https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817
「「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?」
金銀らの精錬について扱った「「錬金術」が「科学」に変わった時」のシリーズ。
今回は「水銀精錬」である。
関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/09/060431
「ゴールデンロード⑥&ゴールドラッシュとキリシタン-35…北海道の「採金施設」とはどんな場所か?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055
「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612
「実は「出羽三山」では金銀銅水銀、そして鉄が揃う…「月山鍛冶」の答え合わせ、そして技術や文化への宗教の関与は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
「ゴールデンロード⑤…遠野と金山,水銀との繋がり、そして修験道の関与は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/06/140204
「錬金術」が「科学」に変わった時-3…近世秋田の「阿仁銅山 銅山働方之図→加護山全図並製鉱之図」を学ぶ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
「度々登場する「辰砂」とは?…「水銀」と、当時の「黄金」への認識を学ぶ」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/17/162536
「度々登場する「辰砂」とは?2…家康公や政宗公が真に欲しかったものとは?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849
「ゴールドラッシュとキリシタン-27…様似町史に記された「黄金伝説」は「キリシタナイ伝説」だけに非ず」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/20/185409
「砂金&水銀は「様似」だけに非ず…旧「旭川市史」に記された「旭川」のポテンシャル」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…
そして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/30/205122
「「錬金術」が「科学」に変わった日−5…中南米で行われた水銀アマルガム法とはどんなものか?」…
こんなところか。
ざっとおさらいしておこうか。
①水銀は自然界では「辰砂(硫化水銀)」の形で主に産出され(稀に北海道イトムカ鉱山の様に自噴鉱床有り)、縄文以降にベンガラ(酸化鉄)と共に赤の顔料として使われ、土器への朱漆の染色や古墳石室への着色らに使われた。
②水銀は金銀ら貴金属のみを溶かし込み合金化する特性を持ち、これが「アマルガム」。古代に辰砂を蒸留して水銀を取り出す技術と共にこの特性で金銀の精錬、鍍金技術が伝わり、奈良の大仏らで利用していた。
主に、一度水銀に鉱物を入れ金銀のみを溶かし込みアマルガム合金にして、それを熱し水銀のみを蒸発させて金銀を高純度化させたり、大仏に金箔を貼り付けた。
③その希少性から大陸との交渉の土産、通商用に砂金と共に辰砂での支払いの記録がある。
④往古、このアマルガムで取り出した金(練金,精錬した金の意)を「黄金」とし、砂金は「黄金」とはみなされなかった。
⑤アマルガム同様の特性は、熱して液化した鉛にもあり、それも銀の精錬らで使用している。水銀アマルガムに対してこの鉛を使った精錬を「灰吹法」と言う。
⑥中世後期にそれまで錬金術や工人技術だったが、「デ・レ・メタリカ」「天工開物」らの出版で科学技術かされる。
⑦我が国での主な鉱床は大和や伊勢を中心とした「中央構造線」で産出されたが、東北の遠野周辺や湯殿山「宝前」、北海道日高山系やイトムカらでも産出した。又、北方四島に居た者は銀の産出や精錬(灰吹法)を知っていた様だ。
⑧②の通り、辰砂蒸留時に発生する硫化水素や、金銀精錬,鍍金時に発生する水銀蒸気が健康被害を出し環境負荷が高いので現状はあまり用いらない。
⑨これらの技術の伝搬,拡散、鉱床発見に修行僧や修験、バテレンが関わりを持つと考える。
宗教家は学者,技術者でもある。
そして、
⑩「デ・レ・メタリカ」「天工開物」では基本的に「灰吹法」での精錬が紹介され、水銀アマルガムは記述されず。
メキシコ「パチュカ銀山」でスペイン人パルトロメ・デ・メディーナが1555年に完成させた為で、これが最先端技術。
徳川家康や伊達政宗がバテレンに強くメキシコとの通商を迫ったのはこの技術獲得を狙ったのでは?
