このテーマが如何に困難かの理由…生きていた証、続報8

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/20/053545

この後も、「竈」「へっつい」を兎に角見て歩き、そこに連なるヒントを探そう作戦は継続している。

「三種の館」…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1284401527717691392?s=19
農家の曲屋だが、ここでやっとタイル貼りの「文化竈」と遭遇した。

角館「青柳家」…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1286610444153626625?s=19
江戸初期からの武家屋敷。やっと使用感の残る「竈」と遭遇。近寄れない為、詳細不明だが、石だと思われる。

「補陀寺」…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1287148420222685184?s=19
中世開山の古刹。竈は改装で撤去。
年配の檀家の話では、土間に「竈」「地炉」があり、大きな法要ではそれで足りず、外で七厘を使ったとか。

「古四王神社」…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1287296253340946432?s=19
古くは、大彦命阿倍比羅夫に連なる最古級の神社。竈は無し。
と言うより、明治19年に秋田を襲った「俵屋火事」で社殿ら全て全焼。
古いものは殆ど無いとの事。


ここまでを纏めてみよう。

①昭和の時代を支えた「文化竈」だが、県内資料館らで確認したのは、これ一例のみなのでほぼ絶滅危惧種。量産品とは言え、ボチボチ保存対象に成らざる終えない感。

②同じ武家でも、久保田城下(黒澤家)が土、角館(青柳家)は石。
大工による選択肢や地方柄があるとも考えられる。
と、板の間の「台所」は共通である。

③補陀寺の和尚さんの話では、前任地の千葉では、墓石としては柔らかい「凝塊岩」を鋸山から切り出し、江戸で「竈」を組んだと言う話を聞いたとの事。
秋田と緑色凝塊岩は切っても切れない縁。
割と材料は揃える事が出来たのではないかと考えられる。

④「俵屋火事」の話は、ハードルを上げた。
湊安東の土崎湊にいた商人達は、江戸初期に城下町へ移されている。
で、最低「俵屋火事」等で焼け出された事を考えると、江戸初期より遡れる町屋等は難しいだろう。また、土崎は人が変わっている事が予想されるので、土崎で古いものと遭遇するのも難しくなる。

以上の様な事が考えられる。
現物に辿り着く事が、如何に厳しいものか…
理解させられる。
また、文化竈が絶滅危惧種…それだけ身近過ぎて残す対象にすらならない。


竈探しはまだまだ続く。
めげません。