ジョン・バチェラーが「昭和天皇」へ語った事とは?…名付け親「ジョン・バチェラー遺稿」を読んでみる2

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さて、ジョン・バチェラー遺稿からもう一つ。
彼の活動は多岐に渡った。
当然、布教活動が立場的には最重要なのだろうが、合わせて慈善活動として学校創設、女性の地位向上に関与したり、アイノ語辞典を始めとした執筆活動等、忘れていけないのは生活習慣改善としての断酒運動への応援。
それらの功績を持って「アイヌの父」と呼ばれたりする様で。
さて、そんな功績がある為に自ら「最高の栄誉」の一つと語った事がある。
昭和11(1936)年に、陸軍特別大演習の統監として来道した「昭和天皇」が、北海道各界の功労者(日本人10名とバチェラー)が夕食の晩餐に招かれ、バチェラーは「アイヌについて」と言う内容の講話をしたそうだ。
その内容が記載されている。
ある意味、これが彼のスタンスなのだろう。
では引用していこう。

「恐れながら陛下に申し上げます。
この年老いた身で、恐れ多くも陛下への謁見を賜りましたことは無上の光栄と感謝申し上げます。また、このような恐れ多い場におきまして、アイヌ民族に関する私の話を申し述べさせていただく機会をお与えくださいましたことに、言葉にならないほどの喜びを感じています。
日本国民のご好意に助けられまして、私はアイヌ民族の研究をしながら北海道で六十年の忙しくも、幸福な歳月を過ごさせていただきました。私はアイヌ民族の日常生活、習慣、宗教、そして彼らの言語を調査研究してまいり、そのすべてに関心を持つようになりました。エゾでの生活を通じて、私は日本人や、アイヌの友人たちから同じように、大きな善意や親切を与えられ、しかもこの島の身分の上下に関係なく、いろいろな人びとから私に対する多くの好意を与えていただきました。私はいつも、それらが私の生活を快適で、しかも有益なものにしてくれていることに、気付いていたのです。ここに私は深く感謝を申し上げたい、と思うのであります。
私が初めて北海道の土を踏んだのは、一八七六年(明治九)五月一日(筆者註:本文註釈で1877.6.19の誤りとある)で、ニ十二歳のときでありました。そのとき、私はこの島の奥地にはアイノと呼ばれる一種族が住んでいることを聞かされました。一方、海岸に住んでいる者もいることも知らされました。しかも、アイノという名前は、アイノコの短い形で、その意味は「血が混じった」ということであること、さらに、アイヌ民族は犬の子孫である、とみなされているとも教えられたことがありました。
しかしながら、長年にわたって彼らと生活をともにしている間に、私は彼らが自分たちのことをアイヌと呼んでおり、その意味するところは、「人」あるいは「人びと」ということであることを発見いたしました。その呼び名は、はるかに良く、しかも当を得た名前であることがわかったのであります。私は北海道庁が今や、アイヌと書き、決してアイノと書かなくなっていることは、喜ばしいことと、思っています。
私の函館の若い日本人の友人たちは、実は彼らは私の日常の協力者たちなのですが、土人はとても毛深く、野蛮で、しかも全く何も知らないのだ、と私に話した事がありました。彼らはまた、私があの人びとを訪ねて条約で定められた区域外に出ることは危険なことであるとも言いました。すなわち、それは函館から約十里の森を越える事を意味しているのです(筆者註:当時、外国人は居住場所からの行動範囲を各国間条約と日本の法で制限されており、逸脱する場合は領事館経由で許可の必要あった。滞在場所や目的、滞在期間がさだめられていた)。
彼らはそのような下等な人間たちに捕らえられでもしたら、大変なことだとも言いました。そこで、私が彼らにそれでもいくと話したとき、彼らはとても心配すると同時に、がっかりしてしまい、私にピストルを携帯するようにと求めました。私はもし必要があれば、日本の警察の保護があるからと言って、そのことは断ったのでした。
そこで、私は一人ぼっちでこの特別な人びとを訪ねる旅に出発しました。私が彼らのところへ着くと、彼らはとても穏やかで、暖かくもてなしてくれました。私も気が付きましたが、彼らは少し毛部下けれども本当の人間でありました。彼らは友人になることのできる民族だったのであります。私は彼らの村に文明の光をもたらすような教育という名の光も、それを実現する手段もないという事実を知りました。
