武士の時代」の到来。

その前、奈良,平安期では、古墳→墓陵や大化政権の薄墓令による副葬の簡素化、古代火葬の導入、北海道~東北における末期古墳の造営etc…が起こる。

踏まえてまずは、

京の貴族の「墳墓堂」が平泉の奥州藤原氏

→鎌倉殿らが意識し導入

→都では霊場信仰や舍利信仰から高野山霊場への納骨(髪)が開始、後に共同納骨へ

→同時に火葬の復活

→屋敷墓の開始

→鎌倉周辺で「やぐら」登場

→石組(配石)墓の造営とそれに伴う五輪塔ら石塔造営開始

→配石から集石、宝篋印塔らから石塔へ簡素化

→そして近世には、火葬の衰退と土葬墓の復活…

中世全体を俯瞰して、こんな流れが中世墓の特徴だとしている。

つまり、中世墓としての最終形態は墓標としての石塔の採用と簡素化になるのだろう。

勿論、墓制や宗派の伝播速度差が出るので、畿内と地方ではタイムラグや前代迄の踏襲らが関わるので、当然ながら地方色が出てきたりするし、特異点となる墓制が登場する訳だ。

ここで、

・墳墓堂…

特徴的なものは奥州藤原氏四代が眠る「中尊寺金色堂」。

他で墳墓堂採用の記録は、源頼朝北条政子北条義時、足利義兼ら。

実は北条義時の墳墓堂は発掘迄されているのだが、遺構残存度が低く埋葬方法も含めて詳細不明なのだそうだ。

霊場納骨…

12世紀位の天皇や中枢貴族が高野山へ納骨したりを始めたところから始まる。

時の宗教背景は、末法思想や念仏信仰が強まる時期。

弥勒浄土とされた高野山らへの納骨が記録される。

これは同時に陶磁器らを主に蔵骨器として使用する…ここも特徴的かも知れない。

古代火葬墓では金属の筒や球状の舍利へ納めた様で、それが白磁四耳壺らに置き換わる。

蔵骨器は古代火葬墓では、地方任官した中級貴族が現地で亡くなり、それを本地に戻す…こんな事も考えにあった様で(後に衰退、現地埋葬が主流に)、火葬は遺体の急速な白骨化と細片化から持ち運び可能となるメリットも考慮した模様。

それが拡散し、地方の寺社への納骨も起こる。

・屋敷墓や土壙墓、火葬墓…

墳墓堂が衰退し、皇族や上位の納骨が始まる12~13世紀に畿内以西を中心に各地で土壙墓の造営が開始される。

主流は屈葬か足だけ曲げた屈肢葬で、祭祀に用いられた土器類が共伴する事が特徴。

これは今迄の確認でも、土師質、瓦質、山砂碗、陶磁器類が多くカウントされる事でも頷けるだろう。

又、土豪らの屋敷墓は11世紀位から開始され、14世紀頃に衰退する様だ。

これは記述はなく筆者の想像だが、そう言えば北海道~東北での山城への「館神」や塚の造営もこの屋敷墓の延長上にあるのか?

更に、石組墓(配石墓)に五輪塔ら石塔を建てる形態も大凡13世紀後半位には出現する様で、石塔の地下だけではなく五輪塔の「水輪」内部を彫りそこに納骨したケースもあり、遺骨は地下のみでなく塔内に埋葬するケースもあった様だ。

同時に、西側で集石の火葬墓や火葬土壙が拡散する。

これも前項の通りで、

鎌倉以西や東北に多い円形や不定形の浅めの土壙で火葬後に蔵骨器をそこに埋め集石で覆うタイプ、関東中心のT型火葬墓の拡散が起こる。

で、先の石組墓(配石墓)らは、小型化や連結化が15世紀位に起こり、石組(配石)が消滅、単なる集石型へ簡素化を起こしていく。

またT型火葬土壙墓の出現らもこの辺の時代らしい。

その後、この火葬墓の小型化や簡素化が顕著になっていき、小型の物が群集する様になる。

集落の墓域化であろうか?

