https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/08/194417
これを前項として。
これは近世,近代に外国人に「盗掘」され、埋葬された人骨が持ち去られた事例…考え様によれば、学術調査とトレジャーハンティングの境目は何処までで、死者への敬意をどう考えるか?と言う問題迄突き付けられる。
毎度言っているが、信仰が現在信仰形で行われている場所の発掘なぞ問題外だし、学術と言えども死者への敬意は持つ必要はあると、筆者は当然考えている。
実は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
厚真の一部展示を見学する場合、アイノ式の拝み方で死者への敬意を表す様に求められる。
当然筆者も行い、学びに来た事を伝えた。
同時に直後、筆者なりの敬意の示し方も行う。
黙祷又は合掌しながら南無阿弥陀仏…これは疑切支丹墓でも同様。
伝わるかは解らぬが、自らの意志でやる敬意の示し方も必ずやる事にしている。
筆者はオカルト的興味でお墓に対峙している訳ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/23/142810
自らの意志でお墓に教えをこいに来た事を挨拶として伝えるのは、筆者的に抜けない儀礼でもある。
さて、本題に。
所謂、近世アイノ墓を最初に暴いて国際問題化したのは外国人達であった事を前項で書いた。
墓参習慣が無かったとの記述は残るが、そこはリアルタイムで墓域として信仰対象として扱われる場所を掘るのは如何なものか?…眼の前の先祖の墓を暴かれて、気分の良い者は居ないだろう。
だが、葬送文化が学術調査として如何に大事な要素なのかは言うまでもない。
なら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
こんな事例はないのか?
末裔が納得した上で発掘を行うケース…実はある。
一次,二次で2度行われた発掘である。
それを報告する。
さて、コタン側から「死者への敬意」で学術側が叩かれた経緯はある。
なので、この発掘が行われた経緯をキチンと引用しておこう。
「紋別に所在するアイヌコタン(アイヌ民族の集落)は、いまのところ寛文10年(1670)「津軽 一統志」に「しょこつ村 アイヌ人 200人ほど大将マツタロー、まふへつ村 アイヌ人100人ほど 大将クヘチャイン」と記されたのを最古とする (津軽藩 1670) 「しょこつ村」は紋別市街の北部に流路をもつ渚滑 (しょこつ) 川河口に、「まふへつ村」は同じく東部に流れる藻別 (もべつ)川河口に栄えたコタン (集落) であるが、この時期の文化形態生活、生活、墳墓については明らかでない。
今回、 移転改葬事業の対象になった旧元紋別墓地は、かって「まふへつ村と記録されたモベッコタンに伴う現代の墳墓であるが、 永年、 元紋別コタンに居住している畠山寿男支部長 (当時。北海道ウタリ協会網走地区紋別支部~以下「ウタリ協会紋別支部」と略称する)は、「使用開始は明治17年頃からであり、コタンの人々の共同墓地として利用されていた。埋葬はほとんど土葬であるが、 墓地内での火葬もあった」と述べているが、経緯を知る公的な記録がないために使用年代・規模、内容等についても不明である。
元紋別墓地が公設墓地として設定されたのは昭和29年 (1953)7月である。この年、紋別 (も んべつ)・渚滑(しょこつ)・上渚滑 (かみしょこつ)の3町村が合併して新「紋別市」が誕生をした。 新市発足による各種条例の整備作業は、短時間のなかであわただしく行われたといわれ、 通称 「元紋別墓地」と呼ばれる墓地についても、同年10月紋別市墓地条例制定をきっかけに測量等もなく通称のまま元紋別墓地 (紋別市元紋別11番地) として正式に条例制定がなされた。しかし、当時から遺体処理は土葬形態から火葬形態に移行し土葬による埋葬がなされなかったことから、墓地はいつしかクマエザサや雑草が密生する区域になっていた。
