https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編編(1)(2)」を確認」…
ここから繋げよう。
さて、本ブログもお陰様で
504の投稿で50000アクセス突破した。
2020年5月から開始して3年9ヶ月だろうか。
この数字がどんな価値なのか?、筆者的には単に学ぶ過程を公開しながらただ積み重ねてきただけなので、あまりよく解らないのだが、ステップを踏む過程での目印と思えばそんな価値はあるだろう。
拙い文章に誤字脱字…
それでもこんな数字になったのは、一重に見て下さる皆様のお陰。
ありがとうございます。
今迄も途中で目印の場合は、割と原点に戻ったり地元ネタをやっているので、前項に纏わる内容でいってみよう。
ズバリ「十字型火葬墓」がある所はどんなところか?だ。
これは、火葬墓又は火葬施設(埋葬せず火葬のみ行う)で、火葬主体へ十字型の通風穴を施す遺構を敢えて便宜的にこう書いている。
現状進めている「列島中世墓の俯瞰」でも取り上げているのだが、
北海道遠征で見かけた
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501
「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…
・上ノ国町「夷王山墳墓群」
一箇所、これが初見、他に
秋田県の
・大館市「山王岱遺跡」(14~15世紀)
・琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)
・琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)
4箇所と、
市原市「新地遺跡」(15末〜17世紀)
の1箇所、今のところはその6ヶ所のみ。
また前項で、
京都府の
「キ型」は見つける事が出来た。
ここで、長期にこの形を使い続けているのは筆者の地元「秋田県」になる。
位置関係は、
白矢印が米代川河口…
古い方から、
赤丸…からむし岱Ⅰ遺跡
緑丸…金仏遺跡
紫丸…盤若台遺跡
青丸…山王岱遺跡
となり、米代川沿いと能代平野にある事が解り、南はそのまま八郎潟沿いに平地が伸びて、秋田平野北部と繋がる。
中世〜江戸期には羽州街道が通る辺り。
では古い方、からむし岱Ⅰ遺跡の火葬墓は?
米代川にも隣接する。
発掘調査報告書では、縄文の竪穴住居や落とし穴、平安の掘立建物跡、そして中世はこの火葬墓跡SK-14一基を検出、
平安の掘立建物SB-22の上の層から掘り込まれ、中央付近で柱跡P10に達している模様。
明確な人骨ら遺物は検出されておらず、火葬施設なのだろうか?
幾つか自然科学分析が行われていて、土中の軽石はTo-Aつまり十和田噴火時に排出された物特定され、同時に火葬跡からの栗を燃やした跡のC14炭素年代は1σで985~1035年と考えられている。
上記の通り、中世墓資料集成東北編では9〜10世紀と記述あったが、この測定結果で見ると10~11世紀となるんだろう。
報告書内では測定結果からは古代末位だが、周囲の十字型火葬墓の年代から中世墓と判断していた様だ。
これを鑑みると、この十字型火葬墓の秋田での出現は平安中期位になり、丁度、今の大河ドラマ「光の君へ」の藤原道長と被る頃だ。
実は、この辺の年代を知りたかった。
この時代は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652
「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…
当然ながら、915年の十和田噴火の後になる。
何らかの理由でここにこんな火葬の仕方をする人物が移入したか?、「作法」として取り入れる宗教的文化の流入があったのか?…こんな事だろうか。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/12/214629
「北海道には文字がある続報…ここまで下がったハードル」…
十和田噴火で覆われた地域、特に比内には既に仏教は伝来していた様で。
「火山灰考古学と古代社会 十和田噴火と蝦夷・律令国家」 によれば、一部は火山灰が飛散した十和田方面へ移動したと思われるので、その後に移入したのだろうか?
いずれにしても、
①今のところ、十字型火葬墓の造営開始は十和田噴火の後の西暦1000年前後…
②荼毘後に収骨した火葬施設の可能性が高そうだ…
ここまでは解った。
ただ一基のみ。
特異点なのか?
同書には「磐若台遺跡に複数検出」とある。
では今度はそちらを。
磐若台遺跡は、旧琴丘町,現三種町で、能代平野の南部で八郎潟に面し、南側が秋田平野北部の所謂湖東地区である五城目町,八郎潟町と隣接。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/202134
「折角だから、9世紀前葉以降最大規模の反乱を復習してみよう…「元慶の乱」とはなんだったのか?」…
琴丘を含む周辺を河北と読んだらしいので比内ら同様、元慶の乱で反乱軍だったのか?
