https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/205904
さて、松浦武四郎の「蝦夷日誌」を続けていこう。
やはり北海道と言えば場所請負制や、それに伴う弊害を記さねばなるまい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/07/133243
場所請負制の構造的欠陥については、この通り。
この制度は江戸中期位に確立して、一次直轄→松前藩復活→二次直轄&東北諸藩統治、ここまで変わらない。
要は、知行主や函館奉行所や諸藩に成り代わり、場所請負人が産業的な全権を委託されて運営を行った模様。
「蝦夷日誌」で描かれる二次直轄の時も、当然行われているが、そこは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/22/053602
幕府は既に、農耕殖産らを開始しており、松浦武四郎自身も「蝦夷日誌」で、各村々が拡大していく様を「宜し」と喜んでいる。
事実、道具と漁期により一気に進められる「漁業」に対し「農業」は、開墾手間や利益が少ない事から希望が少なく、優遇政策を行っていたのは概報。
更に、
「場所請負人は、請負場所における産業の全権を握り、多くは困循姑息で自ら改良を図らないばかりか、自己に不利益だと思えば、他人がその場所に入ることを拒み、蝦夷地の開拓を妨げていたので、移民を入れ、諸産業を開発しようとすれば、まずこの勢いを打破しなければならなかった。ために幕府は安政二年冬請負人をさとし、蝦夷地開拓の急務を説き、自ら諸産業を興すように努めるのはもちろん、移民に対して場所を閉ざすようなことなく、むしろこれを助けよとさとした。
「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和42.4.30より引用…
これで、「神威岬以北への婦人の往来」「新道開拓」「支配人,番人の永住厳命」「身分証明出来る松前藩以外の者への支配人,番人着任許可(従来は松前居住者のみ限定)」ら施策が取られ、上記の移住計画が進められた。
さて、直前引用にもある様に、場所請負人の横暴的な内容は「蝦夷日誌」にも描かれる。
では、その部分を見てみよう。
まずは東蝦夷地は「幌泉領」より。
「此邊昆布小屋一面に立併びたり。小石原(十丁四十五間)、此邊の昆布取の様子を聞に、ホロイツミ〔幌泉〕領内にても、シヤマニ〔様似〕堺より會所元エリモシヤウヤ濱迄を、文政年間、昆布百石目を金廿五両の時も、纔十両位より十二三両、近年八十両位に成りしも、纔十五両ならで會所元賣〔買カ〕上げざるよしなりと。その故如レ此昆布多く産して、家内三人有時、必ず百石の昆布は取あげるに宜敷處なれ共、他所より移住と云もの無也。若是を其取し昆布を直うり致事をゆるさば、三五年の内には必ず人も調密〔稠密〕すべきに、出稼の者取上げたる昆布を必ず會所にて定直段にて賣〔買カ〕法ゆ、何時迄も不毛同様に成をること可レ歎。別ても可レ憐は、土人等の取上げる昆布は百石目と申せ共百三十石目位に貫を致し取り残される上る事也。」
「蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
