これが「余市の石垣」…現存している石垣を確認

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447

これが前項。

余市は茂入山の石垣、この話をしてから約3年になる。

何度か相互フォロワーさん達がアタックして、筆者もこの通り。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/203950

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/16/191112

が、あまりの藪に確認をするには至らなかった。

ここで何時もお世話になっている

@F34fC9F4NEMW5e2ファン・ガンマ様が藪が枯れる時期を狙い再アタックを敢行し、現在の姿を確認戴けたとの事。

では、@F34fC9F4NEMW5e2ファン・ガンマ様のお写真をお借りして、見てみよう。

@F34fC9F4NEMW5e2ファン・ガンマ様、ありがとうございます。

 

①茂入山城址

これが、余市町茂入山の石垣。

そして、案内板があったとの事。

「この茂入山は往時ぺセンカと呼ばれ、西方に見える丘陵に一○アイヌ部○がしめてチャシを築きその奥にに堅○の○○を作って集○○○ありました。
この山の石垣の石塁、往時は土塁とあわせて○○も反ぶものでしたが、現在は石塁を○○〜」

錆びており、さすがにここまでしか筆者は読めない。
後の方にシャクシャインとある様だ。

ペセンカとは?

「昔、余市川右岸の河口にはアイヌの人々の村があり、対岸にチャシを築いていた。ある時、日高沙流地方のアイヌの人々が突然、赤井川を通って余市に攻め込んできた。不意のことから村やチャシが襲撃されて、もう後がないと思われたとき、ペセンカ(モイレ山)からチカップのコタンカムイ(鳥の神)が現れ、敵を蹴散らして勝利をすることができた。この戦いに敗れたユウベトと呼ぶ祖先を崇拝したといわれている。」

 

余市町アイヌ文化拠点施設検討事業業務報告書」 より引用…

 

が、当然ながら、茂入山城址への言及はない。

この伝承と石垣は合致するのか?

当然、石組みされた野面積みの石垣構築技術はないので、地の人々が構築したとは考え難いので、これは合致しない。

また、古城ありと記された天内山チャシとの関係は?

寛文九年蝦夷乱の時に、天内山チャシと松前藩が対峙した…らの話は記事されている。

が、石垣の位置からは余市川が見え、川側へ構築されている。

ならば、天内山チャシとは方向が逆になり、そちらへの防御にはならない。

あくまで海や川への防衛とも考えられる。

叉、伝承にある土塁は石垣より上との事。

岩盤の山なので、土塁上に柵列を作るなら意味はあるだろう。

まぁ発掘していないので、想像の範疇からは抜け出せない。

まずはここまで。

昭和30年代に新聞に載った茂入山の石垣は、何とか確認出来た。

 

②大崎山遺跡

これが現在の大崎山遺跡の石垣や石積みである。

@F34fC9F4NEMW5e2ファン・ガンマ様とは果樹園用の鹿よけやシシ垣も考えにあったのだが、シシ垣にしては高さが低すぎる…これが印象との事。

 

さて、両方共に現存する事は確認出来た訳だ。

さてでは…

・これは何の為に作られたのか?

・何時、誰が作ったのか?

そう。

やっと入口に辿り着けたのだろう。

でも、大きな一歩。

茂入山の石垣も、大崎山遺跡の石垣,石積みも、現存する事を確認出来たのだから。

 

追記…

茂入山の石垣が仮に「天然の石の配列」だったら?

勿論、考えるべき事だろう。

しかし、石垣は複数ヶ所で検出された。

大崎山遺跡の石垣,石積みはどうなのか?も考えなければ行けない。

どちらが先に 構築されていても、何らかの理由で伝わった技術が再度使われたで説明出来てくる。

現存が確認出来た以上、ゆっくり確認いけば良いのだと思う。

 

 

 

 

参考文献:

 

余市町アイヌ文化拠点施設検討事業業務報告書」