中世なら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026
「生きていた証、続報32…秋田県「洲崎遺跡」は生活痕残る中世町屋遺跡、そして…」…
今迄も何度か登場する「洲崎遺跡」がある井川町も直ぐ南。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/25/104404
「「へっつい」を伝えたであろう石工集団…生きていた証、続報11」…
鎌倉末〜室町期の「時宗の板碑群」があるのがこの五城目,八郎潟,井川の各町。
その板碑や宝篋印塔らは県内のみならず、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435
「紀年遺物による「安東兼季」と石工活動の特定…生きていた証、続報15」…
安東氏を通じて、十三湊や鶴岡と繋がりを持っていたとも考えられている。
更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/10/093753
「竈→石工→鉱山への回帰…生きていた証、続報13」…
この時代、石工だけに留まらず、五城目の銅座や市が開かれ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/11/184237
「秋田エミシは平安期で凝灰岩の耐熱性を知っていた…生きていた証、続報21」…
平安〜中世での製鉄や鍛冶遺構を伴う遺跡が湖東〜河北には多数あり、それらを伴う中世土豪らの屋敷跡があったりする。
踏まえ…
「( 4 )火葬墓
20基発見された。平面形によって3分類できる。楕円形で焚き口を持つもの4基 (SK693、 SK694、 SK835、SK834)、円形・楕円形10基 (SK692、SK817、SK480、SKl196、SK475、SK479、SK477、SK472)、不定形で浅い掘り込みを持つもの 6基 (SK471、SK474、SK476、 SK473、SKl180、SK512) である。焚き口を持つタイプは、大館市山王岱遺跡や鷹巣町からむし岱I遺跡に類例がある。しかし、山王岱例が長軸 2m前後で、あるのに対し、盤若台例はいずれも 1m程度と小さい。茶毘に付した人体をそのまま埋めているので茶毘墓である。これらの奈毘墓はそれぞれの長軸が直交するように配置されている。同時に構築されたものだろう。
これらの遺構は方形周溝のすぐ近隣のごく狭い範囲内に集中している(第105図)。
人骨の残りには良悪があり、部位を判別出来るものからチョーク状となるものまである。
21号は長方形のプランを持ち他に比べて倍以上の大きさを持つ。焼土が遺構内に充満している反面、人骨を全く含まない。骨が全て回収されたと考えると火葬場である可能性が高い。後に削平及び撹乱を受けて上面は残っておらず、プランの一部も欠損している。本来はより上面で火葬を行っていたと考えられる。」
「3. 小結
墓域を中心とする遺構が数多く発見され、本遺跡の中世における人間活動については以下の 3点が明らかとなった。
( 1 )方形周溝・火葬墓というタイプの異なる墓が狭い範関内に集中して発見されたことにより、中世の墓域を確定することが出来た。
( 2) 6基の井戸が発見され、多くの木製品が出土した。特に 4号井戸からは多くの木製食器が出土した。
( 3 )遺跡内の限られた範囲から中国陶磁器が多く出土した。全てが破片ではあるが、最小個体数は26である。また白磁四耳壺の様に全体の形がわかるものもある。所有する胸磁器の個体数が豊富なこ
とから、これらの所有者がかなり有力な人物であったことを想像できる。」
「4.中世
狭い範囲からまとまった量の中国陶磁器が発見された。それらの年代はみな 12世紀末から13世紀前半におかれるものである。平泉に特徴的な広東省系の白磁が 1点もなく、全てが福建省系の白磁であ
