この段階での公式見解-34…割と狭い人脈、近文は「川村モノクテ」と「金成マツ子」で繋がる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
前項をこことして話を纏めてみよう。
ここで、初代北海道庁長官岩村の呼び掛けで周囲からアイノ集団が集まったのが「近文コタン」の始まりと書いた。
その酋長は「川村モノクテ」、そして「川村カネトアイヌ」に引き継がれた…は概報。

ところで…
割とアイノ社会は狭い。
酋長に絡み、後の活動家達が生まれるせいなのか、軸になる人物の周囲にバタバタ居る。
旧「旭川市史」には、三世代位の系図が記載されているので、その一端のみ説明してみよう。


長くなるので要約で…
川村モノクテが酋長となる経緯…
幕末~明治にクーチンコロと言う惣乙名が居て、明治5~6年頃に自身の子に自信を持てず人々を集め、子以外の人物を選ばせた。
これが川村モノクテ。
酋長制は廃止されてたが、観光客の便宜上自身と名乗った模様。

この川村モノクテ(永山キンクシベツ出身)には数人の男子がおり、
①長男で分家した「川村シトバンカアイヌ
②モノクテを継いだ次男「川村イタキシロマ
③何番目か記載なく分家した「川村クウカルツク」
④比布出身「サンクルアイヌ」へ養子に出た六男「荒井(川村)ケトンチナイ」
この四名の記載がある。

さて、②…
川村モノクテ次男のイタキシロマの子供が「川村カネトアイヌ」になる。
ここが酋長直系の家系。
次は③…
川村クウカルツクの娘が川村(結婚し砂沢に)クラ。
アイノの語り部として有名な「砂沢クラ」と「川村カネトアイヌ」は、親父同士が兄弟なのでいとこになる。
その次は④…
養子となり荒井ケトンチナイとなった川村モノクテの6の息子が「荒井源次郎」、いとこになる。
この人物もアイノ活動家。
第三次近文コタン土地問題で活躍、「旧土人保護法撤廃」に尽力。
それぞれが、後に各種活動を展開して行くので、そのルーツは「川村モノクテ」に至る事になってくる。

さてさて…
ここから人脈を広げてみよう。
近文コタン近くには、明治30年代にキリスト教講義所が出来て、キリスト教布教の為、コタンの若者や子供を集めていたとある。
それを作ったのが宣教師ピアゾン師。
実はこのキリスト教講義所に川村(砂沢)クラは通っていたとの事。
ここで、川村(砂沢)クラとキリスト教の接点が出来る。
その後、ピアゾンが北見へ行く事になり、後釜が平取から赴任した「金成マツ子」。
(筆者註:一般には「金成マツ」となっているが、旭川市史の記載は「マツ子」になっているので「マツ子」とする)
平取ではかの「ジョン・バチェラー」とも接点があり、金成マツ子の布教活動には、周囲の聖公会牧師やバチェラーが協力し布教を重ね、昭和3年聖公会組織変更まで金成マツ子は在勤していたとの事。
当然ながら、川村(砂沢)クラも顔を出す様になる。
そして、金成マツ子の甥と姪が、「知里幸恵」,「知里真志保」の兄弟。
後に金成マツ子は幸恵を養女とする。
この辺で近文コタン酋長の家系とキリスト教宣教師らとの接点が太くなっていく。
wikiではあるが…「砂沢クラ」の項目には、この金成マツ子を中心に、人々が集まる様になっていき感、川村(砂沢)クラの母親「川村ムサシマ」らも集いユーカラを楽しんだ様である。
このwikiでは、当時、近文コタンでは女性がユーカラをやるのを嫌がる風潮があったと言う。
が、金成マツ子を軸にユーカラの集いが起こり、そこにさえ行けば楽しむ事が出来た事になる。
金成マツ子、川村ムサシマ、川村(砂沢)クラ、知里幸恵…それぞれがユーカラの達人として、後に名を馳せ、ユーカラの研究,保存に協力している。
金成マツ子は布教だけでなく、旭川市史上でも婦人矯風会長,婦人青年団地,小学校保護者会副会長らを勤めていたとあり、アイノ社会内での女性地位向上も活動した様である。
川村(砂沢)クラは、知里真志保アイヌ語を教えたとか。
勿論、知里真志保は後に上京、金田一京介博士を頼り、北大教授となったのは言うまでもない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834
姉の知里幸恵金田一京介博士の研究を手伝っている。

