「浦田七厘」「大館の石へつつい」そして商人へ…生きていた証、続報10

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技術的可能性が出てきた事で、秋田県内の民俗,産業の側面が徐々にに見えてきた。

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寺内町誌」 寺内町誌編纂委員会 渡部印刷 昭和22年9月5日原本発行
これにより、八橋七厘の存在を突き止め…

「浦田七厘 濾過助材」 奥田安太郎 (株)精興社 昭和62年4月25日
森吉特産の「珪藻土」を使い、かなり古くから存在した「浦田七厘」を手繰り寄せ…

秋田県史 民俗工芸編」 秋田県 大日本印刷株式会社 昭和37年3月31日
同時に「大館の石へっつい」へも至る…

最低限、製造としては「大館石へっつい」が四百年遡り、産業としては「浦田七厘」が収入源として天保の飢饉から浦田地区救いだしている。
どちらも秋田県内に発送販売された。
又、「浦田七厘」は、五城目,秋田市へ運び込まれ、白や黒の漆喰で装飾販売された。
これは、冬期間仕事が出来ない左官の副業。
更に、壊れ易い欠点を克服する為に「八橋七厘」へ至った。陶器の「竈」である。

同時に「大館石へっつい」は、元々、祠、墓石、地蔵さま、神像、鳥居、土蔵の土台まで作った正に石工の仕事。
その延長上に、へっついを作ったのだ。


当初の、農家の家内制手工業から、地場特産
の職人化した段階で、市での物々交換から商人が商品として扱う様になったハズ。
では、どんな商店が扱ったのだろうか?


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先日筆者は、更に県南での「竈」探しフィールドワークしてみたのだが、曲げわっぱにして川連塗りにして、どうも起源がハッキリしない伝統工芸は、佐竹氏統治より前の、安東氏や小野寺氏に家内制手工業で既に行われ、それを佐竹氏が拡大させたと思われる。
そして、増田の伝統的建築物保存地区でやっと見つけるにあたった。
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ご覧の通り、キャフロや七厘、練炭の金型、この他にも文化竈の焚き口蓋や籾殻釜ら…
「竈」を売ったお店に遭遇。
こちらでは練炭等の販売許可書を額に入れておったので、燃料屋含めた雑貨屋さんだったのだろう。
消耗品と設備の合わせ売りである。
これは、日本職人辞典による、「人倫訓蒙図彙」と言う風俗絵図上、「竈師(へつい師)」と言う職人は、炭壺らと合わせ売りしていたとあるので、そのままである。

さて産業として、又、職人から商人までのアウトラインが見えた。

後は、石工や左官の起源に迫れれば…



参考文献

寺内町誌」 寺内町誌編纂委員会 渡部印刷 昭和22年9月5日原本発行

「浦田七厘 濾過助材」 奥田安太郎 (株)精興社 昭和62年4月25日

秋田県史 民俗工芸編」 秋田県 大日本印刷株式会社 昭和37年3月31日