る点も、盤若台遺跡の年代が平泉に後続することを示している。平泉町埋蔵文化財センターの八重樫氏のご教示によれば、東北地方の中世遺跡は陶践器の年代から以下のように時代別に分類できるという。
1期 平泉と並行し、平泉の滅亡と共に衰退するもの
2期 平泉と並行し、かつ滅亡設も存続するもの
3期 平泉の滅亡前後に現れ、そのまま存続するもの
4期 平泉の滅亡後に現れるもの
この中で盤若台遺跡は3期にあたる。出土した中国陶磁器のうち最古のものが12 世紀後半の青磁で、主体となる時期は 12 世紀後半 ~13 世紀前半である。本遺跡は平泉滅亡前後に現れ、平泉が滅亡した後に盛りを迎えることを示す。
ところで秋田県中央地域から南部にかけて古代末から中世にかけての円形または方形周溝が構築される。青森県野木遺跡や岩手県でも奈良時代を最古とし平安時代から中世にかけて構築されている。
琴丘町の近隣では、五城目町岩屋古墳群のように平安時代の方墳群がある。盤若台遺跡の方形周は、古代の方墳や関東地方などで見つかっている主体部を伴う方形周溝の系統上に位置づけられる可能性
がある。 5基の方形周溝には主体部が見つからなかったものの、豊富な中国陶磁器を所有し得た有力者達の墓である可能性が高い。また、方形周溝と共に慕域を形成する 20基の火葬墓はその関係者であると推定される。」
我々は中世墓に注目して確認しているが、磐若台遺跡はむしろ先述の様に平安からの製鉄,鍛冶遺構を伴う遺跡として着目されていて、自然科学分析もそちらが強い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/07/202638
「これが復元された「製鉄炉」…「まほろん」展示の「箱型炉」を見てみよう」…
何せ古代製鉄の「ズク押し法」の精錬(大鍛冶)部分はあまり明確に解明されていない。
それらしい事をやっている形跡があるので注目するのは当然かも知れない。
縄文から断続的に古代〜中世〜近世と土地利用された痕跡があり、平安の居住区や製鉄工房→中世の墓域や製鉄,鍛冶工房と姿を変えている様だ。
5基の方形周溝を中心にして20基の火葬墓が検出され、その内の4基が十字型火葬墓になる。
方形周溝は中心部のマウンドが江戸期位に平滑された様で、周溝から珠洲系陶磁器片や人骨,馬やテンの獣骨も検出しているが、主体部が平滑されているので墓とは断定してはいない模様。
東北の他の事例と合わせ、方形周溝が若干古く、それに添わせる様に火葬墓を配置したと考えている様だ。
最初に書いている磐若台遺跡の12〜13世紀と言う中世年代はこの貿易陶磁器とC14炭素年代によるもの。
平安後〜鎌倉期位と判断している様だ。
ここで忘れてはいけない事例として、覚えておく必要があるのが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246
「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編編(1)(2)」を確認」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…
元々別の火葬施設で荼毘し、蔵骨器に収骨後収めていた「方形配石墓」。
過程で小型化や連結、配石の欠如等の変遷をしたが、北陸「火葬+埋葬」を一箇所で同時に行う様な変遷も、秋田の十字型火葬墓の事例で見られる様に、起こり得る事だ…と言う事が言えるのではないだろうか?
たまたま秋田では米代川沿いの地域〜湖東地域に限定されるので、そんな変化が解りやすく見える。
北陸→北海道と飛んではいるが、日本海ルートを利用して移動したなら説明は付く。
何度も書くが、武田信広や蠣崎氏が北陸から僧を招聘した話すら古文にはある。
戦乱からの回避等が伴うなら、移住はあり得るだろう。
背景条件はピタリの上、時代背景も整っているのだから。
さて、ではこれら遺跡で暮らしていた人々はどんな風だったのか?
