https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/202607
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140
この辺を前項に。
この項は備忘録的なもの、背景を捉える為のものとお考え頂きたい。
「ジョン・バチェラー」が記した西洋がアイノ文化に注目していた件、これを示す事例は幾つかある。
ググるだけでも出てくる。
このグループでディスカッション始めた頃から、「こりゃ酷いな」「ブ○リスが!(自主規制)」etc…アイノ文化に全く興味ないメンバーでも、立腹する様な件は出ていた。
では、どんな事なのか?
それは幕末まで遡る。
「日本人種論は、アイヌ論から始まって、まだその結論がみられていないのであって、いまなおというより、ますますアイヌ人骨は、その貴重さを増している。だから、多くの国内の人類学者はもちろんのこと、外国の学者たちもなんとかアイヌの人骨を手にしたいとその機会をねらっている。」
「アイヌの骨を人類学的に計測しようと試みたのは、イギリスの学者であり、事実、その目的をある程度は達成している。それは江戸時代の終わり、慶応元年(一八六五年)のことであった。この年の九月と十月の二階にわたり、当時箱館でイギリス領事をしていたハァワード・ワイスらが、渡島国の森村と落部村でアイヌ墓地を発掘し、人骨を本国へ送った事件があった。これはイギリス本国の人類学者の要望により、イギリス本国政府→駐日イギリス公使バークス→箱館駐在イギリス領事というコースで計画されたことであった。
この事件は、「箱館駐在英国領事館員のアイヌ墳墓発掘事件の顛末」(阿部正巳)として、人類学雑誌三三巻五号(大正七年五月)から、一二号(同年十二月)にかけて
詳細に解説されている。」
「イギリスの学者たちが、どうしてアイヌの骨をほしがったかというと、この事件について詳しく調査されている北大の児玉教授は次のように話している。「慶応元年の初め、イギリスの軍艦が噴火湾に来たとき、館長フォーベスがアイヌ人骨を持ち帰り、それをロンドンの万国地理学会で発表した。それをハックスリー博士が注目して以来、東洋に白人がいるといって騒ぎはじめた。」」
「ワイスらは第一回目、九月に森の墓地では、四体の人骨(うち一体は頭だけ)を掘りだし。これをロンドンの博物館に発送した。これに味しめて、二回目、落部の墓地に目をつけた。領事館員三人と、日本人小使一人の四人は鉄砲二丁をもって落部にきた。当時、外人の旅行区域は、箱館より一〇里となっているが、行程一〇里とするか、直径をとるのかで、その範囲にかなりのズレかまでてきたようだ。一行は、宿屋では「鴨を打ちにきた」と言って、墓地のある山にでかけたが発掘現場をとおりかかった一人の日本人は、銃でおどかされて逃げ帰っている。この日本人から事の次第を聞いたアイヌたちは、自分たちの墓から市三体の人骨が持ち去られているのを確かめて、箱館奉行小出大和守に訴えてでた。こうして、アイヌ人骨をめぐり日英外交折衝が始められた。」
「アイヌの墓」 藤本英夫 日本経済新聞社 昭和39.9.10 より引用…
後の経緯は要約。
小出大和守と言えば、松浦武四郎の「蝦夷日誌」に登場している。
この人物は、樺太の国境で日露折衝をし、雑居規則を結んだ。
領事ワイスは、当初墓暴きを全面否定してきたが、箱館に居たポルトガル,フランス,アメリカ領事を呼び他国立会の元で追求し、館員一人の自白を取り付ける。
ワイスはそれでも「自分の知らぬ事」と責任回避。
実は途中、加担した日本人小使捕縛に着手も発砲妨害を受けたりした様で。
小出大和守の追求が厳しい為、ワイスも立場が悪くなったか、二回目の13体(隠していた模様)を返却でケリをつけようとしたが、徐々に一回目の森での墓暴きが露見してきた様だ。
小出大和守は13体を受領の上、一回目も返却の上で犯人の入牢を要求した。
それに対して、一回目の4体は異臭酷く海に捨てたと回答。
小出大和守は幕府へ、ワイスはバークス公使へ報告していて、ここで幕府がバークスへ関係者の処断要求。
バークスにすれば、他国にもバレてる話故に大事になるのを憂いて、来道し小出大和守と折衝、ワイスを罷免する。
小出大和守はそれでも、4体返却を揺ずらず、英国側に探させた(勿論カモフラージュでやるハズも無し)。
新任領事のガールは4体返却と賠償金を、バークスが幕府へ「謝罪状」を出す事で一応解決する事になる。
再三督促し、約一年後に上海経由で返却をみる。