特に火葬土壙墓は群集が多く、同一エリアを火葬執行空間として維持したと考えられ、そこには墓域を管理し、火葬専門に行う技術者の存在を匂わせるとの事。

先の左上の京都「京大構内遺跡 火葬塚」の様な、都会での共同火葬場の登場もそんな職能集団の存在を想起させる。

「長吏管轄」になるのだろう。

この様な小型化,簡素化傾向は15~16世紀に顕著化するが、一部を除き17世紀迄は継続はしない様だ。

火葬が廃れ出し、並立していた土葬化が顕著になっていく訳だ。

・やぐらの登場…

やぐらは屋敷墓の終焉頃に鎌倉中心に開始されるとある。

だが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

どうもやぐらは鎌倉周辺に留まらず、神奈川東部〜旧安房国周辺に遍在し、似たものは後は北陸。

この辺、北陸の一部については言及しているが、旧安房国(千葉県南部)には触れていない。

13世紀位の鎌倉の都市化や御家人ら武士の集住がその理由として挙げられている。

・土葬墓…

何せ往古から最もポピュラーな墓相、ここは断片的に引用しよう。

「土葬墓は、遺体を残す死体処理として原始以来、命脈を保ち続けてきた葬法であり、火葬導入後も社会の多くの階層が継続していたと考えられる。古代以降に造営される墓の多くが、四角形の墓墳を掘り、内部に遺体を置く葬法て、墓壙内に礫や炭化物を敷くものも散見される。遺体を墓壙内にそのまま置くものを土坑墓、さらに木製の棺に納めるものを木棺墓としている。多くの場合、木質が失われていることが多く、木棺を構築する際に用いられる鉄製の釘の存在から、木棺を想定する場合が多い。また遺体を置く墓城床面にのみ板材を敷くものや、蓋のみをふせるものなど、多様なあり方を見せる。」

「遺体の埋置姿勢は、全身を伸ばす伸展葬、全身を曲げる屈葬、肢のみを曲げる屈肢葬の三者があり、身体の向きを仰向けにするもの、伏せるもの、横向きに置くものの違いがある。現在、「死者の北枕」という表現が用いられるが、中世における北枕志向、いわば釈迦の涅槃図を模し頭北西面を意図したものは、人骨が残されている例からみると、多くの地域で規範的に作用 しているとは言い難い。人骨が残存していないものでも墓城主軸を観察すると、必ずしも南北軸を基調とするわけてはなく、頭位方向は造墓集団が置かれた社会的環境によって異なり、シンボル的な山や海、集落の地割に規制されているものが存在している」

「死者ならびに死者を冥界へ導くものへの供えとしてさまざまなものが献じられてきた。供えものには、その時々、場所において当時の人々の死者に対する思いと表裏の関係として、みずからの冥界への備えの表現として多様な行為として現れる。死者の出現から死穢の除去に対するさまざまな場においてモノが献じられてきた。死者を飾る死装束、弔いからくる共食のための食材を盛る器、仏具など、死者に供えられるものすべてが副 葬・供献という行為の表現として見ることができる。改めて「副葬」「供献」という用語について整理してみると、それは死者との距離(関係性)において使い分けが行われる。副葬は、死者に最も近く・深く・重い関係性を有するもので、死者の愛用品や冥土への「所持品」などが該当する。一方、供献は死者と遺族との関係において献じられるもので、副葬行為よりは、死者との距離がやや遠ざかるものである。しかし、相互の区分けは単純ではなく、すべては「供える」という行為から残された結果を見ることになる考古資料のみでは理解し難い。現象面の理解として棺内埋置事例を副葬、棺外埋置事例を供献として便宜的に理解しているが、それが葬送者の思いを表現しているのかは、理解の再構成を図る必要がある。

次に埋置位置について見てみよう。副葬品の多くは、遺体と墓壙、棺の形状から規定され、四角形に対する人体形状から 頭部両脇、足部脇の二ヵ所に隙間が存在し、一頭部両脇における隙間への埋置例が最も多い。」