十字型火葬墓に着目した段階で事前に市町村史に目を通しているのだが、あまり明確に記載されてはいないのが実情で、能代市史、峰浜村誌、八森町史、八竜町史、琴丘町史らを読んでみると、これら似た様な記述になる。
ザッと書き出せば、
・9世紀…
・10世紀…
十和田噴火
・11世紀…
・12〜13世紀…
平泉栄華から奥州合戦で藤原泰衡を討った「河田次郎」や鎌倉殿に反旗を翻した「大河兼任」、橘公業の小鹿島受領
・14〜15世紀…
建武の新政の葉室光顕の着任と惨殺、十三湊から南下した「湊安東氏」登場
・15〜16世紀…
「安東政季」の檜山入り、南部氏のと抗争、檜山安東氏と湊安東氏の確執と統一による戦国大名化
こんな感じ。
後は、寺伝や鉱山伝承等ポツポツで、土豪の実態や民衆の状況の詳細が解明されている訳ではない。
割と十三湊と秋田湊との関連性から、安東氏の影響下にあったと推定する処が多い様だ。
つか、安東氏の戦国大名化前の古文が残されていないのが実情で、研究があまり進んでないのが実態か。
とは言え、からむし岱Ⅰ遺跡が十和田噴火後に断定出来るので、書き出したところへ当て嵌めれば、秋田城廃絶→土豪台頭→河田次郎,大河兼任→安東氏南下…こんな時期と合致してくる。
ことに大河兼任はこの地域に居たのではないか?とも言われるので、遺跡の実態を見れば少なくとも言えそうなのは、
・既に仏教伝来、火葬も伝わった
・郷を治めた土豪は製鉄,鍛冶を駆使出来た
・土豪は貿易陶磁器を手に出来ただけでなく、国内陶磁器、漆器、木工品と生活用品は種類豊富
・竪穴と平地建物の併用
・馬や毛皮を取る獣が検出
・途中から金山伝承あり
つか、古文では空白の割には、遺跡に出る状況はまるで真逆で、土豪,民衆の暮らしは結構豊かだったであろう事が想起されるのではないだろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529
「「余市」と「脇本城」との関係…貿易陶磁器から見える武将の存在」…
余市と時代的には重なり、十三湊に先行して平安から既に開け、津軽へ製鉄や須恵器窯を伝搬させたルート上に当たり、更に秋田城時代から北海道の人々への米の供給の為の穀倉地帯の中核を成していたであろう地域。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842
「「線刻を施す食器」は、勿論在地の物…似たようなものは秋田にもある」…
日本海交易で繋がりを持ち、お互いに豊かに暮らしているなら、民衆レベルの交流は全く問題ないであろうし、少し後代と考えられてはいる様だが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/04/200752
「秋田の中世城館の石積み、続報…特別ミッション、秋田の「蝦夷館」に石積みはあるか?」…
須恵器らから、古い時代でも存在はしたのだろう「蝦夷館」の石積みは、可能性として余市の石垣,石積みの源流とは成り得る訳で。
それらを鑑みれば、夷王山墳墓群の十字型火葬墓は、この周辺の一部集団の移住や文化的リーダー(例えば宗教家)が移住して開花させた…と仮説しても問題はないのではないだろうか?
で、今のところ、北,東日本と関西迄覗いて、十字型火葬墓に近い形態は京の長岡京付近のみで、西日本の確認を残すのみ。
次は古代墓の確認になるだろう。
源流と成り得る宗教集団が見つかれば、日本海交易と照らし合わせて、誰が伝搬させたか?理解出来て来るだろう。
まぁ「系統建てられた学問」なぞやっていない筆者的には「絨毯爆撃」で片っ端から見ていくしかないが。
それでも広域の墓相状況は同時に学べる訳だ。
さて、如何だろうか?
各市町村史はそれぞれ独立して書かれているが、今回の墓相や陶磁器ら交流や文化痕でそれぞれ独立したものを接続してみれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/27/181439
「点と点を線に、そして面に…生きていた証を追う」…
一方で消えてしまった関係を、もう一方から探り出す事も可能なのでは?と考えたから。
当初グループ検討を開始時点で目指したのは、各地域でそれぞれ資料館巡りらをしてる方々とネットワークを作り、各地域史を縦糸に、特定アイテムや遺構を横糸にして、機を織る様に少しずつ面にしていってそれを北海道と接続する…だ。
これを学閥なぞ気にしないアマチュアや通う資料館の学芸員さんらとコミュニケーションをとり進められれば一気に広域情報を得られる…謂わば地方資料館情報のネットワーク化。
これを進められたら、一地方では見えない詳細情報をお互いに共有可能だろうなと。
横糸が堅固に結び付けば、縦糸の間違いも検証出来るだろうなと。
まぁ現実はそんな簡単に情報共有出来る様なスタイルにはなる訳もないが。
その分筆者も含めて、あちこちを自分の眼で確かめる様になったのだが…ムリなら自分で確かめれば良いのだ。
「継続は力なり」…
誰かの1アクセスが50000アクセスになったのも継続から。
ネットワークも少しずつ広げたら良いだけで。
「周知の事実」が広がれば、矛盾も見えるし騙される事も無い。
コツコツ積み重ねるのみ。
参考文献:
「からむし岱遺跡 −大館能代空港アクセス道路整備事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書−」 秋田県埋蔵文化財センター 2002年3月
「磐若台遺跡 -一般国道 7号琴丘能代道路建設事業に係る発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 2001年3月
「磐若台遺跡 -主要地方道琴丘上小阿仁線高速交通関連整備事業に係る発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 2001年10月