https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…
こちらを前項に。
実は、こちらを纏めながらふと考えてしまった事がある。
斜里町「オネンベツ川西側台地遺跡」…この遺跡を紹介しながら「あれ?」と思いついた。
それは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717
「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…
こんな本州の近世墓との共通点を確認してみて増幅されたのも確かなのだが。
結論を先に書けば、かなり身も蓋もない。
よくTa-bら火山灰直下、黒0層での遺跡で「アイノ文化期のアイノ文化の担い手達の活動」を表すと強調されがち。
だが、オネンベツ川らの状況から見てみると、これらは「商場知行地や請負場所の活動」を単に表しているだけではないか?という視点だ。
前項で取り上げた「美々8遺跡」周辺を中心に墓制と共にどんな活動が行われていたか?見てみよう。
①美々8遺跡…
基本土層や墓制については前項で述べているので割愛する。
では、第2分冊にある「低湿部」でどんな活動がされていたか?を覗いてみよう。
「美々8遺跡付近は、18世紀頃から 「シコツ越」、「ユウフツ越」 と呼ばれた日本海側と太平洋側をつなぐ水上交通と陸上交通の中継地点が存在したとされる地点である。これまでの調査において、低湿部に続く斜面部の0黒層やI黒層上面に建物跡、焼燒土、道跡、ただしい数の杭跡等の分布が確認さ れ、低湿部内に17~18世紀の江戸時代(アイヌ文化期)に相当する舟着場あるいは住居等の構築物が存在すると推測されていた。平成2年度の調査ではそれらに関連すると考えられる遺構・遺物が多数出土し、低湿部で生活が営まれていたことが明らかとなった。アイヌの民具を含む多量の木製生活用具などは、この時代の物質文化を検討する上で欠かすことのできない貴重な資料である。」
美沢川の河岸付近、現水面下の標高3~8mの湿地帯の水を抜きながら発掘を行った様だ。
特に標高4.5m以下が黒0と黒Ⅰ層上面に当たり、主に黒0層で木製品が大量に出土した訳だ。
遺構は黒0層では道跡と杭跡,立杭。
遺物は磁器片,石器ら石製品,鉄鍋,煙管雁首,カスガイ,銅銭(洪武通宝)等とここ「美々8遺跡」の象徴的遺物である大量の木製品(舟の側板,櫂,住居建材,ヤス,弓,仕掛け弓台,鍬や斧の柄,箸や桶・樽等々)である。
当初の引用部にある予想通り、住居建材や舟の部品らやヤスや鈎ら漁具等が検出され、船着き場やそれに伴う家屋、漁場らを想像される木製品が大量に出土した様だ。
さてでは、同書に記載ある手持ちの発掘調査報告書を確認してみよう。
②「ユカンボシC15遺跡」
・同書の記述…
「中世〜近世(1739年以前)」
「中世の土坑墓1(AP-3)、墓坑平面形は長方形。近世土坑墓2基(AP-1・2)、墓坑平面形は長台形。」
「AP-1からは刀子 (3) ・太刀 (1)・ 鉤? (1) ・斧(1) ・錫製形耳飾(1) 、AP-2からは内耳鉄鍋 (1)、 AP-3からは刀子 (1) 碗 (1)」
「AP-1・2に盛土あり」
・基本土層…
気になるのは台地部から低湿部にかけて特にTa-a層の土層の厚さが違う事。
単に高低差で斜めになっただけではなく、地滑りや水害で低い方に流れたか?
Ⅰ層…表土
Ⅱ層…Ta-a(1739年) 厚い所で30~40cm
Ⅲ層…黒0層 0~20cm
Ⅳ層…黒Ⅰ層 5~20cm、低湿部では主に4層に分かれ、ⅠB1が近世、ⅠB2が近世~擦文後期、1B3が擦文文化期で途中にB-Tmを挟み、ⅠB4が続縄文~縄文のそれぞれ遺物含包層となる。
・発掘調査報告書実績…
該当報告書では3基の中〜近世墓が検出。
長方形墓:楕円墓は3:0
他特徴的なものは、
円形周溝を持つ…0
2体合葬墓…0
耳飾,垂飾等検出…1
・AP-1…
黒Ⅰ層上面からの堀込で近世墓と判断されるが人骨は検出出来ず、遺物の金属製品は墓坑の北壁に沿う様に底面で一括検出。長軸は北東向き。
遺物は刀子×4、太刀×1、鉄針×1、鈎状鉄製品、Ω型の耳飾?×2等。
耳飾?は錫70~80%,鉛20~30%で、太刀拵の部品?は概ね銀製品。
・AP-2…
近辺遺構との関連性より近世墓と判断されるが、人骨は検出出来ず。
遺物は墓坑近辺に内耳鉄鍋があるが、鍋に付着した土をC14炭素年代測定したところ990±60y B.P.(960年位)と出ているとの事。
・AP-3…
中世墓と判断している様だが、人骨は検出出来ず。
遺物は刀子×1と漆塗椀で、底面ではなく覆土最下層上面での検出となる。
この漆塗椀のC14炭素年代測定したところ610±60y B.P.(1340年位)と出ているとの事。
以上。
近世墓と判断される墓でΩ型の耳飾?が検出されているのが興味深い。
これは前項で紹介した「末広遺跡のIP-111」近似としている。
さて、この遺跡は以前ブログで紹介している。
これだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
「生きていた証、続報26…ユカンボシC15遺跡に残された北海道江戸期の『馬蹄跡』の存在」…
Ta-a層直下の馬の蹄跡が検出される遺跡の事。
Ta-a,Ta-b火山灰降下前の馬の存在を示す文献は見つかってはいないが、馬の蹄跡から「金掘衆が掘り出した砂金を運び出す為の馬の野生化」を想定している。
ここで、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
「生きていた証、続報27…室蘭市史に記された、北海道の駅逓制度の始まりは江戸初期」…
馬繋がりで辿ると、Ta-b(1667年)後として松前藩主の司令として、
「元禄四年(一六九一)、松前藩十代矩広が、町奉行に対して「私領分(注・藩士への給地)百姓伝馬宿次無ニ遅々-様可ニ申付-候事」と通達した。つまり人馬継立はおくれるのとのないよう急いて申し付けるべきである、というのである。」とある様に、商場知行制を拡大に伴い、その知行地間を陸路で繋ぐように指令している。
発掘調査報告書にもある様に、実は千歳周辺が東蝦夷地と西蝦夷地の接点になっている。
新北海道史によると時代は下るが寛政年間頃の千歳周辺の場所と知行主では、
西蝦夷地側
・シママップ(島松川付近)
下国岡右衛門
東蝦夷地側
・ロウサン(千歳川付近)
直轄
・マス(同上)
牧田源八郎
・ヲセッコ(同上)
厚谷新下
・イザリ(漁川付近)
今井善兵衛
・モイザリ(同上)
佐藤三郎左衛門
・ヲサツ(千歳市長都)
小平甚左衛門
となっており、末広遺跡やユカンボシの遺跡群は長都場所が最寄りになるのだろうか?
いずれ、グーグルアースで簡略計測してみると、末広遺跡から美々の遺跡群迄概略5㌔程度、末広遺跡からユカンボシ川付近迄概略6㌔程度と、極近い立地なのは確かである。
地理的に見ると千歳周辺は、美々川や勇払川は太平洋側に注ぎ、千歳川らは石狩川に合流し日本海側へ注ぐ、分水嶺的な位置関係を持つ。
「又當所(勇払の事)より石狩越新道有。ビゞと云迄は小舟も通じ頗る便利なり。前に橋有(三十餘間、ユウブツ川)、往古は橋東にて、惣場所の賣場買場と有、交易せし由なるが、寛政十二(申)年より會所一軒と定む。其後文化元 (子)年に橋東は風波にて欠崩度々有、損ぜし故、今の地に土居を築き移したると。地所タルマイ〔樽前〕より千歳をかけ平地にし、土味肥沃なれども、七八寸下に燒沙有。然し雑穀野菜は能く成出來、又近頃詰合鈴木尚助藍を試られしが、至極土地によく合しや、追々出稼の者も漁事の暇等作り初しかば、其功勲を愛でゝ、
世の中の
ためとて藍を植初し
心の色の
淺からぬかな」
往古からの往来では、美々側は勇払から勇払川らを船で川を遡り、千歳周辺は陸路で、ここから千歳川を船で下り石狩川から日本海側と連絡していた事が伺える。
時代背景を当て嵌めると、
①ゴールドラッシュによる金掘衆の活動と馬の導入
②Ta-b(1667年)降下
③寛文九年蝦夷乱とその鎮圧後の商場知行地拡大
④松前藩主による陸路建設の指令(1691年)と旧道開削、「牧」設置又は拡大
⑤建設らに伴う売り買い場が出来る
⑥Ta-a(1739年)降下
⑦場所請負制への移行
⑧幕府直轄領化に伴う会所設置や石狩~勇払新道開削…ここで第Ⅰ層である表土層へ。
とすれば、ユカンボシC15遺跡に現れる馬の蹄跡は③~④で「牧の設置」→黒0層形成…これで復元可能なのでは?
