この時点での公式見解-37…旧旭川市史にある「ここに、近文コタン誕生す」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/08/204935
前項に引き続こう。
土人保護法制定までの経緯を書いたが、ここまでで明治32年
どんな時代か?
日清戦争が明治27~28年、日露戦争が明治37~38年。
丁度その真ん中位。
ハーグ陸戦条約が結ばれたのが、この年なので、欧米の圧力に対し我が国が国際社会で台頭し始める頃か。
因みに「考古学雑誌 第一巻」の発行は明治45~大正元年
欧米がトレジャーハンター紛いにアジアの地面を掘っていた時代。
考古学雑誌 第一巻の広告には、柳田国雄博士の新刊「遠野物語」が紹介されており、各学会が産声を上げる頃になるのか。


さて本項は、前項の真ん中位、セーフティネットは「三県時代に引き継がれ」の辺りの先に、これから書く事が繋がってくる。
よって…
北海道地券発行条例→明治十年
各種保護施策はその前より段階施行された後、旧土人保護法制定前。
既に官有地扱いの後である。

「明治十八年、札幌県はアイヌに農耕授産の計画をたて、遠近のアイヌをそれぞれ適当の地に集団させた。近文部落も現在の地に集団され、給与地が与えられることになる。ところが三県の制は翌十九年に廃止され、道庁の経費の関係からこれが授産事業が廃止されたので、彼等はまた鳥獣のあとを追って放浪の生活に入り、せっかく開墾しかけた土地はもとのように荒れはてて顧みられなくなる。二十年十月、道庁長官岩村通俊が再度の上川視察のとき、十四日、農作試験所を担当していた技手福原敬作からアイヌの生活状況を聞いて、将来生活の道を失うようになることを憂え、その保護策として彼らを開墾に従わしめるほかないとして、その旨をアイヌに諭し、部落付近で約二百町歩の土地を選び、現在の四十戸を入れることにして、その経営方法や順序・経費等の調査を命ずる。二十四年、近文原野が区画測定せられ、一般に貸下げられることになったので、次第に団体又は個人で入地するものが多くなり、さしもの密林もきり開かれて、アイヌたちの無尽の宝庫と誇った山の幸もまたたくまに無くなり、ここに全道の同族同様、岩村長官の心配したように、農耕生活に移らねばならなくなり、しかもその耕するべき土地すら、次第に狭小となり、先に札幌県が予定した給与地も和人の入りこむところとなる。そこで道庁は彼等の既得権を保持し、かつその生活安定を保護するため、二十七年、前の予定地を次の通り割り渡す。」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

なかなかの紆余曲折。
前項にあった、役人の大ボケで貸付予定地に、「団体又は個人で入地」させてしまった事はここでの反映してる。
だがギリギリの既得権を認めて当初予定に近付ける方向で貸付が終了。

ここに「近文コタン」誕生す。

道庁にしても、北海道全体の開発と貧困層保護を同時に両立させ進める事になるので、片側ばかり見ていればよい場合ではない。そこは要考慮。
だが、難儀は難儀、ミスはミス。
ここで思い出して欲しい。
前項から連続して戴ければ解るが、
・既に資源枯渇は深まり→
・保護施策が施行→
・集団化→
・予算が不足したら開墾を放り出す→
岩村長官の説得と再計画→
・役人の大ボケ&再調整→
・近文コタン誕生…
これが一連の流れ。

元々、農耕へ転換せざるを得ない状況が先で、立ち消えしそうになった所で、岩村長官の采配で方向性をつけ着地…これが軸。
上記の通り、前項…つまり江戸期からの流れを網羅すれば、ここに強制性を持つ移住は無い。
背景を押さえる必要があるのはこんな事からだ。
が、計画性,実行力の薄さは否めない。