更にwikiではあるが、川村カネトアイヌの妹の川村コヨ。
勿論、川村コヨもいとこである川村(砂沢)クラと仲良しであったらしいが、これが後に、平取出身で白老で活躍する貝澤藤蔵と結婚。
若い頃、川村カネトアイヌと一緒に次号をしていたらしいが、同時にバチェラーとも接点があったとか。
何より、バチェラーが川村モノクテ宅を訪れており、それとなくこれら人物らと顔見知りであったり、バチェラーの活動が平取の長ベンリクウから始まったのは既に紹介している。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305
そして、バチェラーが英語版アイヌ語辞典を著し、「アイヌ」と言う単語を使い始めた人物。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/23/193547
金田一京介博士の研究開始はそれよりずっと遅く、明治39~40頃に北海道,樺太を訪れる。
何せアイノ研究はバチェラーの辞典らと海外研究が先行、それを憂いた師の勧めで金田一博士は研究を始めたとか。

上記人脈の中で、時系列的に早いのは、川村モノクテが上川アイノの酋長となる事、やバチェラーが平取を訪れる事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
否定された「縄文=アイノ説」らは、大正~昭和初期。
この時に既に、上記の様な人脈は形成されており、40年程度は経過している。
何より既に、観光アイノは始まっている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
当時の人々や研究者はムックリの経緯を知っていて観光アイノのものだと熟知していても、観光アイノをインフルエンサーとして知った一般人にとっては、そんな事を知る由は無い。
必然的に「縄文=アイノ説」に傾いたとしてもおかしくはない…と言う訳だ。
こんな一端でも時系列,時間軸を入れ込めば、こんな事象が起こり得る背景も読み取る事は出来よう。


wikiも、きっかけ作りには便利。
関連した人物のリンクを追えば、ネットサーフィン可能。そこから文献らを辿れば人脈の繋がりは見えたりする。
そして、人脈こそ我々が「ネットワーク」と表現しているもの。
上記の様に、近文コタンの人脈は川村モノクテから開始、それが金成マツ子と女性人脈らで平取やバチェラーとも接点拡大していっていた様に見える。
恐らく、ネットで上記人脈のリンクを辿れば、親兄弟,配偶者の中に活動家らが居る事は解ろう。
そして、割と狭い人脈で、むしろ声を上げない,名前が出てこない人々が圧倒的に多いのではないか?と言う疑問にも至るかと思う。
活動家は、観光アイノに携わっていた事も合わせて。
活動家らが、地位向上に重要な役目を果たした功績に揺るぎはない。
そして、多くの政治的活動に、近文コタンの様な付与地,供与地,共同供与地なる文言を含む「土地問題」が含まれる事を忘れてはいけない。
そしてそれは「旧土人保護法」の運用や都市開発,土地利用と結びつく。
つまり、現代の政界の人脈とこれら事象はリンクしている。
当然なのだ。地方代議士は元々は如何に国費を地元へ誘導するかが仕事の一つだった。
地元で金と名声を得る背景に「土地開発」の問題が無いハズもなかろう。
それらで財を成した者が代議士になっていたのは否めず。
つまり、歴史的経緯を丹念に辿れば、現代政界の構図には自ずと繋がる。
史書にある近文コタンの土地問題だけでも、地上屋横行ら結構エグい。
その辺は、政治的発信をしてる方もちゃんと掘り下げるべき。
現代の構図にどうやったら辿り着くのか背景を知らねば、迂闊な事は言えなくなる。

要約したが、この辺で。
土地問題らはまた別の機会が有れば…



参考文献:

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10