そもそも「石垣」とは?…改めて「石積み構造物」を学んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/17/190904

これを前項として…

今迄も迷える場合はそもそも論迄後戻り。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/13/062230

そもそも、石積み,石塁,石垣とはどんなものなのだろうか?…段々と解らなくなってくる。

皆さんは「石垣」と言えば何をイメージするだろうか?

先日回った山形城の石垣。

やはり城郭の防塁としての石垣をイメージする事が多いと思うし、筆者もそうだった。

なので石を積んだ壁を見るとどうしても防塁をイメージしてしまう。

だが

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/20/193724

こんなふうな…

特に中世城館では、少々疑問になってくる。

なら、この際遡ってみようではないか。

概念的な話ならここで「ものと人間の文化史」の登場である。

 

「少数の石の利用を説く人たちは、人類は石無くしては今日の文明を築き得なかったことを強調している。いかにも人類と石との関係はきわめて古く、そして深い。石で器物を作る技術は、すでに旧石器時代からすぐれた域に達しており、築石技術も早くから発展していたことは、多くの遺構や出土品が生きた証拠を示している。~中略〜古代オリエントはエジプトからアッシリアカルデアにわたる石像建築や東西巨石文化の分布、等々、世界築石文化の歴史もさることながら、たとえ狭小な国土とはいえ、都市にせよ近郊村落にせよ、住民の生活帯をこれほど丹念に石で鎧い、石で縁どってきた国は世界に類がない。都市にせよ近郊村落にせよ、目通り一〇〇メートルの間に石垣ののぞいていない地域というのはまれである。」

 

ものと人間の文化史  石垣」 田淵実夫 法政大学出版 1975.4.1  より引用…

 

へ?

世界屈指の石垣だらけの国?

著者の田淵実夫氏によれば、砂であれ、砂利であれ、元々は石。

コンクリートもブロックもそれが無ければ成立しないし、基礎を石で覆う等を往古からやってきた土木技術ら、民族共通の地盤がなければ築かれなかったと言う。

確かに我が国の建築物は基本が木造。それは気候のせいで樹木に恵まれていたせいではあり、その為石材の使用分野が狭まったのは確か。

だが、著者は語る。

記録上、石を使い石作部が行った大規模治水工事は「仁徳天皇」が行ったところから始まると。

国交省HPより。

https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0616_yodogawa/0616_yodogawa_01.html

「時は4世紀、淀川と古川の間の小高くなった土地(旧茨田郡)を度重なる水害から守るため、仁徳天皇によって淀川左岸に築造された堤防が「茨田堤(まんだのつつみ)」です。茨田堤は古事記や日本書記にも記されています。 淀川の治水の歴史は、およそ1600年前につくられたこの茨田堤にはじまり、これは日本で最初に行われた大規模な治水工事とされています。」…確かに…。

治水利水の場合、土で覆っても直ぐえぐられる。

単純に水を石で受けても、今度は石が流される。

ここで、土と石を併用し石が流されぬ様に…ここまで来て土木技術となる。

高知県宿毛の石垣の村…

島根県八川村のオトシ田や段々畑…

広島県松永市の塩田堤防…

滋賀県脇ヶ畑村の石垣壁の家…

石川県舳倉島の石囲の観音堂

そして、護岸壁に突堤、石垣壁、石橋etc…

積んだ土盛りを流水から守り、傾斜を平滑した部分からの土の流出を防ぎ、外部と内部との境界を作る…

山林が多く平地が少なく、且つ、地震大国の我が国に於いては石積みの建物は馴染まなかった。

確かに縄文の古から此の方、建物は木造。

豊富な木材で建築技術に磨きをかけ、それを守る為の土木技術として石材を使ってきた様だ。

城の防塁としての軍事利用はその一つに過ぎず、技術レベルはさておきその多くはむしろ土木技術として民生利用されてきた…と。

まぁ現代でも、屋敷の境界にブロック塀を建てたりするが、これも石垣と著者は指摘する。

確かに境界としての「垣」と捉えれば、木だろうが土だろうが変わりはしない。

石積みすれば「石垣」となるのは確か。

敵と味方を隔てるか?

水と陸地を隔てるか?