因みに世界の当時の流通貨幣たる銀の我が国の産出量は、実に世界の三割を占めていた…
こんな感じである。
実は「黄金の島ジパング」は案外伊達ではなく、金銀水銀は外貨利用されていたのだ。
ただ、水銀に関しては健康被害もあるので、古代にどのように精錬されたか?明確ではない部分もある。
なので、たまたまSNSに流れてきた論文があったのでここから研究を学んでみようと言う事だ。
何故わざわざ技術論を学ぶのか?…なぞと言う妄言は止めようではないか。
その時点で保有する技術の有無は、編年指標と同じ意味合いを持つ。
現に、近世では精錬技術が低く、銀に含まれる金の流出や銅に含まれる銀の大量流出を招いたり、金銀の交換レートで明治迄苦しむ事になる。
その間、資源が薄いと言われる我が国から如何ほどの富が流出したか?考えるだけでもクラクラする。
では、市毛勲氏の「水銀精錬法−日本古代・中世水銀鉱業の研究−」から。
「日本古代・中世の水銀精錬法は矢嶋澄策博士が丹生神宮寺伝来の水銀釜と鍋を資料として復元して以来、本格的研究は現れてこなかった。それは資料が限定され、展開しようがなかったところに原因があると言えよう。1989年に伊藤裕偉氏の調査された伊勢丹生若宮遺跡の報告が公刊されて、若宮遺跡がわが国唯一の水銀精錬跡であることが明らかにされた。しかし、報告では水銀精錬の実態解明まで踏み込んだ研究が発表されず、今日に至った。三重県埋蔵文化財センターの厚意をえて、調査者伊藤裕偉氏の教示を得るとともに出土遺物の精査を実施し、土師器甕と鍋を用いた水銀精錬法を推定復元する事に成功した。 甕は逆さにして鍋の上部に被せ、甕の底内部には粘土を張って触媒とし、そこに辰砂を入れて埋設する。 甕の底が地上に露出する部分を加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生する。水銀蒸気は冷却されて水銀粒となる。
この水銀精錬法はいくつかある方法のうちの一つに過ぎないと思われ、茶釜や鍋を使った方法も考えられる。加熱と冷却の方法がどのようであったか、この解明こそが水銀精錬法を明らかにさせる基本と思われる。」
要旨の部分。
後のはしがきにもあるが、「水銀」は続日本紀で「伊勢水銀」として初出し、伝世品や遺物から5世紀位には伝来して馬具鍍金→刀剣塚頭や耳飾→仏像鍍金として利用が爆発的に増えた様だ。9世紀には化粧品の白粉(軽粉)で更に需要拡大。
これらから、辰砂からの精錬法は8世紀には確立されていたと考えられるが、古文献記録が無い事や考古学資料不足で殆ど研究されていなかった様だ。
昭和21年段階で早稲田大の矢嶋澄策氏が丹生神宮寺の土製羽釜と鍋での水銀精錬を復元、同大松田寿男氏に継承された。
何処で水銀精錬をしたか?は、先述の伝世品が残されていた
「丹生神社,丹生神宮寺」から西北200mの「若宮遺跡」が古代〜中,近世で唯一水銀精錬遺跡として推定可能な場所の様だ。
又、奈良の大仏建立時は、万葉集ら古書記述から大仏鋳造場近くに運び込み精錬したと考えられている。
何しろ、流通量は時代を経るに従い増えたであろうが、その精錬手法も遺跡も見つかっていない為に、遡る事も下る事も出来なかった訳だ。
ここで突破口を見出すべく、丹生神宮寺の伝世品である水銀焼土鍋らからの復元が研究のスタートとなった。
左が矢嶋氏の復元で、
土製羽釜に辰砂を入れ底部から加熱。
辰砂から水銀蒸気が分離され鍋の小穴から出てきて、蓋外面に伝い冷えて下に滴下、羽釜の鍔部分で受ける…というもの。
それぞれ単独ではなく、2個一対で使う考え方で、鍋の縁に付着した滓と鍋底に開けられた小穴からの推定。
ここで市毛氏は右の様に採寸のやり直しから、鍋は羽釜の内側に入ると復元している。この場合、鍔で受ける事はムリになる。更に辰砂からの脱硫剤は?ら問題はあった様だ。
鍋,羽釜共、縁らに黒色付着物がありこれはスート(滓,不純物)、鍋内壁には黄色不純物がありこちらは同様に昇華、冷却で固化した砒素との事。
では、矢嶋氏の復元は正しいのか?
又、正しくないのであればどうだったのか?
ここで「若宮遺跡」の実績での検証となる。
土坑、溝、柱穴、ピットら遺構と
中世土器や石器が主な調査結果だ。
詳細は割愛するが、赤丸の土器龜に於いて内外部の付着物,胎土を分析したところ、内部付着物は水銀濃度が高く、外部付着物と胎土では高い砒素濃度が検出された。
形状らからの特徴から16世紀前半と推定されている。
石製品は石臼が多いが、杵が見当たらず、擦り痕がある川原石がある。
石臼は中央から割れた物が多く、叩いて使われたと推定。
辰砂を粉末状にしたか。
「調査担当者の伊藤裕偉氏は若宮遺跡には土坑の多い事、礫群の規則的配置土坑と砂礫埋め土坑が発見されていること、砂礫層には焼土や木炭を含んでいる場合があること、埋土の砂礫は川原砂ではなく角張っているので人為的破砕を受けていること、などを特色として挙げている。そして、出土遺物の特質を次の5項目に纏めた。1、人為的に破壊された砂礫 (5~10mm) があり、2、土器 の構成で煮沸形態のものが圧倒的に多く、3、当 遺跡に特徴的な土器があり、4、他の遺跡にはあまりない粗製の石臼があり、5、成分中に砒素が多く含まれる物質の付いた土器がある。時期的には16世紀前半代頃と限定した。これらの結果を踏まえて若宮遺跡は水銀生産と関わっている可能性があると結論づけた。」
ここから更に市毛氏は、
・伝世品同士の組み合わせだけで、復元して良いのか(別土器との組み合わせは)?
・蓋と想定した鍋底部に穴があるにも関わらず(液化したら漏れる)、鍋外側に加熱痕がある事…
・気化した水銀を冷やし液化させる方法は?
