https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/23/194247
「「最上徳内」は北海道をどう描いたか?…「蝦夷草紙」を読んでみる 」…
こちらを前項に。
最上徳内は、
「蝦夷国地へ都穀物の種を渡す事停止なり。故に蝦夷人は耕作の道を知らず。 田畑は一歩たりとも決してなき事なり。殊に蝦夷人は元来野菜物を好マざるものにて、蕪・大根・茄子・角豆の類ひ一切なし。款冬(筆者註:フキのルビ有)・牛房〔蒡〕は自然に生ずれども、蝦夷人一向食せず。 只魚肉・獣肉を食物とす。 其外草の根に食すもの、二三種あるのミなり。」
「蝦夷草紙」 最上徳内/吉田常吉 時事通信社 昭和63.9.25 より引用…
と、蝦夷衆は農耕はしないし、田畑も無く、元来野菜の類は好んで食べないと記述している。
しかも最上徳内は、「欧州は北海道より緯度が高いのに農耕をやってるんだから、蝦夷地で出来ぬハズは無し」とムチャブリをぶちまける。
だが、食べないもんをわざわざ作りはしないし、海藻や、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…
場所によっては「チエトイ」、つまり珪藻土を調味料として使う食土でミネラル不足を補った様だ。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
「ゴールドラッシュとキリシタン-28&生きて来た証、続報39&時系列上の矛盾…松浦武四郎が記す、多くの金坑跡&穴居,畑跡」…
現実としては松浦武四郎は「畑跡」を記述し、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/27/201947
「時系列上の矛盾…今度は西蝦夷地、稚内「声問川2遺跡」にあった畑跡、そして…」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140
「時系列上の矛盾&生きていた証、続報29…東蝦夷地は旧虻田町「高砂貝塚」にある畑地の畝の痕跡」…
稚内や噴火湾周辺の森町、八雲町、伊達市には「Ta-b降灰前」迄は畑の畝跡が検出されている。
これはどういう意味か?
実は面白そうだとまた欲しい文献と抱合せで購入していた資料集があった。
そんなところにSNSで農耕記述の話が回って来たので、この際並べてみようかと。
と、言う訳で中〜近世の農耕についての資料集「近世蝦夷地能作物地名別集成」から、どんな事例があるかを報告する。
まずは範囲を。
知行制や場所請負制が始まった1700年代から記述が増加、1800年代になれば更に増えるのは当然。
敢えて1700年迄をピックアップする事にする。
殆ど無さそう?…実は道南中心だが36件記述がある。
資料集成の性質上、何の資料から引っ張ったか?も記載されるが、それぞれの史料批判はやってはあないので悪しからず。
年代区分けは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/05/112644
「火山噴火の痕跡一覧からの備忘録…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…
こちらを考慮した。
・〜1603年
江戸幕府成立前迄。
北斗…1
松前…1
乙部…1
函館…3
厚沢部…3
計 9件
・〜1640年
Ko-d(駒ヶ岳噴火)前迄。
松前…2
北斗…1
松前地として…1
計 4件
・〜1667年
Ta-b(樽前山噴火)迄。
厚沢部…2
北斗…4
函館…1
浦河…1
松前…1
計 9件
・1667年〜1700年
一連の噴火後。
松前…4
松前地として…1
江差…3
北斗…3
函館…2
釧路…2
計 15件
では特徴的なものを。
①〜1603年、松前藩成立前…
「長禄年間(1457~60) 長田長右衛門,其先ハ半太夫ト称ス。陸奥国ノ人ニシテ,嘉吉年間下国安東太郎,安東盛季二随ヒ此地二来ル。長禄年間ヨリ開墾二從事ス。爾来世々此地ニ於テ農漁ヲ事トス。」
北海道巡回紀行(明治19(1886)年,青江秀)より。
これが最古の記録の様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/02/183834
「最新刊ではどうか?…「奥羽武士団」に記述される「陸奥安東氏&出羽秋田氏」」…
南部氏の十三湊攻略により、安東盛季は北海道へ逃れるが、その時に随伴した一族がそのまま旧上磯町に土着した伝承になっている模様。
・松前町…
「永禄年間以後(1558~70以後) 松前郡,畑作ハ末タ詳ナラスト雖モ蓋シ永禄以後ニアリ。皆宅地ノ傍二野菜,園蔬ヲ試ルニ過ス。」
開拓使事業報告第2,3編(明治18(1885)年)より。
・函館市亀田…
「永禄5年(1561) 按スルニ永禄五年畑地開墾ヲ以テ北海道ノ嚆矢トス。即チ渡島国亀田郡亀田村是ナリ。」
開拓使事業報告第2,3編(明治18(1885)年)より。
・厚沢部町俄虫,目名…
