https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/21/210704
さて、これをベースに…
一度、データを纏めて北東北全体での傾向を見てみよう。
ではまず、目的…
・北東北の石工の活動把握
これを忘れてはいけない。
筆者のミッションの一つ「中世に竈はあるか?」の「秋田の石の竈「ヘッツイ」が何処まで遡れるのか?」…これが目的の一つ。
よって、明らかに中央政権が政略的に持ち込んだ技術はデータに入れなくても良いだろう。
・余市の石積みの源流候補抽出…
同様に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151
松前氏居城「福山城」の石垣は千軒岳の金堀衆が組んだとされる。
この前後なら特段問題なく彼らが組めるので、構築がそこだと断定可能ならそれはそれで問題ない。
むしろその前がどうなのか?が問題。
上限を払田柵とし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045
それ以降〜戦国期の間で構築が可能だったかの検討なのだから、戦国期後の石垣変革期以降はデータから削除で良いだろう。
以上から、抽出途中で考えた「九戸城」「盛岡城」「山形城」ら、織豊〜江戸期に築かれたものと、伝承のみならず戦国期から多用されたと言う「畝状竪堀群」が明確なものはデータから除外する。
むしろその方が、地の石工の活動を見る事が出来ると考える。
また、石塚はそのままとする。
前項にあるように「石垣が軍事転用」される前の傾向を見てみよう。
青森県…
ベースはこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/13/062230
上記の通り「三戸城」は除外。
よって結果としては、
0/389…
となる。
発掘らで新発見が無い限り変わらず。
秋田県…
ベースはこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/04/200752
漏れのあった「上野館」追加、畝状竪堀群を持つ「男鹿崎館」は除外した。
結果としては、
・西の館…由利本荘市前郷…巨石の散乱(現状、石垣は認められず)
・根城館…由利本荘市矢島町…石垣
・新荘館…由利本荘市矢島町…石垣
・上野館…由利本荘市矢島町…石積み
・黒川館…にかほ市金浦…石積み
・美濃輪館(芹田館)…にかほ市三森…石垣
・栗山館…にかほ市伊勢居地…石積み
・館ノ沢城…秋田市協和上淀川…石積み
・岩井堂館…大仙市土川…石積み
・館城…大仙市土川…石積み
・孔雀城…大仙市大曲……石垣
そして、
・払田柵…美郷町…石塁
由利本荘市×5
にかほ市×3
大仙市×3
美郷町×1
秋田市×1
八峰町×1
14/908(1.5%)
岩手県…
ベースはこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/03/202211
盛岡城,九戸城と畝状竪堀群を持つ「猪川城」は除外。
・柳田館…紫波町…石積み
・岩清水館…矢巾町…石積み?
・煙山館…矢巾町…石積み
・浮牛城…北上市…石積み
・白鳥館…前沢町…石積み半地下倉庫…
・松館…大船渡市…石積み
紫波町×1
矢巾町×2
北上市×1
前沢町×1
大船渡市×1
6/1369(0.4%)
山形県…
ベースはこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/22/151738
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/20/193724
山形城,米沢城、畝状竪堀群がある「藤沢館」「白山森館」、後世改変が成されたとはっきり解る「矢子山城」「延沢城」は除外。
・館岩…飛島…石塁
・箕輪館…遊佐町…石積み
・本宮館(石鉢山)…酒田市…石垣
・尾浦城…鶴岡市…石塁塚
・今泉館…鶴岡市…石積み
・黒森館…鶴岡市…石積み
・館野…鶴岡市…石塁塚
・七五三掛館…鶴岡市…石垣
・中山城…上山市…石塁
・睦合楯(要害)…西川町…石積み
・鍋倉楯…西川町…石積み
・本道寺館…西川町…石塁
・中上楯…西川町…石塁
・吉川館…西川町…石塁
・顔好城(小沢城)…大江町…石塁
・東根城…東根市…石垣
・羽山館…米沢市…石垣
・別所館…南陽市…石垣
・地蔵岩物見…南陽市…石積み
・虚空蔵山館…南陽市…石塁
・大洞山館…南陽市…石塁
・大窪砦…小国町…石垣
飛島×1
遊佐町×1
酒田市×1
鶴岡市×6
上山市×1
西川町×5
大江町×1
東根市×1
米沢市×1
南陽市×4
小国町×1
23/1142(2.0%)
以上となる。
では、分布を見てみよう。
ここでは北東北全体となるので、
市町村別に…
1箇所…赤丸
3箇所未満…紫丸
5箇所未満…青丸
6箇所以上…黄丸
としてプロットしてみる。
蛍光緑が、北から鳥海山,羽黒山,月山,湯殿山と、出羽一ノ宮大物忌神社&出羽三山神社の領域。
数的に、南陽市を除き複数箇所が集中してるのは概ね解るだろう。
由利本荘市とは言え、その殆どは鳥海修験の秋田側入口の矢島に集中している。
で、興味深いのは、各編で書いた様に出羽三山と鳥海山から離れれば離れる程に石積みが薄くなっていく事。
上記フィルターのせいで更に飛び地的な箇所が減って、秋田編で述べた様な「古代ルート」に近くなる事。
津軽や糠部,下北、秋田北部、岩手海沿い、最上,村山らはまるっと空白が出来ている。
なら、それば何故か?