日本人の文明はまだ多くの部分で、彼らに光を与えていなかったのです。すなわち、彼らは依然として暗闇の中におり、多くは貧乏と根深い絶望の状態にあるのです。彼らの数は約ニ万人と知らされております。そうして、その半分は混血であります。彼らは、山中で狩りをし、日本人のために馬の世話をし、あるいは、魚を取って塩づけにし、またはその魚から油を搾り取った後で、魚粕の肥料を作るなどして忙しく働いております。
明治時代が始まり、そして開拓使北海道庁の最初の型)が入ると、日本人の役人は文明という光を彼らに与えることによって、この民族の物質的な状態や、知的な状態を変革する仕事に取りかかったのでした。いろいろな村には学校が建てられ、無料の教育が行われるために教師が派遣される。このようなことは、黒鯛清隆伯爵の初期の時代においてでありました。この事実は時代や社会的環境の要請もあり、北海道庁により実行されており、今もなお、盛んなのであります。
六十年前、アイヌ民族は、他に頼るべきものがないにもかかわらず、その日暮らしをしていたのでした。彼らは日本人の仲間と比較して知能が劣っているのではないか、と思われていました。しかし、北海道庁の教育・社会部の調査により、そのような考え方は間違いであることが十分に明らかにされてきました。アイヌと和人(日本人)の子どもたちが同じ学校に一緒に通っていると、一般試験の結果は、日本人の生徒と同じように、アイヌの生徒も平均的な成績を示すということは、教師たちの明言するところなのです。こうして、知的能力は同等であることが勝目されているのです。アイヌの子どもたちには、日本人と同様の平等の立場と、偏見や、えこひいきなしに、取り扱われることが必要なのです。
アイヌの人びとは、今や読み書きができるようになっており、彼らは毎日のニュースに強い関心を持っているのです。彼らの固有の言語は消滅しつつあり、日本語に取って代わられているのです。若者たちは同様に世界的な出来事に、大いなる関心を持ち、大人たちは帝国陸・海軍に招集されています。彼らは立派な兵士や水兵になるだろう、といわれております。ある者たちは農業に携わり立派にやっています。
彼らは勤勉さと、道庁の役人の適切な援助によって生まれた有能な日本人の指導者たちから提供された知識を活用して仕事を進めているのです。若者たちの多くは、ひじょうに日本人化してきているので、彼らはもはや、アイヌと呼ばれるのを好まないし、土人あるいは、和人と言われるのも嫌がるのです。
アイヌという名前は、アイヌの若者たちによって、非難や劣等意識を示す特別な言葉と、みなされるようになっているのです。そして、彼らは、法律的にも、感情の面でも真の日本人として扱われるのを願っているのです。私のほぼ全生涯を通じて、この民族とのほとんと毎日の交流から、私はこれら帝国民(アイヌ)が誰にも劣らない愛国心と、陛下や皇室に対する忠誠心を持っていることを十分なる確信をもって申し上げる事ができます。
若者や、女性たちもこの点に関しては、全く同じであります。以上のことを申し上げることができまして、大いなる喜びであります。これらの人びとは、自分の生命や、幸福の中心は陛下をお守りすることにあるということ、そして、また御心は彼らとともに、そして彼らのためにということを知っているのであります。私たちがこの民族を全体で考えようが、個々人として考えようが、彼らはみな、自分たちの天皇陛下を一人の父なるお方と拝し、陛下にお尽しする栄誉を心から願っているのであります。
北海道で開拓使制度が始まったころは、アイヌ民族のことは、ヨーロッパやアメリカにおいて、ほとんど知られていなかったのであります。しかしながら今日では、彼らのことは、あらゆるところで、よく知られております。彼らは心を痛めなければならない国民としてではなく、日本の保護を要する国民と考えられているのであります。彼らは長い間かかって日本国において、ますます重要な存在になってきたのです。彼らは歴史の記録するところによると、古代大和民族(日本人)を精神的にも物質的にも援助してきたのです。
彼らの言語は、表現力豊かなものであり、多くの人びとの意見でも、ひじょうに重要な言語なのです。それは興味、楽しみ、自然科学にとって役立つなどから、言語学者たちによって研究されています。民族学的見地からすると、それは本物の宝石のようなものであり、疑いもなく、ひじょうに古い言語なのです。
本州を通って南部の九州、エゾ、樺太、千島、シベリア、そしてカムチャッカの多くの地名は、その起源はアイヌ語であります。言語学での世界でひじょうに興味あることは、アイヌ語がアーリア語族や、印欧語族の言葉に類似性があるという事実であります。