①については、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717
「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…
こんな考え方も可能だろう。
時代により変遷する上に、バテレン(宣教師)が不在なので、その葬送方法は従来在地のやり方を反映する事も考えられる。
さて、如何だろうか?
この様に江戸期に於いて千歳周辺は、
この2つを繋ぐ交通の要衝(若しくは水運で結べないウイークポイント)だったのは間違い無さそうだ。
必然、人々の往来や人口の集中は起こって然るべき。
美々8遺跡を「点として」見ればアイノ文化の象徴的な意味合いで解説されるが、ユカンボシC15遺跡やユカンボシC2遺跡の馬の蹄跡迄含めた黒0層の「面として」見れば、その往来から場所や交通要衝としての意味合いが強まる解説になるだろう。
美々8遺跡低湿部の発掘調査報告書でも、交通要衝としての意味合いは記載ある。
勿論、この周辺を調べている研究者はこれら「面として」捉えた場合にはどうなるか?は熟知しているハズ。
同一土層でほぼ同じ年代、それも黒0層という極限定された時期を限られた地域の中で共有するのだから。
ましてや、そこに馬が居たからこそ、極限定された期間で黒0層の形成が可能となったのではないか?
恐らく「面として」遺跡と古文の照合をしていけば、一帯の時代的復元は可能だと思うのだが。
本題に戻ろう。
「商場知行地や請負場所の活動」を単に表しているだけではないか?…この視点に対する疑問、解って戴けたであろうか?
ならば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…
これら、噴火湾一帯に存在した畠跡も、周辺の漁場や金掘衆への供給を目的に広げられた…で、説明可能だし、それは本州系かそれに近い文化を持つ口蝦夷の活動痕跡として考える事が可能だろう。
もっと古くに遡れば、末広遺跡には「錫杖」の出土がある。
江戸期でこんな状況なら、修験者は有珠や苫小牧方面からそこに至ったと考えられるのでは?
同時に少し遡り、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…
恵庭の古墳に眠る人々は斧や槍鉋,鎌を副葬される。
これらを鑑みれば、奈良,平安から既に、日本海側と太平洋側を結ぶ陸路の開拓は道民一致した「悲願」の一つだったのかも知れない。
そんな風に捉えれば、この千歳周辺の遺跡群の価値は高まろうと言うもの。
何せ、千年の「悲願」である、馬を使い自由に往来出来る陸路の開拓に成功した証なのだから。
遺跡の位置付けや価値は、その視点で大きく変わる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834
「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…
「遺跡の発掘は遺跡の破壊である。一度こわされた遺跡はいかにしても原型に復することはできないのだから、発掘-調査は破壊を代償としてなおかつ十分な価値あるものでなければならないはずである。」
河野広道博士の言葉。
千年の悲願を解明した遺跡群…と言うなら、これ程価値のある遺跡は他に少ないだろう。
既成概念に拘るあまり、価値を矮小化していないだろうか?
ここまで言えば、単なる一つの集団だけの問題ではないのだが。
参考文献:
「美沢川流域の遺跡群ⅩⅤ -新千歳空港建設用地内発掘調査報告書-」 北海道埋蔵文化財センター 平成4.3.27
「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」(財)アイヌ文化振興・研究推進機構 2001.6.2
「千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」北海道埋蔵文化財センター 平成12.3.31