顛末記を著した阿部氏は「替玉だろう」記している模様。
昭和10年、この話を受け、北大の児玉教授が再調査。
この落部の墓地は既に魚粕の干場に変わっていたが、片隅から頭蓋骨&四肢骨×13体分が箱に入って発見されたそうだ。
つまり埋戻しはされなかった様で。
ただ、盗掘謝罪の意味で、英国側が石の墓碑を建てた様だ。
で、森の墓地は埋戻しに立ち会った古老曰く「非常に臭かった」と。
だが…
後日児玉教授が、大英博物館見学のおりに、資料目録を確認したところ、「アイヌ人骨3体」が保管されていたとある。
他の人骨は収集詳細が記録されるが、この3体の人骨のみ「記録無し」。
まぁ、これが不平等条約下の外交史の一端且つ、外国人学者が如何にアイヌ人骨へ関心が強かったか?を物語る…と、「アイヌの墓」著者の藤本博士は閉めている。
勿論「アイノ=白人説」は否定されていたかと思う。
ダーウィンの「種の起源」が出版されたのが1859年、盗掘が1865年なので、大英博物館も鼻息が荒い時だったのだろう。
ここが重なれば、如何に欧米が騒ぎ立てていたか解るかと。
エジプトと言わず、中東やペルシャと言わず、中南米と言わず、清や蒙古と言わず、発掘なのかトレジャーハントなのか微妙な程に掘っている。
勿論、欧米の当時の技術が有ればこそ、失われずに済んだであろう事も踏まえねばなるまい。
場所によっては、売買対象として盗掘され富裕層の財宝されていたのだから。
さて勿論幕末に、科学的発掘なぞ我が国でされるハズもなく…
故に、明治政府はアジアが欧米に掘り進められる前に、西洋学問に追い付け追い越せをやらざるを得ない状況だったと。
もう、お隣の大国は浸食され、当てになりもしない時代に突入していたので。
現代、小出大和守の様な「主張を曲げない外交官」が、我が国に居るのか?甚だ疑問…それは置いておいて…
当時の社会観念からしても、盗掘は「NG」なのはこれからも解るだろう。
現状も、発掘調査で明確に墓を掘る…古墳らしかやれないのは、さすがに現在も先祖が眠る墓域で代々使われる所を掘る訳にはいかないからもある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/10/200512
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
現実的には、今は墓域でない場所を発掘したら往古の墓域に当たった、又は、都市開発上やらざるを得ず住民との話し合いの上で移築条件を設定するかしかやってはいないようだ。
前項として貼った「高砂貝塚」も、墓域ではない「貝塚」の発掘で人骨や墓域が見つかったに過ぎない。
但し、貝塚周辺は人骨が出る「可能性は高い」事は見込んでいるだろうが。
敢えて言えば、穢の意識が強いとされるアイノ文化においては、葬送後の墓参をせず、移住で墓域が変わって全く違う土地利用になってしまえば、全然別の発掘調査で(今は利用されぬ)往古の墓域にぶち当たるのはどうしようもないし、それは上記高槻城跡の事例の通り。
北海道でも、墓域の上に後代の住居跡がある場合もある。
但し、本項の様に、現状利用される墓域を掘り暴くのは、幕末同様に許される事では無い。
まだそこには、先祖が眠っているのだから。
昨今もあれこれ、某博物館の一件で何やらあった事は報道等にもあったようだが、学術調査と信仰の線引きはちゃんと整理すべきことだろう。
最低限、現在も墓域かそうでは無いか?
ここは重要と我々は考える。
現在墓域で使っていない場所は?
あれ?
魂は神々の元に「送られている」のでは?
まぁここまで。
整理するのは現地でやる話。
他地域の人間のする事では無い。
如何であろうか?
当時の国際情勢を被せてみると、欧米が騒いだと記述される背景が見えるだろ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033
近代学問へ追いついた段階でこれ。
如何にマスコミが騒いだか?想像に易しい。
良い意味で話題提起するなら、これ程心強い物もない。
だが、添付事例の様に、印象操作が無いとは言えない。
そこは、情報を受け取る側の責任もある。
ファクトチェックは必須。
コロナ禍報道を見れば想像可能。
今や、騒ぎ立てるが「収束させる話」を念入りにするマスコミがあるのか?
恐怖を煽るだけで、そのプロセスを話す者無し…これが、答えでは?
情報の無い当時は、もっと印象操作は強く掛かるが。
「歴史は繰り返す」…
いや、その成功例を元に「歴史はぶり返される」…かな?
参考文献: