幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

「この時点での公式見解26-b…蝦夷乱と社会情勢にロシア南下を重ねると、如何に緊迫したか解る ※追記-b」…

こちらを前項として繋げてみよう。

前項で幕別町白人村古潭の話を書いた。

戴いた写真にはあの通り。

では、もう少し詳しい経緯を昭和42年版の「幕別町史」から拾ってみよう。

現在の幕別町はこんな位置。

西は帯広市、南は大樹町を挟み広尾、東は池田町ら、北は音更町

かつて白人(チロット)村と呼ばれた村は、昭和19年から千住地区(相川地区等の一部含む)となっている様だ。

明治25年佐賀県人の岩永右八が入植。

岩永氏は他に移転したが、その後単独入植が多くあり、明治29年には学校建設の話が出て、翌30年に開校する迄発展した、それ以前はアイノ文化を持つ人々が多く住んでいたとある。

では、どの様に白人古潭が出来ていったのか?を並べてみよう。

①伝承では、天正十(1582)年に日高から幕別へ攻撃があり、猿別のチャシに立て籠もった。

何故日高から攻撃されたか?勝敗はどうか?らの詳細は途切れているとある。

②十勝開拓の一環として1660年代に広尾に運上所が設けられる。

知行主は「蠣崎広林」。

当然ながら後に場所請負制へ移行していく。

広尾については、十勝側の入口として松浦武四郎らも記録し、近藤重蔵が様似〜広尾の開削道を作った話は概報。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193625

「北海道には文字がある、続報6…「松浦武四郎」が記す、「片仮名」の痕跡」…

こんな話だ。

既に土着した人々は仮名文字を使えた話である。

③ここからが白人古潭の元祖である。

基本、母系で5系統に分かれており、大正八(1919)年版「幕別村史」によれば村内の札内河畔に住む女性が、寛延2(1749)年頃に他所から入ってきた男性と結婚したとあるそうだ。

また母系統調査で、同名の女性が先に幕別にいて、網走方面から移住した男性と結婚し、白人村に住み始めたとされ、それ以前は止若と猿別に数戸毎住む者が居たとされる。

また、古老の話では、二人の男性が、当時行われたトパットミ(夜襲による略奪)に組するを潔しとせずに水草を追って北見(湧別)方面から脱走し1人は日高へ、もう1人が幕別に移り住んだとされる。

母系で、

ハウスアンル系…

シアリセルシ系…

ホクペアマ系…

ハウパッハレ系…

コイリマツ系…

との事。

この内、ホクペアマ系になるのが活動家第一世代の1人「吉田菊太郎」翁である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

本ブログに度々登場するこの人物だが、その3代前迄母方の名が連なる。

さて、前項のパネルにも有るように、これら幾つかの話で共通するのは、

①先行した少戸数があった。

②その中の娘がオホーツク方面から来た男性と婚姻し土着、白人古潭を作っていく。

③移住年代は概ね1750年前後で、男系は全て他所からの移住。

の3点。

この辺でパネルの様な説明になる様だ。

この母系5系統でも、元々幕別周辺に居たとされるのは2系統だけで、後はウシシベツ,マカンベツ,カモツナイの3箇所から移住した娘が、釧路,屈足,川上の男性と結婚したとあり、これら5系統で8〜9割を占めるそうだ。

つまり、元々幕別に住んでいた人々は極僅か、他はほぼ他所からの移住で白人古潭に土着した事になる。

ここで記録に残る幕別町の戸数を。

嘉永3(1850)年…17戸

居住地はヤムワツカビラのみ

安政2(1855)年…22戸

居住地はヤムワッカ,イカンベツ,ベッチヤロそしてチロット(白人古潭)

・明治4(1871)年…24戸

居住地は安政時点にマカンベツが追加

・明治43(1910)年…78戸

・大正5(1916)年…78戸

実は、戸数も人口も増加している。

この中で安政5年に松浦武四郎が独自に確認した時には安政2年と同数で、特に十勝全体の1割は幕別町に住んでいたと記載があり、十勝の他所に比べ住みやすかった様だ。

以上…

とは言ったものの、何故明治初期から明治末迄で戸数が3倍になるのだ?

総人口も153→286と1.8倍に。

著しく分家化した訳でもなさそうだが…はて?