俗域と聖域を隔てるか?

それだけの違いしかない訳だ。

どうしても、目立つ防塁に目が行きがちだが、目から鱗、既成概念を破壊せねばなるまい。

 

続けよう。

「上古から中世にかけて、本格的な石工技術は貴族・豪族などの一部上層階級に属する専門石工の石作部によって受けつがれ、隣邦民族の技術を学びとりながら発達してきた。したがって一般民間にあたっての石工作業は、そうした上級専門職の技術をまねる一方、自前の区分と経験に頼るほかなかったのである。」

 

ものと人間の文化史  石垣」 田淵実夫 法政大学出版 1975.4.1  より引用…

広島県上ヶ原古墳の玄室…

山口県石城山の神籠石…

当然なのだが、重量物である石を土木,建築で使うには人員動員が必要な上、石材を集める必要もある。

よって、石積み技術は朝廷の石部,石作部や豪族、宗教施設ら一部の権威,権力者に囲い込まれ、一握りの人々が独占する事になる。

勿論、それら技術は、石の構築文化を持つ地域からの渡来系氏から手に入れる事になる。

民間利用は見様見真似からスタートされたと著者は考えている様だ。

ところが転機が訪れる。

戦国乱世。

それまでの秩序が崩壊していき、力ある者がのし上がる。

①経済発展と城下町の形成

これで、それまでの山城+館から、経済的中心としての城が必要になってくる。

②鉄砲の伝来

長い射程と破壊力により、木柵や板塀では防御力が追い付かなくなる。

城は平地に下りるが、防御力は上げる必要が出る。

特に鉄砲の威力を知る者なら、ここに必然が生まれる。

これで大小石工が城下町に招聘され、お互いに技を競い合うことになり、石工は「石工家持」となりギルド化していき、小方を育成していく。

ここで事例として挙げられているのが、あの「穴太衆」。

この文献は1970年代のもの。

城郭考古学や中世史の発展は最近目まぐるしいので、細かいところはアップデートされているであろうが、同書でいくと、

・穴太衆は元々比叡山系の寺社石工集団

安土城の普請に招聘される

・元々は彫り石工で積石工ではなく、さすがに巨石を使った城郭用の石垣構築ノウハウは無し

・耕地,宅地造成、道路,水路への石積みノウハウを持つ瀬戸内沿岸出身の石切の石工に声をかけて招聘

・元の穴太衆に士族身分を与え弦は監督として石切石工と積石工を纏め、更にノウハウを吸収していく

・石工全体のレベルが上がり城の石垣は強固に、監督としての名声も上がる

・石工衆は普請終了と共に株仲間同士で各地の石積み作業を渡り歩く様になるが、ここで親方の名前「アノウ○○組」と称する

・各地の石に対するレベルの底上げがなされる

・天下泰平の世に代わり、一国一城令らで城の普請らが無くなる

・民生用として、各地の耕地拡大、港の増強らへフィードバックされる

…これが全体の流れの様だ。

つまり、古代に囲い込まれた技術はカット&トライで「民生用」として積み上げられてきたが、城の石垣と言う「軍事用」として囲い込み技術と民生用技術の融合が起こり応用,洗練,進化し、後に需要の低下で再度「民生用」への応用が図られて、それが経済発展を促した…も言う訳だ。

筆者も含め、巨大城郭の石垣のイメージは強いかと思う。

だが、石工の技術史として見た場合、軍事転用はレベルアップの起点としての役割になり、後の再民生化への転機と捉える方が良い様だ。

後の「再民生化」した技術の凄まじさは、江戸期の各地の干拓事業や治水や運河構築らで解るだろう。

ここで、特に民生用で石垣画多用された瀬戸内沿岸では、石垣の進化に対する条件があるという。

一に塩田
二にタタラ
三に瓦
四伐採
五に城下町

塩田、製鉄、瓦焼き、伐採…

これには共通の問題点が有る。

燃料として木を切るので、山が荒れ禿山になってしまう事。

産業化してしまえば、造林しても追いつくハズも無し。

釣られ川は暴れ川となるし、山の土も流出してしまう。

ここで、石垣技術を使う事になる。

・川に堤防を築く

・流出した土を使い、段々畑やオトシ田として禿山を再利用 

・堤防で干拓を行い、塩田は沖へ、手前は宅地や耕地へ転用

平たく言えば、産業発展で起こった環境破壊を逆手に取るのに石垣を利用した事になる。

結果、経済発展の正に石杖に…

 

さて、如何であろうか?