「天正年間(1573~92) 天正年間,徳兵衛ナル者陸奥国福島ヨリ移住シ、伐木ヲ業トシ傍ラ農業ヲナス。」
「天正年間(1573~92) 若狭ノ人文右衛門,金蔵ノ二人,移住シ伐木ヲナシ傍ラ農業ヲナス。」
双方共、北海道巡回紀行(明治19(1886)年,青江秀)より。
ここで、農業のみならず、林業も登場する。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/18/180921
「消えた民俗風習、津軽に伝わる「木帳面」、東北にあった「錦木」…似た様なものは東北にある」…
あちこちから木樵の移住があったのか?。
そしてこの「陸奥国福島」は旧伊達領か?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/26/210548
「この際、「内耳土鍋」を見に行こう!…「旧伊達氏領」の内耳土鍋ってどんなもん?」…
だとしたら、なかなか笑える展開である。
・函館市鍛冶…
「天正7年以後(1579以後) 中村紋三郎,其先紋三郎ハ陸奥国三戸町ノ人。今ヲ距ルコト三百八年前,天正七年此地二来リ本業ノ鍛冶ヲ事トス。是レ村名ノ由テ起ル所ナリ。其子紋三郎、業ヲ更メテ農トナル。代々紋三郎ト称ス。」
「天正10年(1582) 小柳善右衛門,其先善右衛門ハ津軽ノ人ナリ。今ヲ距ルコト三百五年前,天正十年此地二来リ。土人等ト共二地ヲ墾シ麦ヲ種ユ。其麦不熟ニシテ食スヘカラス。是ニ於テ炭ヲ焼キ薪ヲ伐ルコトヲ業トス。其子善右衛門二至リ夏ニ農業ヲ専務トス。子孫皆善右衛門ト称シ其業ヲ継ク。」
双方共、北海道巡回紀行(明治19(1886)年,青江秀)より。
なかなか農業は苦戦の模様。
・乙部町…
「慶長5年頃(1600頃) 当地ハ慶長五年頃移住民渡来シ初メテ開墾ヲナス。然レトモー戸二畝歩ニ過キス。往時ヨリノ人民ハ皆漁業を専務トス。」
北海道巡回紀行(明治19(1886)年,青江秀)より。
基本的生業は漁業で、補足的に畑地を営む感じか。
と、ここまで引用したが、東公嶋渡りの15世紀から話が出始めて、松前藩成立前でも北陸,東北の各地から移住をしている様だ。
単に農業を営むと言うよりは、漁業や木樵や鍛冶、炭焼きらとの組み合わせをしながら開墾を進めた感じか。
明治の青江秀の調査によるものが多いので、各家に伝わる話を纏めたのだろう。
②1603年(松前藩成立)〜1640年(Ko-d(駒ヶ岳噴火))前迄…
・松前地…
「元和6年(1620) これ〔鮭の漁獲〕こそは松前殿がその士達に給する知行であって、松前近くの河川を彼等の間に領ち与えますから、そこで漁れる魚が乃ち彼等の収入となります。何故かというと、蝦夷には莢菓と稗以外には米または野 菜の田畑がないからでございます。」
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/18/200305
「ゴールドラッシュとキリシタン-31…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる②」…
これは正に北方探検記のカルバリオ神父の報告。
「寛永年間(1624~44) [52] 兵次郎ト云フ者、今ノ濁川村ニ畑ヲ開キ稗・栗・稷三種ヲ播ス。」
開拓使事業報告第2,3編(明治18(1885)年)より。
他の部分を見るとどうやら現北斗市清川の様だが…
実は確認したかったのはこれ。
「北斗市歴史年表」 Web版 によると、
「寛永年中(1624~1644年) 濁川村に木村兵次郎なる者、因幡国邑美郡鳥取より4戸で移住し、畑7反歩開墾し稗、粟、大豆を播種する。」
とあると教えて戴いた。
何をベースにしているのか?知りたかったので、眠っていた「近世蝦夷地能作物地名別集成」 を開いてみたと言うのが本当の所だったりする。
鳥取からの移住者である。
これは鉱山の事例だが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519
「ゴールドラッシュとキリシタン-26…「院内銀山」は全国区、そしてそれを支えるネットワークが出来るのは必然」…
この時代に民衆レベルでは、かなりの数の人口移動があったのは確かだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558
「ゴールドラッシュとキリシタン-32…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる③&まとめ」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
「日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…
1639年の島原の乱や1672年の北前船(西廻り航路)就航以前で、既に商業ルートの廻船は行われていた様だ。
アンジェリス&カルバリオ神父の報告数を真に受ける訳にはいかないが、それなりの人口移動はあったであろう事は想像に易しい。
これらは断片でしか古文書上に出てこないだろう。
で、何故これが気になっていたか?
