https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045
前項の続編である。
折角、鳥海修験や羽黒修験に着目したのだから出羽国と想定し、山形側はどうなのか?確認してみようではないか。
では、詳細を。
①庄内地域…
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先に報告した飛島「館岩」を含む。
10の内、7箇所は鶴岡(朝日村含む)に集中する。
・館岩…飛島…石塁
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/065526
・箕輪館…遊佐町…石積み
90m×45mに区画された形跡。
中央にL字型の水路…
北東,南西に区画…
それらが1m程度の石積みで作られる。
区画外には防塁らは見当たらず、居館か?
・本宮館(石鉢山)…酒田市平田町…石垣
東側一部のみ。
主郭南隅に八幡神社。
・藤沢館…鶴岡市…石垣
諏訪神社を祀り石垣があったが、宅地造成で周辺は破壊。
1586(天正14)年に上杉勢の攻撃で落城と伝わる。
・尾浦城…鶴岡市…石塁塚…
戦国末の大宝寺(武藤)氏主城で、大宝寺義氏が家臣前森蔵人に攻撃され自害した地の有力候補地が西側。
マーク周辺に石塁塚と思われる物有り。
・今泉館…鶴岡市…石積み
集石遺構。陶器らも出土。
・黒森館…鶴岡…石積み
・館野…鶴岡市…石塁塚
西側高台に集石遺構と五輪塔有り。
②最上地域…
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③村山地域…
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10箇所の内、5箇所は月山山麓の西川町に偏重。
・山形城三ノ丸…山形市…石垣
・中山城…上山市…石塁
主郭の物見台に石塁が施される。
・睦合楯(要害)…西川町…石積み
内部の稲荷社脇に石積み跡有り。
・鍋倉楯…西川町…石積み
虎口周辺に石積み。
・本道寺館…西川町…石塁
桝形Cに石塁。
・中山楯…西川町…石塁
副郭の多段曲輪に石塁。
・吉川館…西川町…石塁
主郭北側に1.5mの石塁。
・顔好城(小沢城)…大江町…石塁
狼煙台とされ、周辺に石塁有り。
・東根城…東根市…石垣
正保年間の「東根城絵図」で本丸周囲に石垣,土塁有り。
・延沢城(霧山城)…尾花沢市…石垣
北面桝形門に石垣,石段の崩れた跡有り。最上氏の改易により廃城。
④置賜地区…
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この地区では、中世の長井(大江)氏、伊達市、蒲生氏、上杉氏らが歴代治めており、家臣団の平地の館跡を含むのでべらぼうな数になり、既に全く消失しているものも多い。
・矢子山城…米沢市…石垣
元々凝灰岩の中世石切場とされ、「切石山」と呼ばれる。
曲輪により切石配置は三種あり、年代差が考えられ、最も新しいものは慶長年間か。
・米沢城…米沢市…石垣
・羽山館…米沢市…石垣
館内へ侵入する箇所に石垣を配した4m程度の桝形を形成。
・別所館…南陽市…石垣…
・地蔵岩物見…南陽市…石積み
主郭に天然石を利用した石積みと、高さ1m×内径2~3mの凹の篭り場有り。
近くに地蔵岩有り。
・虚空蔵山館…南陽市…石塁
頂上主郭付近は20~30mの土塁,石塁を施し、山神の石祠有り。
又ら曲輪らの最下部に観音,虚空蔵菩薩堂がある。
・大洞山館…南陽市…石塁
主郭西側に石塁を混えた横堀有り。又、主郭入口への道路両側にも石塁を施す。
・白山森館…長井市…石積み
径2~3mの石積み状の塚が4基有り。
・大窪砦…小国町…石垣
三角山中腹の大窪と呼ばれるくぼ地前面に3本の空堀とその上に高さ3m×長さ30mの石垣を施す。
以上である。
山形県全域では、
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分布は…
地図が大きく築城箇所を反映させられないが、概ねとして見て欲しい。
赤丸の
1羽黒山
2月山
3湯殿山
4は鳥海山…になる。
特に、複数城館がある鶴岡市は羽黒修験の別当寺らが有り、羽黒山側からの峰入口。
月山を挟んだ西川町も寒河江川上流の月山麓で、出来過ぎと言わんばかり。
見ての通り、分布が出羽三山とは山伝いの地域を中心に広がる。
出羽三山とは最上川を挟み山伝いにない最上地域には全く無いのも特徴かも知れない。
因みに筆者は先日、寒河江川とは方向が違う立谷沢川流域の「瀬場」付近へフィールドワークしてみた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
往古には砂金場として知られた場所を見たくなったからだ。
この様に、立谷沢川へ周辺から沢が流れ込む。
よく見ると沢筋から水を引いたのか、石を積んだ様な跡が残る場所はそこかしこに。
何よりこの周辺は、家の土台は土盛りして石積みを施す家々が殆ど。
・立谷沢川は急流で川原に石がゴロゴロある。
・山が里の近く迄迫り、地域に傾斜がついており、家を建てる際には土盛りで水平を出さねばならないだろう。
こんな雰囲気は何となく悟る事が出来る。
この傾斜こそ、添付にある「北楯大堰」を作る必要があった理由の様だ。
確かに、この周辺や立谷沢川の高さから見ると、最上川の水面の位置はかなり低い。
これでは最上川から周辺田んぼへ水を引くのは無理だろう。
思い切り納得…
狩川城自体には、石垣を施した記録は無いが、周辺の家屋や水路の構築として石積みが使われるのを垣間見る事が出来る。
これ、鳥海山麓で段々畑や家屋の土台に石を積んだ矢島周辺と状況はよく似ている。
傾斜地を利用する知恵なのも知れない。
ただ、傾斜地利用だけなら他地域も同様。
見ての通り、この周辺には石積みの塚がある。
何らか宗教的な側面は考慮する必要があるだろう。
故にそれらが重なる場所のみ、民衆側に石積みの技術が定置した…と、言うのはどうだろう?
勿論、城館の石積みは、時代幅が大きく、一様のものかどうかも言えないし、それだと言える状況でもない。
主城級の山形城や米沢城らとは同一次元で語るのは難しいだろう。
中には、戦国時代の築城と謂れがハッキリするものもあるし、家臣団の平地の居館迄記録される置賜は一線を画すであろうからだ。
この辺は宮城や福島では顕著だろうし、中央との関係が深ければ、そちらからの伝搬も有り得る。
これが青森や岩手も含めた状況と合わせてどうか?にもよってくる。
折角だから、同様の分別をした秋田の状況はこうだ。
赤丸の4が鳥海山。
ここだけ並べたら、月山を中心に山伝いに石積み,石塁,石垣が伸び、そうならない秋田県北や最上地域、山形~新潟の県境付近にそれらがないのが見てとれる。
ここまで見事に傾向が出るなら、検討余地はありそうな気はする。
可能性として、石を扱う技術の一端は修験系らから。
それと払田柵との関連も考えれば、
・払田柵築城前から修験らが、地域民衆に宗教と共に石積み技術を伝搬させていて、それを築城時に使った…
・払田柵築城時に石積み技術が伝搬し、陰陽師技法らと共に修験ら伝えた…
このどちらかではないだろうか?
ある意味、技術と宗教は表裏一体。
どちらにしても、当時の状況を解明する手掛かりになれば御の字である。
まだ入口。
これらの状況が接続出来た時、余市の石垣と接続出来る可能性が広がってくるのではないだろうか。
参考文献:
「山形県中世城館遺跡調査報告書 第1集 (置賜地域)」 山形県教育委員会 平成7.3月
「山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集 (村山地域)」 山形県教育委員会 平成8.3月