少し考察してみよう。

①「垣」とは何か?

石垣に限らず、「垣」とは何か?に対する答えがこれ。

・敵と味方を隔てるか?

・水と陸地を隔てるか?

・俗域と聖域を隔てるか?

を示す為の土木設備。

つまり広義で考えれば「結界」。

信仰で考えれば解り易いか。

御神体を納める「祠」…

「祠」を大きくしたのが「神社」…

「神社」の聖域と俗世を隔てる為に「玉垣」「注連縄」「御幣」で囲う…

玉垣を木柵とすれば土や石垣で囲えば「土塀」「築地塀」「石垣」となる。

これらの差は、信仰対象や宗派、その地にあるもの…で変わるだけ、とも考えられなくはないか?

属性の境界、「結界」と考えれば良いと考える。

 

②城の石垣について

石垣の概略の利用史を鑑みて、戦国期前後では利用方法が変わる。

そう、「軍事転用」だ。

北東北限定だが、石垣を見たり中世城館調査を読んで思うのだが、払田柵も含めて「防塁」としての機能を持ち得るか?

筆者の答えは「否」。

脅威すら感じない。

理由は簡単だ。

低過ぎる。

古代〜近世に掛けて、北東北は場産地。

高さ1m程度の石塁が脅威になる訳が無い。

土塁,空堀で近付き難くして、木柵上の櫓から弓でも射掛けた方が余程圧力を感じるだろう。

局部に石塁を施すのがどれ程圧力になるか?

これは、飛島の「館岩」や余市の「茂入山」も同様だ。

岩山自体が要害になる。

その上部に石塁を施しても、防塁としての価値が如何ほどなのか?

これを考慮して、構築時期を想定してみよう。

戦国前ならばそもそも「防塁」としての概念が薄いし効果も見えない。

戦国後ならばそもそも「防塁」としての価値が殆ど無い。

なら、これら石塁は戦国前、且つ、「防塁」機能で施された訳ではないと考えられるのではないだろうか。

仮に江戸期まで下るなら、もう「野面積み」ではなく、成形した「樵石積み」の方だろう。

旧ヤマウス稲荷社階段なぞ、

知識ゼロの筆者でも、古い構築と新しい構築との見分けが出来た。

これらをフィルターにして傾向と分布を再度見てみようと考える。

③用途は?

戦国前、軍事転用の意図が低い事を考えれば、現状なら「結界」の用途。

なら、中世城館も「館岩」「茂入山」らも館のある屋敷、と同時に「寺社」の要素があるのでは?

連郭式なら解り易いが、本丸に館を置き、二の丸に寺社を置く…だ。

前にも述べているが、中世城館ではその中に塚があったり板碑を置いたりしている。

また伝承では、鎮守の神社を併設したり、当主が別当を兼ねるケースがある事だ。

政治的権力と宗教権威の両方を持つ事で、周囲のライバル達にその力を見せる事。

鳥海柵や大鳥井山柵が解り易いか。

空堀で隔てた所に神社と推定される掘立建物が設置されている。

そのから派生し、中世城館でも同様なのではないか?

 

同書では、技術論は少ない。

だが、ただ単に石を並べただけで数百年保つ様な甘い話ではないし、山形城の様に藩の規模縮小で石垣の補修が出来なくなり荒れ果てた事例もある。

土塁,空堀にしても然り。

これらには、民生,軍事両方で培われたノウハウが詰まる。

当時の土木技術の集積だ。

道具ありゃ直ぐ構築可能だなんて馬鹿な話はない。

地震や風雨に晒されても、ビクともしていなのがその証拠。

簡単に考えるのは技術の世界に対する冒涜、且つ、机上の空論ではないだろうか。

 

さて、少しずつ学び、検証していこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

ものと人間の文化史  石垣」 田淵実夫 法政大学出版 1975.4.1