松前藩の「寛文九年蝦夷乱」の処理の遠因はこれでは?…「島原の乱」終結と「松倉氏」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
これを前項としよう。
前項の「犾蜂起ニ付集書」の部分を見て戴きたい。
津軽藩は「幕命」により、寛文九年蝦夷乱への援軍と調査を指令されていた様だ。
だが、松前藩は側に行く事すら拒否、各種調査に協力する処か不快感を露にする。
少々奇妙でもある。
確かに、自領へ他藩が踏み込むのには抵抗はあろう。
これは、ちゃんと蝦夷地を自領として捉えていた証左とも言えよう。
が、一斉蜂起されたら大事になりかねない事態でもあり、戦力的にも限られていたのは否めず。

さて、話は飛ぶ。
たまたまグループメンバーと、全く関係ない話をしていた。
これも極たまたま、仙台藩士について調べようとしていたところで目についたので、ちょっと見てみた。

「和田
出自 和州高取城主松倉一族
禄・扶持高 一六一貫四二八文
召抱藩主 政宗
格式 着座
延宝書上 本人養父因幡一二・三才にて
伏見で知行一〇二・三貫文で
被召出(世臣家普・因幡が従
弟が高取城主松倉式部)~後略」

「私本 仙台藩士事典(増訂版)」 坂田啓 今野印刷(株) 2001.5.20 より引用…

何となく引っ掛かり、ググる
大和の松倉氏と言えば…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E9%87%8D%E4%BF%A1
この辺だろうか?
松倉重信
筒井順慶の家臣の武将と従兄弟に当たるか。
何となく記憶あるので、何気に辿ると…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E5%8B%9D%E5%AE%B6
松倉勝家
そういえば「島原の乱」勃発のきっかけを作った人物。

Wikipediaではあるが…
「同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首刑に処せられた。大坂夏の陣以降、大名が武士に与えられた最期の名誉である切腹さえも許されず斬首刑に処せられたのは極めて異例のことであり、事実上、江戸時代を通じて斬首刑に処された大名は勝家ただ一人だけである。」

勿論、改易の上。
子孫には旗本として存続した系統もあるがさすがに斬首刑とは、三代将軍家光公恐るべし。

さて、話を戻そう。
当然、寛文九年蝦夷乱はこの数十年後になり、キリシタンら含む大一揆により、改易&斬首刑と言う事例が出来てしまっている。
天下泰平の世の武家にしたら、最大の屈辱になってしまう。
当然、島原の乱の詳細は松前藩にも届いていたであろう。
ましてや、伊達氏と関係あるので、上記和田氏からも情報は伊達氏経由でもたらされた可能性も。

これなら、蝦夷地のゴールドラッシュの状況を踏まえたら、松前藩としては幕府にバレる訳にはいくまい。
津軽藩に触られるのも拒否する理由にもなろう。

あくまでもグループ内での話で出た推定に過ぎないが、これなら充分に松前藩が隠そうとした理由にはなろう。
成立したての新藩なのだから。

どうだろう?
あくまでも邪推だが…
あくまで備忘録…



参考文献:

「私本 仙台藩士事典(増訂版)」 坂田啓 今野印刷(株) 2001.5.20