まぁこの部分の記載は此処まで。

これ以上の記載が無い以上、深い突っ込みは今は止めておく。

いずれ「人口インパクト」は気になるところ。

もうこの頃には各地で観光アイノも始まっているし、何より旧土人保護法も施行済である事は付記しておく。

因みに、明治4年の集計は「静岡藩」のものになる。

 

さて、前項にある看板パネル同様に、白人古潭や幕別町の各集落が主に北見,網走側、他東蝦夷地からの移住により成立したのは間違いなく、主に広尾の運上所との行き来で生計を立てた事は想像出来る。

で、ここで合わせて住居についても記述しない訳にはいかなくなった。

 

この手の北海道の地方史書での常套句は「先住民族はアイノ」である。

ここで対象として登場するのが「コロボックル」。

伝承上の話ではあるが、昭和初期を中心に

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

「近代学問創世記からの警鐘…アイヌ問題は今始まった訳ではない」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507

「ある意味一刀両断…言語,文学博士達の警鐘」…

こんな風に「否定された縄文=アイノ論」やらで学会が侃々諤々やっていたのは概報。

これを未だにぶり返そうとする愚かな者も居るのも確かなので、バカには出来ないのだ。

仮に、現代の最新科学で「コロボックルが何らかの集団に比定」されてしまえば、アイノの先住性そのものが吹っ飛んでしまいかねない。

さすが昭和40年代…コロボックルは伝説だと言う事を説明する為に、こんな記述がある。

鍵は「コロボックルは穴居に住む」…である。

 

アイヌ民族以前に、ほかの民族が住んでいたかどうかについては多くの論議があった。例のコロボックル伝説も、その一つである。 コロボックルとは、コロコニボクウンクルを略したものとされ「蕗(ふき)の葉の下の人」の意味である。またはトイチセクル(土の家の人) トンチカモイ (土の家の神)トイチセコッコ ロカモイ (土の家を持つ神)あるいはトイチセコッチャカムイ (土の家のかたわらの神)と本嶋蝦夷は呼び、樺太蝦夷は、これをトンチと言った。

コロボックルの身体はきわめて小さく、一本の葦を数十人もしくは数百人でかついだ、といい、または一枚の蕗の葉の下に数十人、もしくは数百人が立つことができたといわれている。メノコ (蝦夷婦人)の入墨はコロボ ックルの真似をしたといわれ、この伝説は明治から大正にかけてひろがり、その実在を信ずる者もあった。その 後、研究がすすむにつれて、コロポックル説は単なる伝説にすぎない、ということになった。それを裏づけるも のとして、宝暦十三年(一七六三年)十勝西部に漂着した舟子(名古屋の船頭吉十郎など)が幕府に提出した書状に、次のような事が書かれている。

 

五月二十日 (宝暦十三年) 嶋の様なる所見え申候に付、力を得、伝馬船を下し、上り可ㇾ申と存候得共、大分の荒磯に で、船にては上り申事中々難ㇾ叶候故、十町許沖より、各泳ぎ上り申候得ば、人家も見え不ㇾ申、山深く相見え候故、如何可ㇾ仕と存居候処、七許の者一人参り、何とやらん申候得ども、一円通じ不ㇾ申候故、此方より助けてくれ候様にと相頼候得ども、是も通じ不ㇾ申候に付、手を合せ礼を致し候得ば、彼者も手を合せ礼を致し候て、私共手を引、山の奥へ連参り申候。

十四、五町許り参り候得ば、穴を掘り、上に木の皮などにてかこひ申候、段々御座候。何れも畳五、六畳も敷可ㇾ申體相見え申候。(中略) 此処奥蝦夷トカチと申処の由に御座候。

 

この文章にもあるように、当時の蝦夷人は穴居人で、竪穴住居としていたことは間違いなく、 コロボックルと竪穴との結びつきは根拠かない、ということになる。明治から大正、昭和のはじめ頃まであった草ふき小屋は、和人が入地するようになってからのもので、現在、本町内には、この種の住宅は一軒もみられず、僅かに古い 写真によって知るのみである。」

幕別町史」  幕別町史編纂委員会  昭和42.9.15  より引用…

 

