「夷狄商船往還法度」あとがき…北海道中〜近世遺跡再出現や「1550年の時の壁」こそ、「夷狄商船往還法度」の意義では?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/26/205225
さて、これにはあとがきが必要。
これでその内容評価は別として、ある程度独立直前の蠣崎氏の地位が確定された事だけは、概ね異論は無いだろう。
新羅之記録」には、準一門の宗主たる「檜山屋形の安日(安東)朝臣」は記載され、それが勅堪たる安日の末裔のしている。
その代官として確立、東西大酋長とのトロイカ体制…ここまでは、書状らでも立証出来ている。
ここで、筆者が本当に知りたかったのはトロイカ体制の容認。
これは同時に、東西大酋長の統治と地位が認められ、西は上ノ国、東は知内までは入り込む事が可能となる事を意味する。
それ以前の安東愛季もだが、奥州仕置に置いて蠣崎慶広は松前守護職として蝦夷衆を従えて従軍する。
これは、それぞれ大酋長にそれらを纏める力がないと成立しない。

さて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
そして、地質学らからの視点…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
勝山館等道南、余市を除くと、現状まで北海道で明確に中世を示す遺跡はなく、ほぼKo-d ,Us-b,Ta-bら江戸初期の駒ケ岳,有珠山,樽前山の降灰直前から出現する。
火山灰直下から検出されるので、そんなに時代を遡る事は不能

つまり「埴原モデル」で、蝦夷(エミシ)末裔を謳ってしまえば、中世遺跡が無い矛盾は生じる。
だが、この「夷狄商船往還法度」により、千島や樺太へ東進,北上した人々が再度西進,南下したら?
遺跡が再出現する事と矛盾はない。
何せ千島の人々の断片がこれなので…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
これはバテレン達の報告ともある程度合致する。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/30/195833
何せ「定住無し」「数十日かけ往来する」と述べる。
アイノとしてのアイデンティティ形成は17世紀と言う。これも、16世紀半ばから居住開始し、部族同士の抗争や協力で培った…で説明可能。
そして中には…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/21/194111
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/29/121957
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/17/201313
1550年頃を最初として、歴史に登場する人々…この辺も時期的に合致。
勿論、長クラス且つ和名を持つ人々。

これら、「蝦夷(エミシ)の帰還と再出現」が、「夷狄商船往還法度」の本当の意義なのでは?

だが…
この人々が、全て蝦夷(エミシ)末裔かと言われれば、ちょっと待った。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
これが解らない。
と、言うか、どの程度千島や東側の人々と、一部本州の人々と繋がりがあったのか?それが誰なのか?解らない。
仮に、これらと連動する武将も特定出来ていない。
南部?大崎?やはり…伊達?


まぁジワジワ学んでいこうではないか。
我々は、活動家や一部の学者の様に「決まったストーリーに合わせる必要」がない。
自由な発想は可能。
こんな事が仮説出来てくれば、面白いと思わないか?
以前も書いているが…
幻の「奥州藤原水軍」そして「安東水軍」が、こんな奥蝦夷地へ伏せてあった…とすれば、壮大だと思うが。
可能性は…無くはない。