「通商の民」に不足する物…船と港は何処?

かつて、こちらの埋蔵文化財センターの方と雑談させて頂いた事がある。
秋田では、陸奥多賀城から秋田城へ向かう古代東山道のルートが解明されていない(雄勝城もまだ未確定)。らしいものはにかほ市の遺跡のみ。ポツリ曰く「無いと言う事は、水運」だったりして…
俺は即同意した。何故なら釣り船で沖に出ているから。秋田…山形~青森にかけての日本海は、場所の特定が簡単に出来る。南の鳥海山や飛島、砂浜を挟んで男鹿半島、砂浜を挟んで白神産地…砂浜を挟んで龍飛崎が見える頃には、そこに渡島は見える。砂浜の沖に居ても、山や半島で簡単に山立て可能なのだ。
それを話たら、そんな見方もあるのかと言われた。
シーパワーとランドパワーは、微妙に判断基準が違っていたりする。全く同じ視点で考えることなど間違いの元になる。

さて、北海道の歴史を見る上で全く欠けている視点があると考えている。シーパワーの目線。
我々は、北海道~東北のルートに着目している。その延長上には、港が必要になる。
港は立地条件が限られていて、船乗り達の要望に合わせねば役には立たない。
さて古代~中世の北海道の港は何処に?
松前の港しか答えられる方は居ないだろう。
しからば、船は?
現状レプリカ含め、帆付きの全長10m位の船だけだろう。が、それで、商売を成り立たせる事が出来るのか?山丹貿易とは言うが、コタンの人々が安堵出来る食料や物資を運ぶには小さすぎ、外洋出られるの?疑問持たざる終えない。f:id:tekkenoyaji:20200502145749j:plain
これが、青森県深浦の「風待ち館」にある七百石船のレプリカ。
遣唐使船や室町期の宗船等は全長だけみれば千石船同等で約30mの大きさでこれよりデカい。現状北海道にある小舟と比較になるのか?ムリ。
沿岸で小商売、それも相手がこんな船で来る前提ならば成り立つが、自ら「通商」に出向くならば、あの小舟では一度の航海で積める荷物が少な過ぎる訳。
擦文文化を持った人々は、「越國(新潟~北陸)」迄来た記録が残る。なら、アイヌ文化を持った人々がそれをやる事が可能なのか?
答えは「否」。あの小舟では饗給で得た米を大量に運べない。
港が無い、船が無いのに「通商の民」と言えるのか?
これ、松前に奪われたなぞと言う答えは使えない…何故なら松前の完全統制下に入っていた事になるからね。

我々はこれに対する仮説も持っているが、それは別の機会に。
こんな矛盾を持ちながら平然と、「通商の民」って話を鵜呑みにするのも如何なものか?シーパワーの視点を持てば、「あり得ない事」だと即答が必要なのだ。

何故、こんな矛盾を疑問視出来ないか?
それは、アイヌ文化を持った人々居たと言う事実から、時の流れを遡るからだと思う。
我々の様に、縄文→擦文→○○と、時の流れに沿って積み重ねれば、そんな矛盾に直ぐ気付く。
だって、前者では取捨選択で失った物は見えなくなるが、後者なら取捨選択そのものが見えるからだ。

歴史は、机の上で流れが決まりはしない。
必ず、現場の取捨選択の場面で流れが決まる。
我々が、フィールドワークを重視するのはそこから。