この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418

さて、核心部分を掘り下げる。
前項でもチラリと書いた事も含めて、この北海道の歴史問題のアホらしさ加減の一端を暴露しよう。
我々が一貫して言ってきた、
①古代より北海道と東北は繋がっている。それが途切れた事はない。
蝦夷=アイノではない。蝦夷にアイノは含まれる。
これを踏まえ、見ていただきたい。

先に書いてある、北海道の先史時代の史観はこうだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118
「先史時代の北海道に住んでいた人々はどんな種族の人であったかははっきりしない。発掘された人骨はすくなくないが、特徴は各年代ごとに異なり、また地域によっても異なっていて、統一的結論を出すにはいたっていない。先土器文化期に北海道に移り住んだ人々はそのままこの地に定着し、北海道が孤島になるとその原住民となった。その後しばしば海を渡って北方大陸や本州方面から、新しい文化を持った人が渡来したが、これらはおのおのの地域で先住者の中に吸収されていった。これらの渡来者のうちで最も顕著なのはオホーツク式土器文化の所有者であるモヨロ貝塚人である。この人々の骨格の特徴は道内各地で発見された他の文化系の人々、もしくは近世のアイヌ人、日本人とも著しく異なっている。しかしこれらの人々が何処へ行ってしまったのか解らない。」
「恐らくは近世アイヌ人の中に吸収されてしまったのだろう。そしてこの過程がまたしばしば各方面から北海道に移り住んだ人々の辿った道であった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

擦文期迄続く先史時代に住んでいた人々と「アイヌ民族」が繋がっている根拠がまだ得られていないとしている。
では、その繋がっていないものを、何故繋がっているものとして語っているのか?その根拠となるものは何か?
新北海道史には、その根拠が記載されている。

「今日では、丁度日本人の先祖が石器、土器を製造したことを忘れてしまったと同様、近代アイヌも忘れてしまったのであって、北海道の先史時代遺物はほぼ確実にアイヌの祖先が製造したものであると考えられるに至った。」
「第一は穴居跡である。記録に残る北海道アイヌはいずれも地上家屋に住んでいるが、以前は穴居した者がいた事が~中略~それよりも樺太アイヌの穴居は構造上、擦文式土器文化時代の穴居跡にそっくりだし、アイヌ家屋の構造には、かつて穴居であった時代のものが残っている。」
アイヌが、かって石器、土器を製造、使用していたことも、北千島アイヌなどは現に祖先がこれを製造、使用したことをいい伝え、現に内耳の土鍋や石ランプなどを使用してきたし、樺太アイヌが土器を製造、使用していたことも旧記にみえている。北海道アイヌがこれを使ったことは、蝦夷島奇観、十勝日誌などに書かれている。」
「更にオホーツク式土器文化に属するモヨロ遺跡に発見された熊の頭骨をまつる祭壇、擦文式文化に属する天塩遺跡の竪穴外部の祭壇の位置と状態などは、近世アイヌが屋外に幣場をつくり、熊の頭骨をまつる風習とまった同様であり~後略」
「近世のアイヌには体質上の特徴にしても、風俗、習慣にしてもかなりの地方差が認められる。それは絶えず周囲の民族の影響を受けてきたからであろう。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

まずはこの部分…
周囲の影響を受けるのは当然だろう。
何しろ、父と母が交尾せねば子孫は産まれぬ、父と母が出会うには近い方が有利…骨格学やDNAが証明するところだ。
その父母の文化的影響を子孫は継承するから、そりゃ当然。
ただ、着目戴きたいのは、わざわざ千島や樺太の文化状況を、妙に引用している点。
本道アイヌの文化を説明するのに近隣の文化を応用しているのに引っ掛かったりする…

続けよう。この辺が核心だろう。
蝦夷がすなわち今日のアイヌを意味するようになったのは、東北の異民族と言えばアイヌしかほかにいなくなった時以来のことである。それは我国の勢力が奥羽の北端近くに伸び、蝦夷をえぞと呼ぶようになった平安末のこと、真に蝦夷アイヌであることを確実に語ったものは、正平十一(一三五六)年にできた諏訪大明神画詞である。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

以上の通り。
要約すれば、
近世以降アイヌはいた→
蝦夷と書かれた人々がいた→
近世アイヌは千島,樺太の人々に近い→
諏訪大明神画詞の日ノ本,唐人はそれらに近いからきっとアイヌとはそれらだろうな~…
つまり諏訪大明神画詞しか根拠が無い。
それを繋げる為に北海道史を研究する学者達は、証拠を探してきた訳だ。
ただこれ、
擦文文化人が「渡党」であると一言言えば…
「縄文から直結する擦文文化人の住む北海道へ、日ノ本,唐人が渡ってきて共生を始めた」…
これでも説明がつく。
何故なら、自分でわざわざ千島,樺太との関係を説明しているからだ。


解って戴けたであろうか?
歴史時代とする「アイヌ文化期」が始まる根拠は、諏訪大明神画詞だけしかない。
そして、それはまた、擦文文化人が住む北海道へ、「アイヌの祖先が渡ってきた」と言う逆説で説明がついてしまう事を。

北海道史では、考古学的検証をまともにやらず、たったこれだけの証拠と仮説を繰り返してミッシングリンクを生み出してきたのに過ぎない。
恐らくこれは、先述している、大正~昭和に席巻し学術的に否定された「縄文~アイヌ説」の焼き増しだろう。
それを引き摺ったまま考古学的アップデートをしてこず、そのままこじつけてきたツケ。

そのツケに対して、我々国民は「アイヌ推進法」と言う支払いをしている…
これが真相だろう。


平たく言えば、北海道教育委員会を含めた教育界に、歴史的整合性ない話に何故税金を拠出するのか?と凸れば「アイヌ推進法」なぞ通らなかったかもしれない。
何故なら、各都道府県,市町村史は、各自治体が地方史を記した公式歴史書であるから。
そして、それを追及する者も居なかったという、実にアホらしいオチがついた…


「お後が…宜しい様で…」チャンチャン♪