https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/11/115246
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
関連項は上記になる。
今迄も再現チセについて疑問を持っていたが、せっかくなので、その再現過程を建築した「萱野茂」氏が記しているので引用してみよう。
前項の「二風谷遺跡」の発掘調査報告書のⅤ章に「アイヌチセについて」として付篇されている。
チセッ=我らの寝床…
チセとは「住みか」の総称で、人が住むものだけを指し示す訳ではない。 クマの穴も、山の神の家の意で「キムンカムイチセッ」だそうで。
アイノ文化では野宿は禁忌で、何かの下に入る,洞窟へ,小屋を掛ける等を行うそうで、
細い棒の骨組&松の枝(葉付き)
三脚組み&柳の葉
細い棒の骨組&フキの葉
細い棒の骨組&萱載せor木の皮
狩り小屋、拝み小屋、ござの仮小屋等…
その場しのぎ用から短期滞在用らもチセの一部だそうだ。
勿論、これら仮小屋の様な規模のものは、素早く組み立てるキャンプ的なもの。
季節猟(漁)ら毎年使う物でなれば、掘立建物にはしていない様だ。
さてでは、本格的な住居としてのチセ再現経過である。
「チセ=家というものについての最初の思い出と言えば、昭和6年頃に父が自分の家を建て替える為に、家の前で柱を削っていたのを見ていた記憶から始まります。父が建てた家は掘っ建てではありましたが、土に埋める部分は丸太のままで、上へ出る部分を約15センチ角に削り貫穴を通してあったものです。柱材はカツラの赤味と称して古い時代に風倒木になり、外側の白味が腐り内側の赤味だけになった材料を用いていました。その当時は近くの山でそのような材料がたくさんあって、簡単に手に入れたもののようでした。」
「大正15年にこの地二風谷村で生まれ育って62年、昭和14年には、アイヌ風の段葺き屋根は二風谷に37軒ありました。あっただけではなくて、それぞれの家に人間が暮らしていた家の数がそれだけあったのです。したがって、昭和10年代20年代までは、その家の都合によっては屋根を萱にして囲は板、私自身の家も昭和23年に建てた時は、下回りは土台付に板囲いで屋根は萱葺きでした。そのようなわけで萱屋根を葺いた経験は結構あったものです。」
「ところが、昭和30年代に入ると、トタンが安く手に入るようになり、多くの家はトタン葺きになってしまいました。これでアイヌ風の段葺き屋根は必要無くなり、それと共に技術も忘れさられてしまうものと、思っていたものです。」
「ところが昭和30年代前半から、北海道観光旋風が巻き起こり、観光の主役はアイヌとクマということになりました。そこで必然的に必要になって来たのがアイヌの家ということになり、私が観光用アイヌチセを最初に建てたのが登別温泉の玉川本店から頼まれたものでした。」
「小さいチセであったが、注文は昔の建てかたを忠実にというこたと、玉川の本店へ私を紹介して下さったのが、知里真志保先生であったのです。そこで、緊張した私は古い家の建てかたを一番良く知っている人として、棟梁に私の舅、二風善之助さんと、もう1人の物知りの先輩貝沢前太郎さんに行ってもらいました。」
「昭和34年に玉川本店裏に建てたその家を、昭和36年に登別温泉ケーブル会社がそのまま買い受け、クマ牧場近くへ移築する事になったのです。9尺2間のチセの移築を私がすることになり、それがきっかけで次々とチセが増えて現在の登別温泉クマ牧場ユーカラの里に発展したのであります。」
「以上書き記しましたが、それが観光用であったり、博物館用であったとはいいながら、今まで私が手掛けたアイヌチセは新築あるいは移築を数えると50軒近くはあろうと思います。」
「沙流川総合開発に伴い平取町二風谷のポロモイチャシが昭和59年に発掘されました。発掘された住居跡の柱穴を見た私は、心密かに歓声を上げました。と、いうことは、昭和47年4月に苫小牧市樽前ハイランドで私がアイヌチセを建てた時に、昔聞いた話をそのままやって見ようと思い柱穴を帆立貝の貝殻で掘ったのです。それが二風谷で発掘された柱穴は貝殻で掘った事を裏付けてくれるかのように、穴の広さも貝殻ほど、深さも私の腕を肩まで入れた深さと同じでした。これは、私に話を聞かせてくれた老人達は想像だけでなく、何代か前の先祖がやった事を語り伝えていたのだ、と、確信を持つことが出来たのです。」
『平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-』 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度 昭和61年度』平取町二風谷遺跡調査会 「アイヌチセについて」 萱野茂 より引用…
チセ復元経緯を引用抜粋してみた。
たまに「アイノのチセは貝殻で穴掘ったとされている」と書いたものが散見されているが、この伝承と萱野氏が試した結果から来ているのであろう。
筆者もこれらからたまに書くが、概ね驚かれる。
が、再現テスト済みではある模様。
ここから、どうやって再現したか確認しよう。
・父が建てたのを見た記憶
・近所で協力して萱の掛け換えをした経験
・先輩,舅さんに習う
・古老への聞き取り
以上である。
上記文書の中に編年経過を示す指標は?
父が建てた家(昭和6年)や昭和14年の確認記録のみ。近代~現代に使われていた古民家的な再現だと言える。
更に萱野氏は「アイヌ風段葺き屋根」と前半は表現している。
関連項に有るように、明治開拓当時の各種写真は残されている。
開拓団で入った人々も段葺きの茅葺きに住んでいた例はある。
さて、これを何処の時代迄遡る事が出来るのか、その検証はされているのか?
