この時点での、公式見解41…改めて最大の問題点を「新編天塩町史」から抽出してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
さて、先に「新北海道史」にあった「近世アイノと古代がまだ繋がっていない」…これについて、割と解り易い解説があったので紹介しよう。

「新編天塩町史」である。
天塩町は、天塩川河口付近を中心に縄文,続縄文,オホーツク,擦文と各文化の遺跡が揃う場所。
引用文内に筆者が註釈を①〜③までつけてみたので、その点について後に書いてみようと思う。
まずは、引用から。

「擦文文化はいつごろ終末を迎えたのだろうか。これまでに十ニ世紀末から十七世紀説まで諸説が提示され、結論を得ていない。問題は、この後に十六世紀後半前後から記録に明確化するアイヌ民族(近世アイヌ)と擦文文化の歴史的な継承にも関わっている。擦文文化の担い手がアイヌ民族、特に北海道アイヌの人々の直接の祖先であることは明らかとなっている(筆者註釈:①)。したがって、例えば、十二世紀説に立てば、十三世紀〜十六世紀の間のいわば「中世」アイヌの人々の遺跡・遺物の存在の立証が必要となろうし(筆者註釈:②)、十七世紀説に立った場合は十六世紀以降次第に明らかとなる文献記録上に擦文文化人としてのアイヌ民族の風俗を反映した記事かわ認められて良いはずである(筆者註釈:③)。」

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15 より引用…


擦文文化の終わり→近世アイノ文化の始まりが何時かはまだ未確定…ハッキリ書いてある。
先の時代が何時終わり、後の時代が何時から始まるか解らないのだ。
理由は簡単。
途中である「十二〜十六世紀の姿」がまるで解らない為。
この文に続き、続縄文,オホーツク文化が擦文文化へ移行する時期は、北海道西側と東側では一〜二世紀ズレるとある。
確かに、擦文文化遺跡が北海道全体を飲み込むのは、道央→道北→道東の順で時計回りに広がる傾向はある。
勿論、文化移行が、ある日を堺にパンと変わるなら、それこそ天災や侵略により、空白の地に入り込むか?武力で屈服させるか?しか思いつきもしないが、それらは明確な形で出現したりはしてはいない。
よってグラデーションが掛かりつつ、徐々に移行したとは考えられてはいる。
さて、それを踏まえて…

では①から…
まずここで疑問。
②や③がまだ未確定であるにも関わらず、何故①「擦文文化人がそのまま近世アイノ文化人に変化する」…を断言出来るのか?…ここが疑問。
この前後に、その根拠は明示されていないのにも関わらずだ。

ここで②と③について、現在成すべき事がしっかり記述されている。
ここは我々も強く同意する所だ。

②…
十三世紀以降位から十七世紀位までの間に、人の定住や生活痕を示す遺跡・遺物が殆ど無いのは事実。
よって、それを発掘調査らで明らかにして、この説を立証するしかない。

③…
近世に繋がりそうな古書記録が登場するのは、十五世紀後半から。
それもむしろ、国内よりバテレンの記録が多いかも知れないのは、各史書らで引用される事が多いから。
それを一次文書を中心に紐解き、立証するしかない。

実は、この「2~3百年の空白」をハッキリ示す物が殆ど無い…
これが最大の問題点なのだ。
この間がまるで解らない為、何時、何処で、どの様に文化変遷したのか?繋がっているのか?全く文化が流入したのか?…これらが立証出来ていない、と言う事。
ここが紐解かれなければ、先の疑問に戻るしかない。
更にそれも、「種の保存が可能なレベル」での痕跡が必要になる。
この解明は簡単な事ではないと思うが。
この時代を明確に示す痕跡は渡島半島と一部と余市位しかない。

が、それでも…
・繋がっていると主張するなら②,③を「探せば良いだけ」…
・繋がっていないと主張するなら「何処から来たのか?」を遺跡・遺物で立証すれば「良いだけ」…
これらを見れば、結局やる事はどちらにしても同じ事…中世の解明になるのだ。
中世が解らない中で各論こねくり回すより、重箱の隅を突く様に証拠を探すしかない。
そこが解かれば、答えは勝手に出る。

よくSNS上で「鎌倉時代に入って来た」、「いやいやずーっとここに住んでいた」らと罵声の浴びせ合いを見る。
我々に言わせれば、「まず明確な物証を伴う根拠を示せ」…一言で終了。
無いから研究者は血眼になり、それを探している。
だって、無いんだから。
あればこんなもん解決の糸口が見つかっている。
不毛な議論より、お互いに持つ物証を建設的に出し合い、論を組み立てる方が先。

ぶっちゃけ「蝦夷」って単語だけで決定出来る物は無い。
理由は簡単…時代毎に、記述される対象が変わっているからだ。
・古墳期に誰を指す?
・奈良,平安期に誰を指す?
・中世が空白で「対象者が見えず」
・江戸期に誰を指す?
全部、場所も対象者も変わっている。

北海道本島の地理的呼称さえ変わる。
・奈良,平安期は「渡島」
・鎌倉期に「蝦夷ヶ島
・織豊〜江戸期は「蝦夷(Yezo)」

今、確実に言えるのは「立証出来ていない」…だけ。
全て仮説。
だって「中世」が無いんだもの。
当然、「北海道の歴史が明治から」…これは大間違い。

我々的には、ぶっちゃけ擦文文化期を「先史時代」と位置付ける理由も理解不能
何故、それらを有史時代と位置付ける事が出来ないのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
地方領主なんてもんじゃない。
「都」と直結した明確な物証があるにも関わらず。
余程、都合が悪いのだろう。
まぁ辻褄は合わなくのは確か。
その結果、某団体らが主張する年代が、ここ数年でもガンガン下って来たという。
元々上記②の如く十二〜十三世紀説から昨今は十七世紀、つまり江戸期まで時代が下りつつある。
そりゃ擦文文化期を有史時代とは出来ないだろう。
それとて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
ゴールドラッシュ以降に入る金堀衆やキリシタンの人口インパクトや災害痕跡、人の移動痕跡から見れば、少々疑義が出て当然なのだが。


さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/28/124812
時は「ロシアによるウクライナ侵略戦争」の真っ最中。
ロシアのプーチン大統領は2018年12月のモスクワでの人権評議会において「アイヌ民族をロシアの先住民族に認定」したとか。
その辺の前後で所謂「アイヌ推進法」らの活動が激しく進められたのも確か。
https://plaza.rakuten.co.jp/airhead39/diary/202203120000/
まぁ、この手の話はネット検索していけば、あれこれ出ては来るだろう。
真偽の程は別として、北海道の皆さん、大丈夫?
ロシア軍の本質は、そんなもんだが。
筆者の記憶では、国連の我が国に対する「敵国条項」は削除されていなかったかと。
なら、ウクライナ同様もあり得なくもない…
まぁ自国の歴史を知らなければ、反論すら出来ず侵攻されても…
仮定の話はこの辺で。
横暴な国ってそんなもの。
歴史をプロパガンダに利用してくる。
そんな国に隙きを与えないのも、また歴史学の重要な部分かと。

やる事は決まっている。
古代〜中世〜近世〜近現代を、合理的に物証をもって通史として繋ぐ事。
それだけ。







参考文献:

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15