・発生した硫化水素を工人が吸わない対策は?
らを確認の為に、矢嶋氏の文献で紹介された「丹洞夜話」を再建書している。
極めて小規模(徳利を利用)且つ、16世紀位迄行われ口伝された精錬法を文化元(1804)年に記録されたものではあるがこんな手法だとの事。
やはり矢嶋氏の復元同様に、容器(徳利)二つを組み合わせるが、辰砂容器と加熱槽は蓋側の容器、下側の容器は空にして水銀蒸気の冷却と回収用として土中に埋めておき、硫化水素は上下容器の合わせ目から外部拡散。
やはり上下に組み合わせる点は一致している。
市毛氏はこれを参考として、若宮遺跡の土器を選定し、赤丸の少々特異な形状の龜型土器を蓋(辰砂容器+加熱槽)、鍋型土器を鍋(冷却槽+水銀回収容器)として、付着物(滓跡)や加熱痕を参考に次の様に復元している。
辰砂は蓋(辰砂容器+加熱槽)の半分以下、周囲で検出される砂礫で蓋(辰砂容器+加熱槽)、鍋(冷却槽+水銀回収容器)双方に充填。
蓋(辰砂容器+加熱槽)の底(復元装置では上部)迄土中に埋めて、火持ちの良い炭を使って土より上の部分で加熱、気化した水銀は砂礫層へ拡散,冷却され、その比重から鍋(冷却槽+水銀回収容器)の底に溜まっていく。
炭が燃え落ち、冷却してから掘り返せば、水銀蒸気や硫化水素ガスを大量に吸うリスクは軽減される…だ。
若宮遺跡の報告から推定された中世での水銀精錬法を引用しよう(見易い様に改行する)。
「中世水銀精錬法とその作業工程
砕石(鉄槌の利用)
→選鉱(ズリ廃棄)…
→辰砂塊の製礫(辰砂砂礫化に石臼・石杵利用)…
→砂礫と辰砂の選別(砂礫廃棄)…
→甕底部内側に触媒の粘土張り・乾燥…
→上部甕に辰砂礫とその上方に砂礫詰め・下部土器 (甕・鍋)に砂礫詰め…
→甕を逆さにして上下土器を接合…
→土坑内に精錬用組み合わせ土器(甕・鍋)の埋設…
→上部甕上に炭火積み、一昼夜加熱…
→水銀蒸気・亜硫酸ガスの自然冷却…
→ 水銀粒下部土器に落下・滞留、亜硫酸ガス拡散…
→ 上下精鍊用土器の掘り起こし…
→水銀採取」…
市毛氏は若宮遺跡の土器の煤の付き方が複数あるので、この復元は幾つかの方法の一つでしかないと考えている。
近世初頭には、その時代の技術で掘り得る表層の辰砂は枯渇化していて、もっぱらオランダとの南蛮貿易で入手した海外辰砂を使用していたとしている。
よって、伊勢白粉らも含め江戸期の水銀朱はこんな精錬工程を経たものだったとしている。
近現代迄需要があった水銀だが、需要減少以前に産出や精錬コストで採算が合わずに生産がストップした状況で、地下資源としての水銀は我が国地中深くに眠っているそうだ。
如何であろうか?
上記のような古〜中世の精錬や製鉄の復元はまだ始まったばかりの様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/07/202638
「これが復元された「製鉄炉」…「まほろん」展示の「箱型炉」を見てみよう」…
一度消失したロストテクノロジーを復元するのはこの位難しいのだ。
それ程、技術やノウハウが積み重ねられている。
近辺産業で応用可能な技術はあるのだ。
筆者は先の「阿仁銅山と加護山精錬所」の項を学びながら思った事がある。
阿仁銅山が銅山である性質上、主製品は「銅」で、「銀」は副産物になる。
「銅から銀を取り出す」と言うよりは、「銅から銀を分離排除」している。
こんな視点から考えると、「水銀」を取り出す技術を失う事は、「水銀を排除ふる技術」を失う事にならないか?を筆者は少々危惧したりしている。
電気特性,磁気特性,物理特性ら特徴を極限迄上げようとすれば、より純粋な原料と添加物の組み合わせが必要になる。
研究室レベルなら問題は無くても、工業生産レベルなら…?
また、現状直近で問題視される太陽光パネルの廃棄問題ら。
重金属を「抜き出し」他の必要とされる産業へリサイクル出来るのか?
出来なけば、自分達の身に降りかかる。
こんな問題を素人目で考えるキッカケを得るのも、技術史を学ぶ醍醐味だろう。
「勿体無いの国・日本」…
それは資源のみに非ず。
技術もまた「勿体無い」をしなければ。
失ってからでは遅い。
何でもかんでも、眼前の経済効果だけしか見ない薄っぺらな考えで良いのか?
それは教訓として、技術史が教えてくれるだろう。
参考文献:
「水銀精錬法−日本古代・中世水銀鉱業の研究−」 市毛勲 『古代文化第57巻第8号』 古代学協会 2005.8.20