近年に至り、元紋別地域に藻別川氾濫原を中心にしたオホーツク海と氷を生かした観光ゾーン「ガリヤゾーン」 計画が樹立され、ゾーン内に道立流氷科学センター、 温水プール、海底から流氷を眺めるオホーツク・タワーなどの各種施設の建設計画が推進されることになった。 こうした情勢の変化のなかで、 公設墓地を管轄する市担当課では「周辺の開発が早いテンポで進むなかで、 元紋別墓地が取り残されることは環境上好ましくなく、ましてや荒れ地のままでは被埋葬者に対する冒涜にもつながりかねない」として、その善後策として元紋別地移転改事業の是非について意見を重ねていた。時を同じくして昭和63年(1988)4月、北海道ウタリ協会網走地区紋別支部から 「アイヌ民族共同墓地の整備要望書」が提出された。
「元紋別墓地は、明治17年頃から昭和18年頃まで現在の元紋別11番地に、私たちの先祖が埋葬されておりました。 どのような経緯でウタリが墓地に使用していたのかは、定かではありませんが、埋葬方法はほとんど土葬で、なかには墓地内で火葬し埋葬したものもわずかにあります。最近では、この墓地はその態様がなく笹やぶになっていることから、 昭和48年、昭和55年、昭和59年と移転改葬について申し出てきましたが、現在に至っております。また永い年月の間には、転居、転出や世代交代が進み次第に部落は荒廃し、時の経過と共にいつしか無縁仏がみられるようになりました。 このような実態にありますことから、墓の荒廃や無縁仏等をこのまま放置しておくことはできません。ウタリ協会紋別支部は、これらの件を踏まえ次の事項について、紋別市長に対し要望いたします。私たちウタリの力をもってしては、とうてい実現不可能なことなので、なにとぞご配慮を切にお願いいたしたく、元紋別墓地ウタリ関係者を代表して、ウタリ協会紋別支部役員一同連名にて要望いたす次第であります。 ①元紋別墓地の移転改葬について ② 無縁仏に係わるウタリ共同納骨堂の建設について ③跡地利用については公園 化等環境整備をはかる (以下役員名)」とするもので、 紋別市は本要望書に理解を示すとともに、さっそく元紋別墓地移転改葬実施の方向で畠山支部長と協議に入った。両者間では、 ①アイヌ民族の宗教観の尊重をすること。 ②アイヌ民族文化としての習俗の理解と熟知をしている人を移転改葬担当者にすること。③移転改葬事業は敬虔な事業であるから、ブルトーザーなど機械力に頼らないこと。 ④アイヌ民族の霊魂に関することであるから、人手によりていねい に行うことの協議がおこなわれた。
市担当課は、それら事項をふまえて「公設墓地としての範囲確認」 「埋葬遺体の状態」について事前調査を行うことになった。この調査は特殊事業であることに鑑み、事業推進には常日頃文化財保護について深い理解と、さらに実践にあたり多くの経験を有する早坂工務店 (代表 早坂忠司) に受託をすることとし、あわせて学術技術面を含めて指導担当に紋別市立郷土博物館に業務依頼を行った。調査指導には因幡勝雄 (紋別市立郷土博物館係長)が担当した。事前調査は昭和63年6月11日から6月19日に畠山ウタリ協会紋別支部長の立ち会いのもとで行われた。その結果、墓地範囲は 「藻別川左岸丘陵の氾濫原(東南側)から傾斜面の上方(北西側) 向かう長方形に2,500㎡であること」、「確実に埋葬遺体が存在すること」などが明らかになった。
この事前調査結果に基づく紋別市旧元紋別墓地移転改葬事業 (第一次)は、平成元年9月14 から9月29日までおこなわれた。」
「紋別市旧紋別墓地移転改葬事業発掘調査報告書」 早坂工務店/タナカコンサルタント 1998.3.31 より引用…
これらを鑑みると、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/26/045821
タイミングが微妙な気もするが…
それは置いておく。
地方政治の話には関与せずが筆者のモットー。
さて、上記の様に、世代交代と転出らにより無縁仏や管理する者が居なくなった事での荒廃から、行政側の緑地公園化に対し、協会支部自ら移転依頼と配慮要請をとった様な形の様だ。
勿論、死者の尊厳、末裔の利益、町の再開発、全ての為、当事者皆の同意で発掘は行われる事になる。
ではその内容は?