「副葬・供献される品々は、死者に対する遺族の思いを表現するように、死者の生前に使用していたものや冥土への供物、さらには死者を魔物から守るための道具が供えられている。具体的には、武器、食器、化粧道具、装身具から工具までさまざまな品々が出土し、被葬者の社会的位置を知る上で、多様な情報を与えてくれている。武器には、刀子、小刀、刀が、食器には輸入陶磁器、国産陶器、黒色土器、瓦器、土師器、石製品、鉄製品などの供膳具、貯蔵具、調理具が、そして化粧具、装身具には鏡、毛抜き、玉類がある。工具類には、鉄製の鎌、鉄をはじめヤットコなどの鉄生産に関わるものも納められている例がある。その他として漆製品、木製枕や銭貨があり、これらの組み合わせによって被葬者の階層が分けられる。これらの品々は、食器・化粧道具類は、頭位左右ないしは頭頂部より上の空間に置かれていることが多く、武器は胸部ないしは左右の手の部分に、工具類も左右の手の部分に置かれている事例が多い。あたかも、冥土への旅立ちに際し、「身」を守るための道具類は、 即時使用に備えるかのように遺体の身近に置き、その他の品々は、墓墳や棺の隙間的空間への埋置を行なっている。

性差と品々との関係は、人骨と副葬・供献物が揃う事例が限られているため、普遍化することには躊躇するが、これまでの 検出事例では、武器は男性に、化粧具は女性との相関性が高い。また中世においては男女とも副葬・供献品の保有率に差は認められない。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

と言う訳だ。

つまり、中世墓においては、

「北枕」はステレオタイプ

「火葬メイン」もステレオタイプ

「副葬位置」はむしろ墓内空間と人体形状の隙間による…

往古より最も使われた墓制なので、多様且つ背景や経緯が複雑に絡み、地域差を生んだりする様で。

実際の墓から割り出せばこうなる。

現実、中世墓資料集成を見てきた限りでは、時期等によりゴチャ混ぜだし宗派によるのか?同じ墓域で変遷したりする。

地域内で同様な傾向を持つ場合もあるが、それがその地域内固有で継続する訳ではないようだ。

筆者が先に「宗派の影響」を示唆したのが正にそれで、時系列的変動は新宗派の伝播や移住者比率の変動の影響も鑑みる必要はあると考えるからだ。

それまで明確な墓標が無かった所に時宗が伝播すれば、板碑が建つ様になるだろうし、その信仰比率が上がれば当然板碑群が形成されだす…こんな事があるだろうからだ。

ましてや、それに往古から続く墓制を継続する一族があれば、そりゃ複雑に入り組む様になるのは目に見える。

全体像だけで判断出来る訳ではないと言う事になる。

予想通り。

故に、山を見て、森を見て、木を見る…と考える。

さて…ではクライマックスといこう。

北海道だ。

アイヌ墓には土葬墓として周溝墓・盛土墓・土坑墓、火葬墓として配石墓・土坑墓があり、和人墓には土葬墓として 盛土墓・配石墓・土坑墓、火葬墓として盛土墓・土坑墓がある。

墓域をアイヌ墓のみで構成する遺跡は北海道東北部から道南部にまで広くみられるのに対して、墳墓を和人墓のみで構成する遺跡は道南部に限られる。

たとえば、道央部石狩の千歳市末広遺跡ではアイヌ墓の墓域に和人墓が点在し、道南部檜山の上ノ国町夷王山墳墓群では和人墓の墓域にアイヌ墓が点在する。両遺跡では墓域の共有はあっても墓制の融合は認められない。」

アイヌ土葬墓は伸展葬であるため墓坑は小判形・隅丸長方形・楕円形・方形・長台形である。和人土葬墓は(仰臥・側臥) 屈葬であるため墓坑は楕円形・小判形・略方形・方形である。アイヌ墓のみにあるのは一次葬の合葬、和人墓のみあるのは鉢被り葬・火葬施設である。周溝・列石は和人墓になくアイヌ墓にある。和人墓の封土・葺石は墓坑直上を覆う小規模なものであるが、アイヌ墓のそれは広く覆う。火葬は両方の墓制にあるが、アイヌ墓には伸展葬の火葬があり集骨はなく、和人墓には集骨がある。アイヌ墓の副葬品は骨・骨製矢中柄などの自製品と太刀・ 鉄鍋・刀子・漆器・ガラス玉など少量の移入品によって構成され、和人墓は銭(六道銭)・漆器・数珠がある。