主な火山灰の年代…
……… 慶長三陸津波 1610
Ko-d 駒ヶ岳 1640
Us-b 有珠山 1663
Ta-b 樽前山 1667
Ko-c2 駒ヶ岳 1694
Os-b 上 渡島大島 1700
乙部層 奥尻神威岳 1725
Ta-a 樽前山 1739
寛永年間なら、丁度1640年のKo-d降灰直前〜直後だから。
「享保8年(1723) 木村辰之丞八陸中国南岩手郡盛岡ノ人。享保六年二月函館在亀田郡有川村へ渡航………………享保八年四月同郡濁川村(今ノ清川村)ニ移住,農業ヲナス。然レトモ当時人口僅少土地開ケス。季候順ナラザルヨリ農ノ利漁二如カサルヲ以テ,同十三年茅部郡鷲木村字蛯谷古丹(今ノ蛯谷村) 二移住シ練差網ヲ業トス。」
北海道巡回紀行(明治19(1886)年,青江秀)より。
80〜100年飛んでいる。
さすがにここまでの間空白と言う事はないであろうが、何年位で農耕復活出来たものか?を知りたかった。
ちょっとこの空白は長すぎるなと言う印象。
まぁ現実には、古文書として記載されるか?自体が不確定要素ではあるが。
③1640年(Ko-d(駒ヶ岳噴火))〜1667年(Ta-b(樽前山噴火))迄…
・浦河町カネカルウシナイ…
「寛文年間(1661~73) シトナ〔西川],此水至て清冷にて鮭多しと。此沢にカネカルウシナイといふ寛文年間まで金を掘し跡多し。また此山盛なる比は金丁(かねほり)共余程に此辺に移住致し畑を開きし由。今に其跡多し。」
地味に登場した松浦武四郎である、というかとうとう東蝦夷地側の記述。
但し、浦河は様似の手前。
Ta-b〜Ta-a迄の火山灰被覆はされているハズ。
彼は何を以て寛文年間の畑跡と判断出来た?…少なくともそれが寛文年間のものでは無くとも、彼が砂金掘りと畑跡を見たのは確かなのだろう。
④1667年(Ta-b(樽前山噴火))〜1700年
・江差町中網…
「延宝年間(1673~81) 当村〔小黒部〕字中網ニ於テ,秋田地方ヨリ移り来ル伊 之助ナル者初メテ畑地ヲ開キ,其節試ミニ菜物或八大豆等,僅カノ種子ヲ播タル 二地味二適当シ之ヲシテ漸次反別大二増ス。」
夏原律太郎戸長記録(夏原律太郎)より。
津軽や南部の記事が多いが、秋田からの移住も一応挙げておこう。
と言うのも…
・阿寒町…
「 元禄7~9年(1694~96) 元禄七年春,出羽国農学家佐藤不昧軒門人伝長, 阿寒山下ノ地ヲトシ水田ヲ開クモ五月下旬ナル故カ,早稲種子ヲ蒔付シニ気候已二寒冷登熟二至ラス。十五坪ノ地僅二籾六七合ヲ得タリ。翌八年四月下種シ,六月上旬植付シニ晴天少ク気候殊ニ冷ナルモ収穫ハ前年二倍ス。同九年八気候順ヲ 得収穫前年二三倍ス。」
開拓使事業報告第2,3編(明治18(1885)年)より。
なんて話があったりする。
これ、秋田の羽後町の農学者である佐藤信景が著し、孫である佐藤信淵が校正して出された「土性弁」に記述があるようだ。
ただ、これはこのまま真に受ける訳にはいかない様で。
佐藤信景が実験的に阿寒でやってみて成功したので松前藩に報告したら、所払いを食らったと言う話があるが、松前藩の方に記録が無く、やった痕跡も無いとか。
じゃ何故、わざわざ信景はそんな記述をしたのか?って事にもなるのだが。
いずれにしても、開拓使が成功例として開拓者へ伝え、心の支えに使ったのは確かだとか。
佐藤氏は元々、中世小野寺氏に仕えていたとされ、医者であり農学者だった様で、信景の子である信季も同様、信淵はWikipediaではあるがこんな人物。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5
・函館市亀田…
「元禄5年(1692) 東部亀田にて作左衛門と云もの新田を試みけれど二、三年 にして廃したり。」
松前広長は松前藩家老で「松前志」「福山秘府」を著した人物と。
①で函館の亀田はいきなり登場するが、やたら辛口である。
この辺の1700年前後は割と雑穀類が上手く採れないのか、夜逃げっぽい記事や不出来と言うのがポツポツ見える。
「元禄13年頃(1700頃) 西部江差にて新田を開発せしかど、幾程もなくすたれたり。」
記録が多い道南周辺をざっと見ていると、この④辺りで実りが悪くなるのか。
気候か火山噴火の影響か?
