https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/05/204149
前項はこちら。
関連項は下記の通り、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/09/211342
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/11/210211
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/03/092411
本州アイノ。
さて、今回は、本州アイノでも挙げられた東通村「浜尻屋貝塚」の遺物を確認する事と、同時に中世城館に石積み,石塁,石垣が無いか?を確認する事、2点を目的に下北半島を回る事。
では、早速報告する。
①「浜尻屋貝塚」の遺物…
「東通村歴史民俗資料館」へ。
前回訪問では臨時閉館中だったが、ご担当が複数業務をご担当され、庁舎と資料館を行き来しているとの事だったので、事前電話したところ快く開館戴けるとの事で訪問となった。
こちらは縄文,弥生,古代,中世,近世以降の考古,民俗資料らの総合資料館だが、敢えて目的の点に特化する。
何とか確認したいと思っていた物はこれである。
鉄片を仕込んだ「離頭式銛頭」。
ある意味、たったこれだけを見る為に、片道5時間車を飛ばして行ったと言っても良い。
確かに、余市町「大川遺跡」や奥尻島「青苗遺跡」のものとよく似ている。
大型のものは、
白老の「ウポポイ」に貸出中。
どんな表示がされているものか?
まぁこの辺が、本州アイノでは?と言われる所以であろう…
いや、だが待って欲しい。
発掘調査報告書にもあり、勿論展示もされているこれらを見て戴きたい。
ここ「浜尻屋貝塚」の住人は、赤丸の通り硯を使う、つまり文字を駆使する。
又、茶臼…つまりお茶を嗜む。
この辺が遺構内から見つかり、近辺の板碑より、安東氏に纏わり、且つそれなりの身分を持つ武将が居たのではないかと推定されている。
近世アイノ文化の姿と重なるのか?…否。
文字を持ち、茶を嗜むのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
この辺が、文化を象徴する文物が研究者によってバラバラで定まっていないと言われる所以だろう。
ウポポイではどんな風に展示されているものか?
まぁ文字を駆使し、茶を嗜むとは表示されてない方に筆者は掛けるが。
もしそうなら、研究結果を都合良く切り貼りしている事になるのだが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631
定義そのものが定まっていないから、こうなる。
この「浜尻屋貝塚」は陶磁器の編年指標から運用期間が14~15世紀とほぼ限定される。ある意味突然出現し突然廃絶されている。
この際と思い、北海道では中世遺跡が殆ど空白である事、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
厚岸らの状況、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
これを話して「一般論的感想」を伺ってみた、「北海道から下北半島へ移動したのではないか?」と。
あくまでもその場の私見では、あり得るかも知れないと。
というか、あまりそんな視点では見られてはいない様で、発想的に穴になっている様だ。
ここ、下北半島には安東氏が拠点としたとされる「田名部」があり、隣のむつ市には「蠣崎城」がある。
北海道史と下北半島史の解明には、文献史学的に微妙な「蠣崎蔵人の乱」の解釈をどう捉えるか?がある。
北海道へ渡ったとされる「蠣崎氏」とは何者なのか?、ここの解明が進んでくればその辺の位置づけが変わってくる訳だ。
勿論、これらは雑談レベルで、公式見解でもないし、現状学術として意味をなさない。
が、学術レベルで蠣崎氏の解明が進み、我々なりが移動痕跡として物証を積み重ねられれば?…そんな視点が全くないのだから意味を持ちうるかも知れない、何故なら北海道の中世は殆ど空白なのは事実なのだから。
こんな雑談を楽しくさせて戴いた。
他にも興味深い展示を見せて戴いた。
②下北半島の中世城館に石積みはあるか?
「東通村歴史民俗資料館」の後に、「六ケ所村立郷土館」を訪問した。
六ケ所村では以前の訪問時に「出羽三山の霞(宗教的勢力圏)があった」事は伺っている。
東通村でも、
修験道の影響は色濃い様で、能舞らが伝承される。
それぞれ六ヶ所程度中世城館の登録がされており、ズバリ石積み,石塁,石垣らの検出はあるか?を質問した。
それぞれ確認して歩いた方々。
答えはそれぞれ即答、周辺地区の知りうる状況も含め、
「見た事も聞いた事もない」だった。
前項にある秋田の事例を説明すると興味深いと。
ここまでくれば、秋田の事例がイレギュラーで、単に中世城館、単に修験の影響…だけではなく、何らかの条件が揃わねば石積みの構築には至らないと言う事になってくる。
この辺を探る必要がある事は解った。
では番外編…
③大間崎から函館には渡れない…
六ケ所村で伺った。
縄文のアオトラ石の分布より、東通村〜むつ市の境目周辺でアオトラ石の加工痕がある事例があるとの事。
秋田でも能代にある。
ここから古代ルートの話に膨らんだのだが、大間崎からカヌーらで北海道へ向かっても東へ流されてしまい、函館方面へは辿り着けず、少し南の佐井からになるそうだ。
筆者から、陸奥湾の8の字海流の話をすると、野辺地や田名部に拠点が置かれた理由はそれかと…
館長さんの話では、日本海の対馬海流の七割位は津軽海峡へ、同時に太平洋の干満差は4m…
縄文のご先祖が、東から西へ向かうのは、満月の満潮の津軽海峡の潮止まり、ピンポイントを狙う…顔を見合わせ笑う…こんな話に。
歴史理解はScience。
④東通村にも…
ここにも切支丹伝承はある様で、マリア観音と伝承されるものはあるとか。
日本中津々浦々まで拡散した事になる。
⑤「竈」はあるか?
何時もの質問である。
東通村、六ケ所村それぞれで聞いてみた。
特に石の竈は聞いた事がないとの事。
六ケ所村では民俗資料収集で回った事があるそうで、土間が狭い為に土の竈の存在も確認した事があるそうだ。
名主の様な場合はあった様だが、一般家庭にはストーブの様な火器はあったが、土間に構築する様なものは無いと断言されたとの事。
カルチャーショック…
だが、ちょっと考えればそうなのかも知れない。
竈が炊飯と密着したものであれば、米が貨幣であった時代からの流れで竈構築はしなかったかも知れない。
米は生業のもの、食べるのは米以外の五穀とすれば、そんな事は考えられる。
食文化に密着した事であらば…
方や、江戸期には飢饉と戦いながら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/20/054441
租税し続け、北海道へ供給していた南部藩側の人々…
此方、撫育と称して、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
労働対価としてその米を消費していた人々…
どちらが恵まれていたのだろう?
東北の実態を少し知るが故の疑問である。
如何であろうか?
お手を煩わせ、両資料館には感謝しかない。
ありがとうございました。
良い学びになりました。
参考文献:
「東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1