この時点での公式見解⑦…新北海道史にある「通貨発行権持ちの非課税」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

前項に引き続き、新北海道史にある記述を追ってみよう。
とは言え、普通に追ってもそれは他と同じ。
少々見逃されがちな観点で追う。

さて、江戸期の北海道経済は、蝦夷地の産物を場所制,場所請負制で運上金としめ租税させて藩や知行主が受け取ったのは、知れた話。
勿論、新北海道史にも、産物や他の産業らと共に場所や知行主と共に記載される。
ただ、米作せず石高「0」…
江戸期で歳入三万両ベースとかはあるのだが、やはりなかなか火の車らしく…

「城下の町人からも、御用金、御借上金、御才覚金、御冥加金など、種々の名目で借金したが、これらは結局献金であって、そのたびごとに、利権、名誉などが付随したかも知れないが、金としては返却される望みのないものであった。」

「新北海道史 第二巻 通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

とある。
租税は貸された運上金としての納税が殆どで、出稼人に貸されていた。
従来の住民に対しては産物の一部が年貢として租税だが…
蝦夷に対しての記述が見当たらない。
これ…「非課税
まぁ、そんなもんだったんでしょう。

と言う訳で、滅多に話題にならぬ事を掘り出す事にする。
経済の穴である。

「その砂金採取法は、採取場を見立て、運上金納入を約束して、多くの堀子を募集し、それを率いて、山に入り、採取したが、多くは引き合わなかったという。後に金山奉行をおき、藩直営で希望者に採取させ、運上として一か月一人につき砂金一匁を献納させた。それは採取額の約三十分の一にあたっていたというから(板倉源次郎著 北海随筆)、一人一か月およそ三十匁は採取したものと思われるが、それは恐らくもっとも盛んな時の状況であったろう。以上のように、一時盛んに産出したので、砂金は貨幣として通用し、その後通用がやんでも、なお砂金をもって取引きの標準とする習慣が残り、明治維新の際にまで及んだ。」

「寛文九年蝦夷乱の時、染退および国縫にはなお多数の鉱夫がいたが、その他の砂金場はすでにたいてい豊富な部分は採りつくしていたようである。たまたま蝦夷乱が起こり、その背後に和人がいたところから和人が蝦夷地に入るのは平和を破る元であるとして、ついにその業を禁止したのであるが、たとえ禁止しなくともおそらく永続性のあるものではなかったであろう。」

「新北海道史 第二巻 通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

松前慶広公は、金山開発に消極的だったが、公広公は方針転換し開発に至る。
場所は、
①千軒岳付近…
国縫
③日高、特に染退(シブチャリ川上流)…
④十勝(大樹町アイポシマ)…
⑤夕張(夕張川上流)記録有り…
⑥羽幌… etc.

経済に詳しいなら解ると思う。
全量納入、対価分給与…これなら解る。
採取数量の管理が可能だからだ。
だが、月1匁/人の運上で、それがそのまま通貨として流用していたら、管理が可能か?…ムリだろう。
簡易的通貨発行権を与える様なものだ。
流用量管理なぞ不可能。
(院内銀山らは給与制)

ここまで書けば、寛文九年蝦夷乱の原因が砂金場争いから端を発したのも理解出来ようと思う。
「簡易的通貨発行権の奪い合い」だったと。
シャクシャインは英雄ではない。
仮に英雄だとしても染退の通貨発行権拡大に寄与しても、社会全体に寄与はし得ない…
つまり染退の英雄でしかない。
そして、明治迄、簡易的通貨発行権を持ち、非課税のままだった事になる。
こんな優遇政策があるだろうか?
あまり聞かない。


まぁ下記は筆者の妄想と言う事で…

仮に隠し砂金場があったなら、明治迄は、配下に砂金採らせて遊んで暮らせた訳だ。
明治で開拓団が入り、農地として必要な川辺や湿地が山の狩場と交換されたら、そりゃたまらんだろう。
名目上、狩猟で暮らしてきた事になってるんだから。
そりゃ開拓団は怨まれる…

率直に言えば、なんとも微妙だった。
鮭は解るにして、熊や鹿狩するなら山側の土地を取れば湿地で暮らすよりその方が有利。
土地配分的に、本来Win-Winなのだ。


更に、こうはっきり書けば、17~18世紀に作られたチャシが何の為か?解りそうな物。
通貨発行権を守る為に監視台が必要になる。
山城としては、規模が中途半端でも監視台兼砦としては機能する。
チャシの方向が海川向きなのは、これだろう。


ついでに例えば…
単純な話、蝦夷地で金堀やそれに含まれるキリシタン南蛮人が、蝦夷のフリをして砂金を取る事が出来れば、通貨発行権を持ったまま、非課税で暮らせた…明治迄は…


さすがに調べていて、通貨流用の話は、ぶっ飛んだ。
金の生る木とは、この事か…
まぁ解釈はそれぞれ。
筆者の妄想と言う事で。