北海道弾丸ツアー第三段、「千歳篇」…「キウス周堤墓群」は土塁の如し、そしてまとめ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

残り少なくなった時間をどう使うか?

筆者は、千歳の「千歳市埋蔵文化財センター」へ向かった。

目的は、厚真でご教示戴いた「黒0」の土層を見たかったから。

縄文関係の展示は色濃いし、パネルらも解り易く、見応えのあるものなのは間違いない。

が、残念ながらその土層の展示は見つけられなかったので、敢えてここででの報告は割愛する。

そこで、ここでもかなりのスペースを割いていた「キウス周堤墓群」の現地を見る事にした。

弾丸ツアー第一弾で脇を通過して見損ねたのが大きい。

使える時間は大凡15分。

これで北海道〜東北縄文遺跡群の内、9/16箇所目になる。

さて、キウス周堤墓群は構成要素の中では最終期「定住の成熟期」に当たる。

以前から言っているが、このの表は大事だと言う。

理由は、何故縄文期のここが一括りで登録されたのか?に起因するらしい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/180604

文字が無い縄文期。

各地で縄目紋様が施された太古の土器は見られたが、どんな風に変遷したか?らは掴みどころがなかったそうだ。

ここで、直上の底が平らで円筒形の土器が注目される。

周囲が底が尖る土器を使っていたのに対して、南北海道と北東北のみで出現する円筒式土器の文化を持っていた。

研究が進むと、この文化圏のみで、他の地域と交流しながら早期→晩期迄の遺跡が全て揃い、どの様に縄文期の生活が変遷するか?を解明するに至ったそうで。

それを説明しているのが、先の表。

狩猟,採取を生業としながら、定住開始→定住発展→定住成熟へ…のの解明がキモ。

仮に移動したとしても、そこに土着、子を育て生活し、ストーンサークルや周堤墓を作るに至るって事に。

ここを回る時に、筆者はそれを意識する事にしている。

さて、キウス周堤墓群。

正直、見てみて驚いた。

これ2号墓。

入口で壁と言われたが…

これが周堤の切れ目から…

それもそのはず…

この周堤の「壁」、外側で2m、内側の墓から5mの高さになる。

ぶっちゃけ、外目から見てみて、ちょっと低めの土塁をイメージすると解り易い。

最大径にしても、最大級の1号墓は、

80mを超す。

全体像は、

こんな感じ。

それもそのハズ。

「北海道の生き字引」と言われた「河野常吉」氏がこれらキウス周堤墓群を当初チャシと報告したそうだ。

なんて言うと、イメージし易いのではないだろうか?

事前の千歳市埋蔵文化財センター

に出土品展示がある。

4号墓は目印?の石柱があったとか。

一周堤の中に複数の墓があるらしいが、全体で完掘りはしてないとかで、何の位あるかは未知数。

 

筆者にとって縄文の遺跡,遺物はクールダウンの素。

あまり深い突っ込みはしてはいない。

16の遺跡の中の9しか回っていないが、ここは驚いた。

今の所は、

先祖たる縄文の息吹を感じるなら…

大平山本遺跡

不思議さと神秘性なら…

大湯環状列石,伊勢堂岱遺跡

家族の笑い声が聞こえる生活臭を感じるなら…

御所野遺跡

そして、ダイナミックな動きを見るなら…

ここ、キウス周堤墓群…だろうか。

全遺跡の出土品全てが癒やしになっているのは言うまでもない。

楽しみは、それぞれである。

 

さて、クールダウンしたところで少しまとめてみよう。

今回も濃厚な学びになったと思う。

 

特に、

①土層についての捉え方

②アイノ文化展示の品々の時期や意味

③様似の町の雰囲気ら

これらが学べた事は大きい。

 

土層の方は、結局あちこちの話や報告書を見ても、中世らは厚真か千歳しか話が出て来てはいない。

まずは発掘調査報告書で、厚真や千歳の見識を増やそうと思う。

 

アイノ文化展示は、平取篇の通り。

無いものは無いし、見られぬものは見られないし、空白があるのは間違いないし、混ざるものは混ざる。

そして、それが現在進行型で(敢えてアップデートと報告したが)変質してるのも間違いはない。

これが現実。

 

様似はまた訪れたい。

今度は東金山金鉱やキリシタナイにテーマを絞り、学びにきたいと思う。

 

この場で改めて、

厚真町平取町、様似町、新ひだか町千歳市であった全ての方々と資料館らでお会いした皆さんに感謝致します。

そして、時間を与えてくれた家族含めた皆にも感謝したい。

良い学びが出来ました🙇

 

また予習しつつ旅に出たいと考える。