とりあえず、古絵図の記載は、主には幕末~明治のもの。
記述なら江戸中期位か?
林子平らの古書には無かったと思うが、菅江真澄や松浦武四郎はどうか?
仮に有っても江戸中期迄。
つまり、往古のアイノ文化へ直結させ、これを言い切るのは難しいと思うが。
例えば、萱野氏が見たポロモイチャシの掘立建物の柱穴が似ている…これは、再現テストと合っているなら仮説化可能だが、屋根や壁が同様の形をしていたと証明出来るのか?アイノの段葺き同様だと立証出来ているか?
そこまで残ってはいない。決め手に欠けると言えるだろう。
これが、秋田県「片貝家ノ下遺跡」同様に、埋没家屋でも見つかれば立証可能なんだが、さすがにまだそんな発掘結果は聞いていない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/12/214629
現実、江戸初期には、奥深く迄、金堀衆が入って行く。
この段階で元々の蝦夷衆の家なのか、金堀衆が住んでた物なのか、そもそも識別可能なのか?。
まぁ史書らを見ても殆ど金堀衆の実態が記載されていないので、はっきりは解らないのだろう。
ここまで書けば身も蓋もない事ではあるが、一言…
それを追及するのが「学問」だろう。
筆者は「竈探し」でこちらの研究者に教えられた。
考古学の限界は土中にそのまま埋まっていないと検出出来ないと。
確かにそうだ。
考古学は、現物は見れるが使い方らを証明するのは難しい。
民俗学は、編年経過を何かに頼らねば証明するのは難しい。
文献史学は、プロバガンダ要素を含む場合があり、そのまま鵜呑みにするのは難しい。
それぞれが補完し合い真実に近づくのではないのか?
ならば上記に於いて、チセは何処まで遡る事が出来るのか?
最低、絵図と伝承の二点が合致する幕末辺り迄…ではないだろうか。
それも、江戸期の移住者も使った事を加味する必要を合わせて。
細かい?
いや、文化起源なのでこのへんは重要だと思うのは、我々だけだろうか?
故に、疑問なのだ。
本当に竪穴→掘立は、アイノ文化期開始の指標と成り得るのか?と。
そもそもそれを立証出来る、中世を示す編年指標が無いのだ。
貿易陶磁器でも考古学で検出出来れば、中世の指標に使える。
だが実態は、擦文遺構は全道検出するが、そこまで。
貿易陶磁器は、余市ら一部遺跡に留まる為にその手は使えない…故に中世が見えない訳で。
更に、萱野氏はポロモイチャシの柱穴で貝殻を使ったと確信を持ったと記述しているが、これらを帆立貝で作るのはムリがある。
これがポロモイチャシの全体図。
A壕とB壕に囲まれた中に掘立建物がある。
これを貝殻で作るのはムリ。
最低、クワやモッコら道具が必要だろう。
道具があるのに、わざわざ貝殻を使うのか?合理性に欠ける。
この点に萱野氏は気付かなかったのだろうか?
とはいえ、萱野氏の見解を否定はする物ではない。
道具の使い分けをしたとも言えなくは無い。
我々は、甚だ疑問だから学んでいる訳で。
ただ問題は、これが平取の二風谷だと言う事。
聖地がひっくり返すと、全道に波及するだろう。
何せチセを再現したのは、その「萱野氏」なのだから。
ついでに…
この「アイヌチセについて」の中には、「人柱」と思われる伝承の記載がある。
「それと、もう一つ、ポロモイチャシ、で出土した家の焼け跡らしい所から、ラシ、という割り板がかなり発見されています。」
「もう一つの、ラシ、の使う例は、呪われた1人の男が生き埋めにされる時に、ラシ=割り板で地下室のような物が造られてあって、そこへ入れられたと描写されています。それから、子グマを入れて養う檻も、ラシ=割り板で造られてあるのが古い絵や写真でははっきり見えていて、そう珍しい材料ではなかったことが良く分かります。」
『平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-』 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度 昭和61年度』平取町二風谷遺跡調査会 「アイヌチセについて」 萱野茂 より引用…
チセの下に地下室を掘り割り板で補強、
①跡継ぎが居ない男性が宝箱を隠す…
②呪われた人を生き埋めにした…
そうで。
因みに…
ポロモイチャシの建物跡には地下室の痕跡はない。
また、アイノのチセに床が付いたのは、幕府の同化策の中の「衛生改善」による指導から。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
これは新北海道史に記載がある。
なら、ポロモイチャシの掘立建物は、
①床付きだとしたら、金堀ら本州人の住居や館、又は神社仏閣の類い
②チセだとしたら、床でなく壁板(ましてや地炉跡有り)で、床,地下室と関連無し
と言うのが、妥当では?
どうだろう?
こんな疑問が出ない事の方が、我々としては疑問。
こんなに矛盾があり、こんなに編年指標が無いのに、何故疑問なくアイノ文化の一端だと信じられるのか?
我々は疑問だから学ぶ。
むしろ仮説を言っても、他のメンバーから入る「物証は?」この突っ込みの方が恐ろしい。
何せ、更に深堀りせざる終えなくなるのだから。
参考文献:
「平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日