食料不足の為に、北陸へ打診したが上手くいかず、南部藩に無心等…無い袖は振れない時期の到来なのか?
・松前地
「宝永7年(1710) 一、松前近辺の在々は志摩殿家来領地に割渡有之候。尤畠作少々仕候得共、年貢は納不申候。一、栗・稗少々作り候由。其外の穀物土地に 応ぜず候。大豆・小豆・大角豆・瓜・茄子等近年少々宛作り候由。近き頃、津軽 領の百姓罷越願候て三年田作仕見申候所,草生能候得共會て実入無之候故打捨罷帰候由の事。」
・室蘭市絵鞆他…
「正徳5年(1715) 蝦夷地にも所により栗を作り申候。東はオシヤマンペ、ノタへ、ウス、エトモ、シラヲイと申辺の者、粟を作り申候。併し漁猟の業を第一 に仕候故、粟をば少しづつ作り申事に御座候。鋤、鍬の類不自由に御座候。」
1600年代後半に一度廃れた農耕は、1700年代前半から少しずつ復活の兆しが出てくる様だ。
また、少しずつ知行地割譲らが広がってくる様子も。
同時に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
「生きていた証、続報27…室蘭市史に記された、北海道の駅逓制度の始まりは江戸初期」…
駅逓制を開始すべく道路整備らを行い、知行地間の往来が簡単に出来る様にしようとはしていたと。
具体的な農業振興策は代々の藩主の中でも進めた方も居る様だが、細かい部分では場所請負制開始から委託した請負人や支配人への丸投げ状態になり、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
「松浦武四郎が記す「請負人と番人の悪虐非道」…だが、背景的にはどうなのか?」…
莫大な運上金支払いの為に漁業特化で農耕禁止臭い話にする者も居れば、自ら鍬を振るう者も出たと。
積極的に農業振興をした藩主を除けば、むしろ願い出て移住した者や場所支配人の考え方、つまり民間主導が主だった事になるのではないだろうか?。
如何であろうか?
資料集成から見た印象は、
・北海道で農耕が近代迄行われていなかった訳ではなく、他の生業に付加して行う者も居た。
・近世では移住者を中心に、民間主導で短期の成功と荒廃を繰り返していた。
・1600年代後半〜1700年代前半で一時かなり薄くなる。気候や火山噴火の影響か?
こんな感じだろうか。
ここで…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…
上記に貼った、Ta-b直下で森町〜八雲町〜伊達市に検出されたこれら畑跡を作ったのは誰か?
民間主導で且つ、最上徳内の記述、持ち込まれた道具(鉄の鍬先ら)を重ね合わせれば、蓋然性が高いのは他地方からの移住者になるのではないか?
しかも近代に至るまで、こんな話は解らなかった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
「地質学,地形学から見た北海道歴史秘話四題…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…
地質的な問題や、たまに書いている「高低差で簡単に水が引けなかったのでは?」と言う疑問。
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/210633
「「北海道移住団」に、退路無し…「飛島村史」にある「移住団請願書」とは?」…
明治に国策で一気に進められたとされる北海道開拓だが、中〜近世迄の農耕の流れを見れば、簡単に進んだ話では無かった事は解るだろう。
謂わば、わざわざ秋田迄船で穀物を入手しに来ていた擦文文化期からの「千年の悲願」を達成させたのが明治の開拓。
自ら耕した農作物を食べ子供を育てる事が出来る様になるまで千年掛かったと思えば、その価値の深さも解ろうもの。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
「北海道開拓は明治政府?江戸幕府?松前藩?、「否」…「蝦夷日誌」に記される、場所支配人,土地の民衆,出稼や移住者達の総力で行われた姿」…
故に松浦武四郎は、武士も支配人も土着民も出稼ぎ者もなく総力戦で開拓を進める姿を見て、両手離して喜んでいたのではないのか。
自らを北海道の土着民だと言うなれば、先祖からの「千年の悲願」の重さも解るだろう、土地に血と汗と涙が染み込んでいるのだから。
まぁ、各農業政策との整合はまたの機会で。
それは数多論文が出ているであろうし。
当然なのだ。
河野広道博士も高倉新一郎博士も元々の専攻は農学博士では?
参考文献:
「蝦夷草紙」 最上徳内/吉田常吉 時事通信社 昭和63.9.25
「近世蝦夷地能作物地名別集成」 山本正/菅野富夫 北海道大学図書刊行会 1998.6.10
「北斗市歴史年表」 Web版