ここの会所では、他所より安く買い叩く為に移住者が寄り付かず、直売も不可。
更に土人等は規定の目方より多くの昆布を取り上げられると言っている。
商売としては、なかなか悪虐である。
では次は、西蝦夷地は「石狩場所」より。
「イタクレイは勇佛より出稼に參り居て、四ヵ年が間石狩に遣はれ、其間妻子の面を見ざりしが、今日の人足に當りて、妻の面を見る事よと、如レ此夫婦の間も纔か三十里を隔る計にて逢さず置、其請負人の遣方可レ惡(筆者註釈:にくむのルビ有)。其譯を竹兄〔箱館奉行竹内保徳〕より聞に、此土人の妻は勇佛の番人の妾に成居ると、其故夫を石狩に遣し置て常々番やへ連行置と語る。是はさもあるべし。シヤリ〔斜里〕の土人をクナシリ〔國後〕へ遣す、必ず其留守に妻は番人の妾に致置有なし。實に是等の事可レ惡の極ならずや。」
「昔しは當川筋十三ヶ所に分かれたり(トクビタ〔徳鐚〕、シユウマゝツブ〔島松〕、上下ツイシカリ〔對雁〕、ハツシヤブ〔発寒〕千百七十人、上カバタ〔樺戸〕三百七十ニ人、下ユウバリ〔夕張〕四百九十ニ人、上ユウバリ〔夕張〕三百七十ニ人、下サツポロ〔札幌〕百九十四人、下カバタ〔樺戸〕百ニ人、ナイボ〔内保〕廿九人、上サツポロ〔札幌〕百九十四人、シノロ〔篠路〕百丗八人、〆三千六十七人、文化六年改)。其頃は如レ此人別も有しを、此餘上川には六百人計も別になりしが、今は追々人員減じぬ。實に遺憾ならずや(文政壬年〔五年〕改、千百五十八人。安政乙卯〔二年〕改、六百七十人)。此皆請負人より非道の遣方厳しく、夫婦たりとも其夫は遠き場所に遣し、婦を己が妾として別場所に置、孕妊時は水臘樹(筆者註釈:イボタのルビ有)に蕃椒(筆者註釈:トウガラシのルビ有)を加て墮胎させ候間、人員日々に減損す。」
「蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…
①勇払の土人(夫)が、妻子の面倒をみるとして請負人斡旋で四年石狩場所へ出稼ぎに出る。この間、会わせる事もない。
②その出稼ぎの間に土人(妻)が勇払番人の妾になる。
③これは、斜里土人を国後に廻すのも同じ。
④妾が妊娠すれば、イボタノキに唐辛子を混ぜた飲み物を飲ませ墮胎させるので、人口が減る。
請負人は人夫が欲しい、番人は妾が欲しいが故の謀だ…と。
雇用主として、なかなか非道である。
さて、背景を見てみよう。
まず、西蝦夷地から。
相場より安く買い叩く…
これは、噂に出れば当然ながら人が寄り付かなくなるどころか移住してしまう。
請負人も収穫量が減る故に買取数量を誤魔化した…
実は、これを「米」で斗の大きさで誤魔化した場合、バレれば死罪。
江戸期まで全国での斗のSizeは統一されていた訳ではない。検地らを経ていく段階でその辺の規格化を図った経緯はよく知られた話だ。
これは貨幣も同様で、西の「銀本位」、東の「金本位」と分かれていたので、両替商が発達した。
元々その辺の厳格化がなされていったので、北前船らにより物流が日本全国に及ぶ事が可能となる訳で。
やったら、商人としての信用を失い、取引不能になるし、松前藩なり箱館奉行なりが管理する所。
結局、請負人に丸投げし、管理していなかった事になる。
つか、三割誤魔化されたら気が付いて、他の運上所,会所に納めるか移住する所だ。
何故、役土人らも気付かぬのか?
