なら、佐渡の製鉄炉はどうか?…「鍛冶が沢穴釜、安養寺穴釜」とはどんなものか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/23/224613

新潟〜北陸の製鉄炉のトレンドは前項へ。

これは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/07/202638

あまり東北のトレンドと大きな差は見えて来ない。

ここで…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/07/223841

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/22/210608

佐渡について学んだが、どうも新潟より能登半島との結び付きが近い様な…

なら、佐渡の古代製鉄炉はどんな物なのか?

先の「金井町史」に記事があるので学んでみよう。

 

まずは前提…

近辺には安養寺古墳がある。

盗掘されてしまっている様だが、石組みを持つ玄室の一部と刀子,鉄鏃,金環,土師器高坏、土師器マリ(碗の事)が副葬として出土している。

土師器の編年指標から、佐渡各地の古墳出土品同様に7世紀のものと考えられている。

古墳は径が13~14m、現状高さ2.5mだが、一部を道路で破壊され玄室から覆土上部まで50cmしかなく、完成時は更に高く迄盛土(5m位?)されていたと考えられ、覆土中からも須恵器片や土師器片が検出、この内マリ(碗)は2つ分は確認出来ているが、一つは内黒土器となっている。

 

では穴釜…

「鍛冶が沢穴釜」と「安養寺穴釜」である。

まずは鍛冶が沢穴釜。

発掘は昭和38年、幾つかある製鉄炉跡の先陣をきって発見されており、鍛冶が沢周辺では沢一面に鉄滓や木炭が分布し、横穴が空いてる事が以前から知られていた様だ。

穴は2箇所。

現存奥分巾が1.5m、奥行き1.6m、奥の高さが2m程度で、当然破壊、壁面も剥落されていた。

が、一つ問題が…

その構造である。

奥の壁に一本の煙突と見られる孔(煤有り)が傾斜する山の上に抜けていて、天井部分と左右側面壁にも孔(煤無し)が。

こんな煙突だらけの製鉄炉は、その当時認識されておらず、製鉄炉なのか?鍛冶炉なのか?判断が出来なかったそうだ。

 

ここで翌年、古墳のある安養寺地区に鍛冶が沢穴釜同様の2箇所の穴が見つかる。

なら、この穴釜とは何なのか?決着を付けるべく発掘を行ったそうだ。

構造は、鍛冶が沢穴釜同様に複数の煙突を持つ形状でサイズもほぼ同じだが、残存する床面には溝が張り巡らしてあったそうだ。

更に…

ここにはフイゴが無く、全体的に横穴状の構造を持っていた模様。

鉄滓にはTi(チタン)が含まれ、更にFeO(酸化鉄)が36%以上含まれ、あまり精度良く製鉄が出来た様な感じでは無い様だ。

が、ハッキリした場の特定は出来てはいないが、ほぼ周辺河川の地の砂鉄を使ったと考えられる。

問題はむしろ、ここ佐渡でのこの時代は、フイゴではなく燃焼による自然吸気で空気を吸い込ませる形式をとった様だ。

筆者が思い出したのは、風炉

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/30/205122

こんな原理か?

炉の奥が竪型炉構造となり、焚口から吸気し、背後の主煙突から主に排気、横穴構造が吸気口になる。

これは、須恵器窯に近い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/30/201841

南相馬でもフイゴの出現は8世紀半ば。

それより前の形態になるが、複数煙突を持つ特異性を持つ。

勿論、底面の溝は鉄滓(ノロ)を排出させる為。

 

さてでは、その運用時期は?

これはC14炭素年代で7〜8世紀(600~700年代)前後とされる。

そう、安養寺古墳と近い年代。

後に大佐渡山地でも同様な穴釜や古墳の発見に至り、製鉄工人衆が砂鉄と木炭の為の材木を求め移動したのではないかと推定している様だ。

そして、同じ頃、製塩や須恵器窯跡らも佐渡内に出現している様で、古墳を作る大和系の人々が能登経由で入り、その中に製鉄工人衆も含まれたのではないかと考えられる模様。

 

さて、この穴釜で製鉄をした工人衆はどうなったか?

実はこの後、製鉄炉跡は途切れ、継続し行われた形跡はなく、謎に包まれる。

ただ、時代背景的にはこの後に律令制強化され、国衙が置かれるので鉄器入手は比較的容易になるのかも。

後の鍛冶集団の祖先となった可能性もなくはない。

 

如何だろうか?

白河で教示を受けた様に、製鉄はその場の状況に応じ、地方色を出す。

ここでは、内部の風の通りを考慮し、横穴と煙突状の孔を増やす様に変化していた模様。

そして、効率や素材を求め移動、より質の良いものが入手出来るなら止める様な選択をしている様だ。

これらの変遷は単独に進んだ訳ではなく、人々の移動や他の産業,社会背景と複雑に結び付き進んだ事を物語るのではないだろうか?

勿論、製鉄を止めたとしても、鍛冶や非鉄金属の扱いらでその痕跡を想定する事は可能。

技術伝搬は嘘はつかない。

全て簡単にロストテクノロジーとなる事もないのだろう。

そして、人々の移動が伴う限り、離島とは言え、歴史が単独で紡がれる訳もない。

必ず周辺と影響を持つと佐渡が教えてくれた様な気はする。

佐渡については、また別に取り上げたいと思う。

 

 

 

参考文献:

 

「金井町史」 金井町史編纂委員会  昭和54.1.30