本題に戻り、算数の時間。
恐らく各文献では、この時の貸付地を「5町歩」と記載していると思う。
先の引用の先に各人に
貸付られた土地配分が記され、23,000~7,500坪とあり、概ね15,000坪。
1町歩=3,000坪=概算1ha(ヘクタール)なので、この1,5000坪÷3,000坪=5町歩…これがベースだった事になる。
因みに、東京ドーム→4.7町歩。
貸付地は東京ドーム一個分強の大きさで想像すれば良い。
田舎ならむしろ…1町歩=10反歩だから、小さい田んぼが50枚。
さらりとググって、平成27年平均の一軒辺りの耕地面積は
全国で1.4ha、都府県平均1ha、北海道で20.5ha…
概算1町歩=1haとすると、現在の北海道以外の農家の平均耕作面積の5倍の面積、北海道の農家の平均耕作面積の1/4程度に該当するか。

まてまて!
筆者は農業県なので、田んぼの枚数で概ねの面積とその労力を想像するに、農業経験の無い者にこれを耕させるのか?
都府県の販売農家の平均耕作面積で約1.5町歩なので、現専業農家の三倍強の面積…
ラクラする。
筆者が地元で農家さんから聞いているのは、現在の中途半端な耕作面積の話だ。
機械化も含めガンガン耕作面積を増やせば実入りは増える。
個人単位で輸出を考えても、収量不足でオーダーに届かない。
広く耕作面積を持つ北海道は、それだけで他の都府県に対し、巨大なアドバンテージを持つ。
但し、耕作労力を確保出来れば…の註釈が付く。
殆ど農耕経験の無いアイノ集団の個々に対し、北海道を除く平均耕作面積の三倍…
ぶっちゃけ…労力的に出来るのか?、これが第一印象。
こんな風に、各背景を並べたら、その後にどうなっていったのかが理解し易いかと思う。

労力を確保出来てやる気のある者なら、こんなアドバンテージを活かして、充分農耕で食っていける準備は貸付された。
農具も支給、指導もset。
但し、やる気が薄い,労力が確保出来ないなら、当然の事上手くはいかなくなる。


ではこの後は?

「近文アイヌ、三十六戸にそれぞれ土地を割渡してその成墾を期待したが、成績甚だ振わず、良好なものでも僅かに二、三段歩に過ぎず、元来漁猟に原始生活をしていた彼等に耕作の努力は容易に身につかぬ。」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

またナチュラルdis…
教育や開発の効果が出るのはこの後の時代。
開拓出来た者と開拓出来なかった者の差が大幅に開く設定だった事を抜いて「未開人扱い」はもってのほか。
一応…
これを書いているのは教育委員会に関係した学者や教員等…第三者の目による。
つか、学者,教育関係者の一部には、こんな見下した先入観を持ってる者が居たのは事実だろう。
未開、出来ない連呼だし。
段歩とあるが反歩…つまり小さい田んぼ2~3枚程度の耕作しか進められず、きのこや山菜、鮭らを捕り生活していた様に記載される。
だが、鮭ら漁獲資源の枯渇は深刻で、下流域での「不動漁具設置」でいよいよ劣勢となったとある。
ここで「不動漁具」を設置したのは神威古潭及びその下流に所謂和人が設置と書いているが…
はて…シテ漁はアイノ集団の得意技だったのでは?ここでそんな漁はしてないのか?
いや…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105
石狩川流域では古代にこんな感じで、近文付近の人々が知らぬだけ。
まぁ良いか…
これに酋長川村モノクテらが、旭川町担当を通し道庁へ漁獲確保ら陳情し、道庁が措置したとある。
この陳情は明治28年
つまり近文コタンが誕生した翌年の様だ。
この辺が近文コタン誕生直後の状況。

あくまでも参考だが…
この10~20年前後後の時代、上川はこんな感じ。
「明治大正期北海道写真集」より…
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未開拓部分と急速に開発が進む所が少しだけ垣間見れるかと。


と、やっとここまでで、取り上げようと考えていた所までの布石へやっと辿り着く。
つか、背景をこの程度書かないと説明不能
巷で言われる話には、これら経緯の流れや背景は殆ど登場しない。
熟知せぬ者に理解しようとさせようとするのが「ムリ」。
筆者もこんなボリュームになるとは思っていなかったので、発信者は気を付けるべき。
だから「時を下れ」と言う。
時系列で並べないから、洗脳モドキに引っ掛かる。
これからエグい話へ移っていく…
そこはまた、この後で。




参考文献:

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10

「明治大正期北海道写真集」 北海道大学付属図書館 1992.3.38