余市の石積みの源流候補としての備忘録−4…青森県の中世城館の傾向は最早、石塁等は無し

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/03/202211 

さて、青森県の中世城館の確認も確認せねばなるまい。

ここまで来たら、北東北制覇し、その傾向を見ようではないか。

ここまでからの予想では、

鳥海山,出羽三山から離れると極端に薄くなっていく…

こうだ。

と、言う訳で、「青森県の中世城館」で確認を。

 

極簡単、予想通りの結果で、少々面食らう感じだ。

1/389…これが結果だ。

この「1」、中世末の三戸城跡。

勿論、聖寿寺館が火災消失した後に築かれた三戸南部氏の主城。

石垣は何度かの改築の折に築かれたと記憶しているので、戦国~織豊期になるのだろうか?

で、他の城館に石積み,石塁,石垣らの記載は無い。

勿論、板碑や五輪塔、小祠ら宗教施設があるケースはあるが、石積みの塚すら記事がない。

少し興味深い記事があったので引用してみよう。

 

「羽黒館   大鰐町

大鰐町南西、大中学校の建っている館跡である。北を平川、西を虹貝川が流れており、この方面からの攻撃に備えた館といえる。

館は少なくとも7郭から構成されていたよ うである。 そのうち最も大きい郭は現在大鰐 中学校校地である。 その他宅地化等により、 原形をとどめない部分が多い。

『日本城郭大系』には「羽黒修験の館である。中世には熊野修験のすみかであった。 羽 黒修験が津軽に入ったのは江戸時代末期であり改称したものであろうか。」 とある。」

 

青森県の中世城館」  青森県教育委員会  昭和58.3.31  より引用…

 

津軽方面での羽黒修験の霞は薄く、江戸期の中興の折に広がりをみせた様だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

男鹿半島にして、十三湊にして、日枝神社との関わりが深そうだ。

船で畿内とダイレクトに接続されていた事を鑑みれば、これら地域で力を持つ修験は比叡山系の本山派になるのだろう。

時宗の板碑分布にして然り。

対して糠部方面は、中世に南部師行が入ってからは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

確実に日蓮宗を広めたであろう。

この辺は、それ以前の影響力は解らないが、後の人の動きにより変化して当然の事なのだろう。

領主級はその権威を高める為に、大型の寺院や道場を建立したが、地の国衆は自らの一族や土地の安寧を祈願し鎮守の寺社建立をしている。

全く一致している訳でもないのだろうが、道場があればそちらの影響が強くなるのかも知れぬ。

現実、寺社は時代により改宗したりしている話もあるので注意は必要ではあるが。

 

如何だろうか?

勿論、まだ裏付けらは必要ではあるが、可能性としては、古代〜中世初期に築かれたであろう石積み,石塁,石垣の類に関しては、その構築に羽黒修験や鳥海山,月山信仰が関わるのではないかと予測する出来そうな傾向ではないだろうか?

領主が国衆に信仰まで強要出来たとは思えない。

でなければ、縦型社会が強まる織豊〜江戸初期ですら、キリシタン拡大を止める為に武威迄使う必然が無い。

 

さて、では…余市は?

古い時代なら、羽黒修験…

新しい時代なら、キリシタン

宗教家は技術伝搬者と言う視点で見てみれば、この二者は確実に石積み構築は可能だろうし、信仰故に周囲から人を集める事も可能だろう。

一族を超えた人員を揃えねば、土木工事はムリ。

数人単位であんな工事が出来ようハズない。

 

まぁ、少しずつ学んでいこうではないか。

 

 

参考文献:

 

青森県の中世城館」  青森県教育委員会  昭和58.3.31