現代の我々からしたら何となく笑ってしまいそうな文章に思われるかも知れないが、そう思った方は反省すべきだ。

学会を揺るがしていたのは間違いなく、その緊迫感を知っていればこんな表現になるし知らねばわざわざ書きはしない。

筆者的にはさもありなん。

さて、此処まで明確に書かれている点については筆者も想定外である。

まんま読めば「十勝は、明治の入植者が入るまでは竪穴住居を使用した」事になる。

同書に添付された写真を見る限り、確かに段が付いている様だ。

まさか?…

いや、そちらは想定内。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117

「本当に「竪穴→平地住居化はアイノ文化への変遷の指標」になるのか?…「新編天塩町史」に記述される幕末迄竪穴住居が使われたとされる事例」…

天塩、宗谷方面がそうだと言っている。

それに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848

「ゴールドラッシュとキリシタン-28&生きて来た証、続報39&時系列上の矛盾…松浦武四郎が記す、多くの金坑跡&穴居,畑跡」…

松浦武四郎らは「穴居跡」を記す。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134

「それは本当に「チセ」なのか?…我々が疑問を持つ理由と提案」…

元々、我々は茅葺き屋根の家が全てチセなのか?と疑問を持っていた。

個人入植した人々の家の多くが茅葺き屋根だったのを学んでいたからだ。

そして、詳細は記載していないが「夷家」、つまりyezoの住居を一発で見極めている点。

外観上の差が無ければ無理なので、それに引っ掛かっていた。

更に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

「この時点での公式見解⑥…幕府の帰「俗」方針であり、明治政府に非ず」…

幕府同化政策の一環、衛生上の観点から「床をつけるべし」、これは今迄もあちこち記述があった。

これも引っ掛かっていた点。

竪穴住居の場合、床は必然土間になる。

これがこの「幕別町史」にある様に「平地化は明治から」が正しいとするなら、こんな推定は成り立つのではないだろうか?

樺太に近い天塩,宗谷方面、千島に近い十勝方面、及び場所運上所,会所から離れた地域では、幕末迄竪穴住居は使われていた。

・場所運上所,会所に近い地域は、幕府奨励策に合わせて平地化していった。

・全体が平地化したのは明治以降で個人入植者の住居の影響を帯びる。

松浦武四郎は竪穴住居が使用されていた事を知っており、それを「夷家」と表現し、「穴居跡」は「夷家跡」だと考えていた。

・既に明治初期には竪穴住居は失われており、明治からの西洋学術の導入で行われた調査では「穴居」は原野に残る擦文らの竪穴住居跡のくぼみと判断された。

・故に、平地化→アイノ文化の指標とされた。

・但し、地域や時間軸を何処にとるか?で竪穴住居の使用は幕末位迄行われ、平地化が遅れた地域の地方史書にはその記載が残る。

・中世末〜近世初期に天塩,宗谷や道東はそれぞれメナシ国,テンショ国とされた奥蝦夷の領域という共通項を持つ。

純然と竪穴住居が残っていた樺太,千島から文化グラデーションは掛かっていたとしても全く矛盾はしない。

・それが考古学上で指摘されて来ないのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

多くの場合、撹乱された表土と火山灰(有れば)は重機で剥がすからだろう。

ただでさえ撹乱される。

厚真の様に「土層のカンナ掛け」でもやらない限り検出は難しいのに、始めから「黒0」の出現を想定するならまだしも、そうでもなければ追い立てるタイムリミットに迫られ遺構は破壊されて終了。

期待する方が酷かも知れない。

・つまり、竪穴→平地化は地域や時間軸によりアイノ文化化の指標にはならない。

以上。

昭和50年代初頭位迄の地方史書には、これら記載はある所にはある。

また平成以降再編纂れた地方史書にはこの手の記述はあまり記述はない。

ここで…これらは我々が考えた新説でも珍説でもない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/12/200407

「東蝦夷地の「ヲキクルミ」への信仰は二種…編者が註釈する当時の認識」…

こんな風に書いてある。

知られた話だった事が解る。

何時、誰が書き換えたか?は、地方史書、論文らを読み込めば当然解る。

上記の通り、地方史書にある以上研究者や教育委員会レベルで知られた話だ。

皆知っている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

知っていた上で、こんな事をしたり、書き換えを行っている…と、言う訳だ。

何故、知っていると断定出来るか?

忘れてもらっては困る。

「白人古潭」は、活動家第一世代である「吉田菊太郎」翁の出身地。

金田一博士も河野広道店高倉新一郎両博士らも、それら活動の後見役だった。

一番最初にインタビューしているだろうし、川村カ子ト氏のルーツ探しにもアドバイスしているだろう。

元々新北海道史らを見る通り、北海道史構築の中枢に居たのはそんな博士達。

「系統立てられた学問」と言うななれば彼等が調査した内容が反映されていない方がおかしいだろう…故に知らぬハズはない。

 

さて、上記2点、如何であろうか?

・白人古潭を始めとした幕別町のアイノ文化系の集落は「移動と婚姻」により出来た。

・この周辺では入植者が入る迄は「竪穴住居を使用」しており、それは道北と共通しており、地域や時間軸によってはアイノ文化化の指標にはならない。

・これらは元々知られた話であろう。

纏めるとこんな所だろう。

蝦夷と奥蝦夷(yezo)で住居文化に差があるなら一様に一括りは出来なくなり、且つ口蝦夷の文化は東北に近づく事になる。

これらを見ても「時空のシャッフル」は行われているとしか考えられない。

見直すべきと考えるが。

 

一点付記しよう。

猿別のチャシの一件。

何故か年代だけ妙に明確に伝わっていたりする。

天正十年…

丁度、大浦(後の津軽)氏が南部氏から独立すべく「浪岡城攻撃」等を行っていた最中では?

まぁこの辺はおいおい。

 

 

参考文献:

幕別町史」  幕別町史編纂委員会  昭和42.9.15