https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/22/210608
さて、佐渡の鉱山史からいきなり北海道へ話を飛ばす。
SNSで、円筒式土器の出土は海上でもっと南に下がる様な話を目にしたからだ。
早速メンバーに伝えると興味津々となったので、じゃ手持ちの史書で確認してみる事に。
「金井町史」より「堂の貝塚」の出土土器。
確かに尖頭型ではなく円筒型。
ここでふと思い出す。
佐渡と言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
先に紹介していた「管玉」。
「前略〜色は濃緑色をしています。玉の作りは精巧で、水準の高い制作技術をもった人々によって作られたことがうかがえます。これら管玉に使われた碧玉は、佐渡猿八産といわれており、本州からもたらされたことを示す出土品のひとつです。」
「恵山文化の道具 −重要文化財北海道元江別1遺跡土壙墓出土品−」 江別市教育委員会 平成12.3.1 より引用…
「結論
今回分析を行った入船遺跡の遺構外出土の管玉1個の蛍光X線・ESRの両分析による総合判定では佐渡猿八三碧玉と同定され、余市町では佐渡産碧玉は、大川遺跡の管玉10・17・18・20・21に使用されていることは明らかになっていて、これで余市町では佐渡猿八産原石を使用した管玉は合計6個発見されたことになる。したがって、佐渡との交流がより確かであったと推定しても産地分析の結果と矛盾しない。」
「1995年度余市入船遺跡発掘調査概報 −余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅶ−」 余市町教育委員会 1996.3 より引用…
こんな感じ。
余市町大川遺跡,入船遺跡、江別市元江別1遺跡らで出土した管玉の原石が佐渡猿八産と特定されていた。
なら、この際なので、ちょっとそれを報告してみよう。
手持ちの金井町史…金井町は現在佐渡市に含まれる。
「弥生時代中期の頃には、古国仲湖の約半分が陸地と湿地に変わり、中期の終り頃から後期の初めにかけて湿地のところどころに微高地があらわれたものと推定される。この頃弥生時代の文化が佐渡に渡ってきた。一つの流れは二見半島部の海岸にある浜端洞窟遺跡や二見上立野遺跡で、東北や越後系の文化であった。もう一つの流れが国仲平野へ進出してきた。畿内の特徴を引き北陸経由の櫛目文の文化をもつ玉作りの文化であった。」
金井町史」 金井町史編纂委員会 昭和54.1.30 より引用…
その内の片方が「玉作り文化」を持っており、それは「畿内→北陸→佐渡」とその櫛目文式土器の傾向からほぼ判明している模様。
佐渡での時期は弥生後期前半の3世紀前半が最盛期。
稲作を営みながら、同時に玉作りに励んだものと推定されている。
では「玉」とは?
勿論、縄文の頃から装飾品を身に着ける事はされていた。
歯や骨,貝殻の首輪や腕輪から始まり、次第に石に変わり、金属へと変化していく。
そんな中で「玉」は石を素材にして孔をあけ紐を通し首飾りや耳飾りとしたもの。
玉にはその形状から、丸玉、小玉、平玉、なつめ玉、くちなし玉、臼玉、切子玉、みかん玉等があり、佐渡特有なのは角玉だそうで、形態から管玉や勾玉らと名付けられたとある。
佐渡で使われた材質は、翡翠、鉄石英(赤石)、碧玉(青石)、瑪瑙、蝋石ら。
主には、碧玉と鉄石英を使った細型管玉で、稀に特有の角玉や翡翠の勾玉を作った様だ。
材質産地は、かつて古国仲湖の汀や旧河川河口で拾われたものだが、瑪瑙はご存知の通り対岸の糸魚川に限定され、蝋石も佐渡には無いそうだ。
つまり、瑪瑙や蝋石は、他所から原石を佐渡へ持ち込み、それを加工した事になる。
佐渡での玉作りの遺跡は14箇所。その中で金井町には6箇所あるそうだ。
何故、玉作りが行われていたと特定出来たのか?
工房跡と思われる住居や加工途中のもの、墓の副葬で工具の石が発掘で見つかっているからだ。
また、その加工途中のものから推定される管玉の製作工程はこちら。
孔を貫通させるのは、最後の工程の様だ。
さて、上記の通り、材質と形状らから余市と江別で検出された管玉は佐渡の物と特定されている。
こんな背景の工房で作られた管玉が、北海道へ渡った事になる。
恵山式土器は、弥生土器の影響を強く受け薄手土器化したと考えられている。
これも、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/02/163712
特に驚く話ではないし、副葬されていると言う事は、多少なりとも婚姻らで移住した者も居たかも知れない…そんな関係にあったとも言えるのではないだろうか?
それでなくとも、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/25/175639
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/24/172128
北東北とはこんな関係。
文化グラデーションはちゃんとついている。
縄文系がより強く残るか?
弥生,土師器集団系が強く残るか?
だけの話。
これは我々が言ってるだけではなく、古代史研究の結果で出ている話。
東北だけではない。
特にこの玉作り文化集団は、文化的に畿内との繋がりを持つ。
ある意味、東北より弥生文化色の強い文化集団と接触を持っていた可能性まである。
お題では「以外な」とは書いたが…
まぁ、そんなもんだろう、普通に。
それは遺跡の遺物が語っている事だ。
参考文献:
「金井町史」 金井町史編纂委員会 昭和54.1.30
「江別ガイドブックシリーズⅴ 江別の遺跡をめぐる」 江別市教育委員会 2010.3
「恵山文化の道具 −重要文化財北海道元江別1遺跡土壙墓出土品−」 江別市教育委員会 平成12.3.1
「1995年度余市入船遺跡発掘調査概報 −余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅶ−」 余市町教育委員会 1996.3