陛下
長年にわたり、この美しい「日出ずる国」の北の都に居住する許可を与えてくださり、陛下のご配慮を私や、私の妻にまでさしのべ、ご丁重なる庇護と、激励を賜ったことに、この栄えある場をかりて、深甚なる感謝を申し述べさせていただきます。」

「ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡−ステップス・バイ・ザ・ウェイ」 仁多見巌/飯田洋右 北海道出版企画センター 1993.10.25 より引用…

これが、昭和天皇へのジョン・バチェラーの講話の挨拶を除く全文。
書き写して…
・彼の気持ちの高揚が何となく感じた事…
大英帝国人だな、と感じる…
・さすが宣教師、上から目線だな…
筆者の個人的感想。

さて…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440
旭川市史にあった教育制度の展開、これとは概ね合致しそうである。
北海道入りした段階で、既に対雁への樺太からの移住者に対する学校設置は合致してはいないが、直ぐに有珠,平取へ展開し、バチェラーもこれに協力している。
上記のように「教育は文明の光」とし、その促進に尽力しているのは功績の一つ。
そして、それらの展開に関して彼は非常に北海道庁の動きを評価している。
その日暮らしになるのは教育が不足しているから、そしてそれが貧困の元…
故に学校の設置らが、そのまま貧困脱出の原動力となった事、進むにつれ成績が追いついた事、全く劣る様な事は無いと証明したと言っている所も合致。


https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/161111
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
敢えてこれを挙げておく。
アイノの人々は奇異な眼に晒されていたのは事実だろう。
それは、バチェラーら西洋人が学術的興味から騒ぎたてたり、マスコミがそう仕向けたのもあるかも知れない。
「(否定された)縄文=アイノ説」らで、大騒ぎしていたのは大凡想像は出来るし、その生活習慣を変な方向に新聞が捻じ曲げた様な節はある。
それは大正〜昭和初期の新聞を探ればハッキリするだろう。
当時最大のマスコミは新聞。
そこが煽るのだから、あちこち騒ぐ。
方や貧困、此方必要ではあるが保護政策下。自ずと変な方向に向かうのは想像に優しい。


帝国国民だと言っている。
あれ?独立民族運動は?
そうなのだ。
アイヌの父」は独立させよ、なんぞ言ってはいない。
若者も女性も、皆、天皇陛下の支える国民であると、陛下自身にハッキリ伝えている。
ちょっと昨今の話とは異なる。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
旭川市史の記載や吉田菊太郎翁の主張と、ほぼ合致する。
元々のアイノ民族問題は、「作られた劣等意識とイメージ」に対し、教育推進で貧困脱出に成功し、もう保護は必要ないと言う自立の萌芽…と言うべきか?。
つまり、吉田菊太郎翁の言うところの「古いアイノはもう居ない」。
ジョン・バチェラーはハッキリ昭和天皇に対しそう講話している。
まぁ最近、ジョン・バチェラーが登場しない訳だ。
彼の功績は否定し得ないだろうが…何故その存在を消す?
不思議でならない。

ぶっちゃけではあるが、史書や文献のニュアンスは、丁度1980年前後から微妙に変わってくる。
並べて読んでみると解るので、一読をお勧めする。
この遺稿は、イギリスで見つかる。
日本国内にあったものではない。
故に、いじりようがなかった。


実際、この遺稿の全体の殆どが、北海道での逸話が占めており、彼の人生においての重要な部分は、北海道での生活だった事を物語る。
これが、ジョン・バチェラーの本音。
これが「アイヌの父」と言われた人の本音。








参考文献:

「ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡−ステップス・バイ・ザ・ウェイ」 仁多見巌/飯田洋右 北海道出版企画センター 1993.10.25