以上より、アイヌ墓と和人墓には分布域と外部施設・内部施設・副葬品の相違があり、和人が本格的に進出した十四世紀後半には二つの墓制が並立しており墓制の融合はない。

アイヌ墓における埋葬姿勢は伸展葬がほとんどであり、この初出は擦文文化期の九世紀中葉で、それ以降継続する。墓坑平面形のうち、小判形は擦文文化期以前に遡り、小判形・隅丸長方形・楕円形・方形は中世的平面形であり、長台形は新しい平面形である。四辺を板材で囲む槨構造は、古墳時代後期並行である続縄文時代後葉(いわゆる北大式期)から平安時代並行である擦文文化期に類似があり、低平な封土・浅い周溝・周溝平面形は擦文文化期の盛土墓・周溝墓に類似があり、封土規模が墓坑平面形規模に規定される造墓方法も共通する。アイヌ墓制は、内部施設・外部施設は擦文文化以来の伝統を受け、副葬品が新来の要素を受容した墓制である。

和人墓の系譜を示す遺構には、板碑・火葬墓・火葬施設(火葬土坑)があり、六道銭の副葬もみられる。和人墓制は渡島半 島に進出した和人が本州から持ち込んだのであるが、詳細な系譜は今後の課題である。

アイヌ墓制の階層性については、元和四年(一六一八)、松前 で布教したキリスト教宣教師アンジェリスの報告書訳文によると「富裕な者は死骸を納める大きな一つの箱を備えて、直ちにそれを埋葬する。貧乏人は一つの嚢の中に死骸を入れ、同様の方法でそれを埋葬する。」とあり、木槨の有無が貧富の差を示す。盛土・周溝が擦文文化期以来の伝統であり、被葬者は伝統を重んじていたことを示す。一方、木槨・外部施設がある墓が 墓域について隔絶性を表現してはいない。これらより、木槨・ 外部施設が階層差を示すというよりも擦文文化期からの伝統継承と考えられる。ただし、伝統継承が特定階層によって行われたかどうかは未証である。副葬品については、種類と量が被葬者の性差(=性分業)に由来し、個人的な志向が強く影響することを示している。内部施設には個人的状況が反映され、外部施設には伝統という集団における状況が反映される。副葬品には 貧富の差といった個人の当時の状況が反映したといえる。

和人墓の様相としては、夷王山墳墓群においては、標高の高低によって特定の墓域を形成する。一方、利別川河口遺跡の和人系火葬墓は墓坑規格・副葬品の差異がなく、階層を想起させる状況はない。夷王山墳墓群は勝山館館主蠣崎家と家臣団の墓地であり、利別川河口遺跡は一般集落の墓地だからであろう。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

ここの参考文献は、

・児玉作左衛門他「蝦夷に関する耶蘇会士の報告『北方文化研究報告』九  1954

・加藤邦雄「北海道の中世墓について」    石附喜三男編『北海道の研究』二所収  1984

・田村俊之「北海道における近世の墓制」 『北海道考古学』一九、1983

・宇田川洋「チャシ跡とアイヌ墓」(宇田川洋・野村崇編『擦文・アイヌ文化』所収  2004

・鈴木信「アイヌ文化期の墓制」  狭川真一編『日本の中世墓』所収  2009

との事。

では中身を纏めてみよう。

①傾向…

・アイノ系

土葬墓→周溝墓・盛土墓・土坑墓で伸展葬。

火葬墓→配石墓・土坑墓。

一次葬の合葬、周溝・列石はアイノ系のみで、火葬で収骨は無い。

・本州系

土葬墓→盛土墓・配石墓・土坑墓で仰臥,側臥の屈葬。

火葬墓→盛土墓・土坑墓。

鉢被り葬・火葬施設は本州系のみで覆土らの規模は小さく、火葬での収骨有り。

②形状…

・アイノ系→墓坑は小判形・隅丸長方形・楕円形・方形・長台形で伸展葬が理由

・本州系→墓坑は楕円形・小判形・略方形・方形で仰臥・側臥屈葬が理由

③副葬…

アイノ系→骨・骨製矢中柄などの自製品と太刀・ 鉄鍋・刀子・漆器・ガラス玉など少量の移入品。

本州系→銭(六道銭)・漆器・数珠

④系譜…

アイノ系→擦文文化期の九世紀中葉に出現した伸展葬が伝統的に継続。

本州系→本州から持ち込まれたが、詳細は不明。

以上、こんなところか。

さて、お気付きだろうか?

 

考察してみよう。

①系譜…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…

考古学系で筆者が一番最初に手にしたのがこの考古学雑誌。

発掘者の生の声を読みたかった。

で、上記④系譜…の部分に付いては正にピタリなのだ。

恵庭古墳群は末期古墳と土坑墓の複合遺跡なのだ。

古墳→本州系、土坑墓→在地系と考えらる。

そう、引用文の八世紀中葉はこの末期古墳からの系譜。

この段階でも土坑墓は伸展葬ではなく、楕円主流の仰臥屈葬が主で、理由が続縄文文化の墓がそうだからだ。

故に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

「この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?」…

こんな判断が成り立つ。

自ら、「本州の古墳文化の末裔」と言ってる様なもんなのだが…

大体、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

元慶の乱…ぶちギレた秋田県民と北海道の選択」…

蝦夷だエミシだとされる東北では、38年戦争や元慶の乱で、政府軍と戦った経緯がある。

元慶の乱で渡嶋衆がどちらについたか?、政府軍側だ。

そんな親朝廷の集団が、どうやって北海道固有の集団に成り得るか?

古墳文化を受け入れ、従来の屈葬を「止めた」…この辺の経緯をすっ飛ばしてそういうのは、如何なものか?

つまりこれが真逆に、北海道土着の続縄文文化での屈葬主流を継続していたなら、土着文化を継承者だと納得出来る。

だが、現実は本州の古墳文化を需要後、それを継承したと書いている。

これで「往古から単一の土着固有」と言えるのか?…ムリなのでは?

墓制のみで見れば、そう言わざるをえないのではないか?

②傾向と形状,副葬…

筆者が「え?」と思ったのは、本州系の系譜が解っていないと言う記述。

本州から「渡った」と自ら書いてあるのにだ。これ、道内比較しかしていないのではないだろうか?と考えたからだ。

土葬は往古から行われ、「本州でも多様且つ規範より地の状況により規制される」…これは本州以南での傾向として記述される。

ここで敢えて「森」をみてみたい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

そして、「木」を。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

遺構繋がりでチャシは?こう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

まだ、土葬:火葬の比率からではあるが…

津軽〜糠部,下北半島の傾向はトレース出来そうだし、現実として「森」は北東北からの流れと合致しそうだ。

「木」としても「①系譜…」や個別の特異点とされる部分は、近世副葬の垂飾や耳飾らを除けば本州以南にもありそうだし、墓の形態も個々にある。

古銭もガラス玉も双方にある。

これなら同じものをアイノ系では「古銭,ガラス玉はニンカリ」本州系なら「六紋銭,数珠」と読んでる様なもの。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

「やぐら」の様に、明らかに墓制が違うなら一目瞭然だが、本州からの流れを無視し同様のものがあるのにも関わらず、「北海道土着固有の文化」と言えるのか?

全体像を捉えた上で「ここが変化点だ」…と言える部分を解明出来たなら、話は別だが、本州からの流れを無視してるなら、それはムリな話だろう。

そもそも論なのだが、アイノ系と本州系とされるものは融合をみない…二度くらい書かれるが、これ、どうやってアイノ系か本州系か元々を決めたのか?、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

文化定義や時代区分すら明確に設定出来ないのにも関わらず。

ここで、民俗系で近世,近代では火葬の記録が極薄い割に、考古学では火葬もありと言い、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…

あくまでも最終形態はここに行き着くのだ。

近代迄ある程度管理された墓域で、伸展葬も屈葬も火葬もゴチャ混ぜ。

さて、本当はどんな時間軸経緯でここに行き着くのか?

継続してると言うなれば、説明する義務を負う。

 

さて、如何であろうか?

どんな生活文化だったか?は、住居や墓の発掘事例からの変遷を辿るのは必須だろうし、「事典」にある→一般的認識だろう。

つまり、大学らでそちら系を習得するなら、避けて通れぬ道…学習していると言う事。

筆者は書いてきた。

「専門家はこれらを全て知っている、知った上でこう主張している」と。

こと中世に着目したが、知っているとする根拠はこれ。

学習している。

その上で、北海道を切り離して見てるだけ…そう見えるのは筆者だけか?

まぁ、我々的には通説に拘る必要はない。

多分、我々と似た様な論文はあるだろう、あまり引用されてはいないだろうが。

まだまだ入口…先は長い。

 

参考文献:

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10