その信仰と何か関係ありはしないか?となる。
では…
出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山 総合学術調査報告 山形県総合学術調査会 昭和50.10.25より…
「出羽三山」 稲田美織 出羽三山神社 2019.7.1より…
これが月山頂上の「月山神社本宮」。
出羽三山神社HP。
http://www.dewasanzan.jp/smarts/index/27/
何時の時代からこの形なのは?現状把握していないが、山小屋と同時に本宮そのものも石塁で囲まれた郭の中に収まる。
何故か?
いでは文化記念館展示パネルより…
「月山神社の石垣を修理しているのは石垣職人である斎藤藤吉さん(羽黒町市 野山) と子息の武雄さんである。昭和30年ごろの写真と思われる。月山神社は錐丘状の月山頂上にあり、石垣に囲まれている。 石垣がなければ山頂を襲う強風で小屋は跡形もない。戦前からこの石垣を守ってきたのが斎藤藤吉さん親子である。
神社の石垣は自然石を使い、機会で削ることはほとんどないという。 石の積み方は「矢の葉積み」と呼ばれる。石を斜めに積んでいくので崩れにくいという。ただ、 雪解けの季節になると、解ける雪とともに石垣が少しずつ崩れていくので毎年修理しなければならない。 平成15年5月まで二代目の武雄さんは毎年夏になると月山 頂上に登っていた。」
遮る物がほぼ無い月山山頂。
強風や雪が常に襲う為に、信仰以前に石塁で防がねば保つ訳も無し。
そこで、夏季の開山に合わせ、毎年石工が補修を続けて来た様だ。「新抄格勅符抄」な宝亀四年(773)の条に、出羽国「月山神」に神封二戸を寄せられたとあるそうなので、その頃には既に朝廷の祭祀としての費用が捻出されていた事になる。
丁度、秋田城が北進し、雄勝城も築城された頃。
更に日本三代実録」の貞観十三年(871)には既に鳥海山と月山を合祀した大物忌神社が登場し、既に出羽国の神の山として認識されていた事になる。
そんな時期には「奥宮」として、何らかがあってもおかしくはないだろう。
羽黒山の鏡ヶ池の和鏡は平安末期には遡る。
時代を下ってもそこで羽黒修験が闊歩した物証にはなるだろう。
本宮を守る為、地の石工がそれを維持してきたのだろう。
月山本宮or払田柵のどちらにしても、朝廷派遣又は地の石工によりその石塁は構築可能になる。
となると、これら石塁を施した理由は前項の通り、防塁と言うよりは設置条件により必要に駆られるか宗教的な意味合いが強いのではないかと考える。
先述通り、北東北の中世城館は、鳥海柵や大鳥井山柵からの流れで、施政者層の館と宗教権威を兼ねる物ではないかと考える。
とすれば、飛島の館岩や余市の茂入山も同様なのではないだろうか?
ここで…
特に、余市では「和鏡」が出土している。
当時の概念そのままなら、和鏡は神社の御神体や仏具であろう。
誰でも身に付けられる様になるのは後代、高価で一部の人々しか持つ事は叶わないであろう。
それがその概念を知らずに、わざわざ入手するであろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134
『否』。
当時の概念なら、純然と御神体又は仏具として持ち込まれ、あってもそれまでの宗教観と習合させたと考えるのが妥当だろう。
つまり、館岩も茂入山も「寺社」としての機能を付加した施設と考えるべきだろう。
現状、その後の時代にこれだけ明瞭な傾向を示すとなれば、月山を中心とした「出羽三山信仰」を元にした羽黒修験の痕跡と見るべきと考える。
少なくとも平安以降の北東北に於いて、確実にそれを可能とする石工技術を持ち得るのは彼らである。そして、そこから離れると石塁を施すと言った発想すら無くなり、石塁は構築されず土塁,空堀を防塁又は結界として利用しているのだから。
戦前まで月山本宮は東北唯一の官幣大社で、宮内庁から「勅使」が来ていたそうだ。
勅使館→「チャシ」…
と言うのは如何だろうか?
勅使館やチャクシ館と呼ばれる北東北の中世城館は存在する。
一応、現状迄追い掛けてみて…
茂入山の石塁が古代〜中世に構築されたものだとすれば「こんな可能性もあるだろう」という程度ではある。
これが近世なら何の事はなく、金堀衆&キリシタンで全く説明可能だし、それより後なら場所請負人が連れて来た石工の仕業でOKだ。
構築技術の背景はそこまで辿る事は出来る。
わざわざ大陸からの侵略者やら漂流者なんぞと考える必要なぞ無い。
謎は放置するから謎のまま。
謎を解く意志あらばいずれは解ける。
それに石工技術の根底には、渡来系氏族の存在は必ずある。
大陸からの影響が皆無なぞ有り得ない。
むしろ、我々日本人の真価は違う所にあるのではないのか?
海外技術を学び…
使い熟し…
元々持っている地場技術を融合させ…
自分達に合う、他者でも使い易い独自機能を付加していく…
「魔改造」。
教えられた技術だからと言って何なのだ?
渡来系からの技術を過小評価するのは愚かな事、だが過大評価する必要も全く無い。
師匠を超える努力と工夫をするのが我々日本人。
それは、今も昔も変わらないのではないか?
参考文献:
出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山 総合学術調査報告 山形県総合学術調査会 昭和50.10.25