ヲムシヤでバラせば、請負人の首が飛ぶのだが。
一次直轄段階で「蝦夷の撫育」は、請負人への義務と幕府指令が出ている。
これで、役土人からのリークらで請負人解任の話は各史書ではまだ見ていない。
松浦武四郎はそれを知っていた。
何故誰も動かなかったかが、不可思議。
先にも記述したが、松浦武四郎は西>東と記述する。
それが均衡するのが、本州からの移住者の増加の為。
土人の本道内を移住していた記述はある。
それらを鑑みれば、移住する事で働き手を減らす事で請負人にダメージを与えていたとも考えられる。
新たな技術指導らも皆請負人の仕事。
皆が稼がねば収入は落ちる。
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請負人にも事情がある事は、新北海道史にも記述はある。
私法を作ってでも人員確保せねば、リスクに跳ね返る。
心情的良し悪しだけで解釈可能な話ではない。
計量秤の規格に対する触れの有無は解らないが、仮に「法」として触れが出ていたら身代毎潰されていただろう。
ポイントはその辺になるだろう。
無ければ、松前藩や函館奉行の管理が足りないと言う事になるかと。
勿論、明治政府は一切関係ない。
何せ、明治の開拓使は一定の準備期間を経て場所請負制廃止し、直接租税へ改める。
これは逆に、土人の納品先を細めてしまう事にもなり、貧困化を招く事にもなった。
制度には良し悪しはある。
では、西蝦夷地。
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当時の状況はこれが解り易いだろう。
上記内容は、思い切り石狩川沿いの話。
上川の人々は、わざわざ石狩川の特異性を利用し、自ら選び、河口側の場所まで出稼ぎや納品をしていた。
行き来し難い神居古潭の難所を越えて。
わざわざ勇払の事例が一般的ならば、上川の人々が、そんな非道な場所へ行くのか?
ここは考慮すべきだろう。
彼は、「出稼ぎ=御用」とすら記述し、出稼ぎそのものを否定している訳ではない。
気になる点がある。
松浦武四郎は「函館奉行の竹内保徳」からこれを聞いたとわざわざ記述する。
それを自分で確認した様には書いていない。
彼は自費出版含めると、かなりの書物を出しているようなので、我々がその全てをチェックした訳では無いが。
又、もっと北へ石狩土人カニシランケが妻を連れ移住…と。
一事が万事ではなく、万事が一事でもない。
ここは考慮が必要。
何しろ、松浦武四郎の本懐は、新道開拓され、移住がスムーズに行われ町が大きくなり、経済活性化する事。
実はこれらの新道は、松前藩や箱館奉行だけがやっていた訳ではない。
請負人や役土人が協力し切り開いたり維持の工夫をしていたりしている記述は幾つもある。
現実、そこに住むと決断した者全てで開拓していた事になる。
乙名にすれば、なかなか動こうとしない役人らを松浦の手で動かせれば、自分達が往来の危険を回避出来る訳で。
そんな思惑もチラホラ見受けられる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/22/053602
北海道の開拓は明治から始まったのでは無い。
幕末は既に、オールキャストで進めている。
役人だけではない。
土人ももっと豊かに暮らす為に、農耕や新道にちゃんと自ら参加し行われている。
松浦が、直接請負人へ新道整備を即したり
している。
現実的にも、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/07/133243
もう幕末では、それまで食べ物や衣服が主だった交換品は、高価な蓄財品へ変遷している。
労働対価として差し引きされる物が高価で借金迄至れば、支払い出来ない者を黙って商人が見過ごすハズもない。
最早、この時代、「ナナツラ」「浜千鳥」ら私娼は記載ある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/144412
こんな人々が黙って見過ごす事は無い。
時系列的には既にあり得るのだ。
更に…
前項にある様に、請負人の下に居る小使は、役土人の小使らと話し合い、人集めらを行った様だ。
当然、直轄らで「新シヤモ」らも台頭する。
基本的に出稼ぎに出る者の面倒をみるのは、これらの人々。
平土人に対して指令するのは役土人。
まさか、番人の妾にそれらの人々が関与せず、それが可能だったか?
言葉が通じない設定ではないのか?
不可思議。
こんな辻褄の合わない事はあるのだ。
勿論、眉をひそめる悪虐非道な者も居たであろう。
それは本州でも同じ。
だが、請負人や番人の一方的な横暴には移住で対抗し、ちゃんと稼がせる請負人らの所で協力して開拓を進めた…これが蓋然性が高いのではないだろうか?
もっとも、そんな記述はまだみていないが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
むしろ「吉田菊太郎」翁の松前藩らへの評価の方が、現在、巷で流れる話よりも、現実的なのではないか?と思うのは、我々だけか?
参考文献:
「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和42.4.30