まずは基本層序から。
Ⅰ層…表土層、黒色土が3~6cm
Ⅱ層…砂質黒色層が10cm
Ⅲ層…黒茶褐色層が10cm
Ⅳ層…黄茶褐色層が5~7cm
Ⅴ層…黄色粘土層…基盤層
以上。
墓壙調査で収容された遺体は96体に及ぶ。
内訳は、
・木棺長方形墓 14
・木棺座葬墓 2
・幼児墓 8
・海難者墓 1
・土壙墓 4
・露天火葬墓 2
・粘液状脂肪有機質 65
となる。
この中で、幼児墓と海難者墓は、先代から葬ったとの伝承があったとの事。
又、土壙墓は内部に粘液状脂肪有機質やキナ状炭化物は残るが、人為的埋葬かどうかは不明との事。
露天火葬墓は、細かい粉骨状になっているが、協会支部らから遺体として把握すべきとの「指示」が出てカウントしたとの事。
更に、調査者にとって粘液状脂肪有機質は初体験で、埋葬遺体の風化途上の「人の脂肪」として把握との事で、概ね棺内の1/2にベトリと詰まり、それを取り除き副葬の確認をする必要があったとの事だ。
二種あり、
①外気に触れなかった為密封され、ドロリとしている
②外気に触れた為に、解けたバターの様にやや固さがある
で、①は棺内、②は墓壙外で検出との事。
外気に触れた→重機による撹乱の様だ。
これは発掘に伴う撹乱ではなく、墓域そのものが元々何処までなのか?解らなくなっており、周囲の開発らで発掘よりかなり古い時期に撹乱されたものの様だ。
これら粘液状脂肪有機質は、風化過程、つまり人の遺体が腐り、土に戻っていく過程のもの。
このタイミングを逃せば、先祖の墓域がどの程度だったか?知る由もなくなる。
協会支部からは、それも出土一つにつき一体のカウントをする様に意見が出ている。
で、全遺体数96遺体のうち、粘液状脂肪有機質遺体を除く30遺体について発掘詳細が記載される。
事例を紹介しよう。
「1号墓 (第4図)
M6区で確認された。 被葬者N・Y。女∶享年37歳。 昭和2年(1929) 5月31日逝去。 木棺を使用した長方形の墓。墓壙の上に長さ170cm、幅105cm、高さ30~35cmの長方形の土盛りをもっている。 木棺の出土状態は完全な形である。土盛りを除くと、その下部の深さ10cmに棺蓋があ り、第3層上面から掘り込んだ墓壙である。 棺長164cm、 棺幅45cm、 棺の深さ28cm。棺内の南端に近く頭骨の一部、やや離れて上腕骨および下肢骨の一部が残っている。このことから頭位が南の仰臥伸展葬であることがわかる。 棺蓋が棺内にめり込み、その上に青白くどろりとした粘液状脂肪有機質がたまっており、さらに蓋を取ると底面にも7~10cmの深さで溜まっていた。」
副葬
・玩具 1 セルロイド製
・五銭硬貨 1
「3号(第4図)
L7区で確認された。 被葬者O・M。男:享年68歳、昭和11年(1936) 1月21日逝去。木棺を使用した長方形の墓。墓壙の上に長さ220cm 幅130cm、高さ30cmの長方形の土盛りをもつ。木棺の出土状態は完全な形である。 棺長160cm、 幅50cm、深さ27cm。 棺の南東側に頭骨の一部、やや離れて上腕骨・下肢骨の一部が残る。 頭位は南東、仰臥伸展葬である。 棺内に7 cm厚みで粘液状脂肪有機質がたまっている。 墓壙は棺の大きさに第4層を掘り込んでいる。 木棺の東南端から60cm離れて、 直径10cm、深さ30cmの方形の穴を検出した。 墓標穴と思われる。」
副葬
・マキリ 1
※刀身長13cm・刀身幅2.5cm・柄長12cm・鞘18cm・鞘幅5cm
刃は片刃でやや反り身。 鞘に文 様はないが、×印が刻印
・縛り膳 1
木枠膳に朱塗木腕を1個伏せである
「紋別市旧紋別墓地移転改葬事業発掘調査報告書」 早坂工務店/タナカコンサルタント 1998.3.31 より引用…
この様な感じで30遺体の詳細が、古墳や土壙墓の発掘同様に記載される。違いがあるなら、粘液状脂肪有機質が有るか?無いか?だろうか。
上記の様に、協会支部側で被葬者が解る墓と解らない墓はある。
以上が一次発掘。
では二次は?
経緯から。
「第一次移転改葬事業を終了したことにより、 公設墓地 「元紋別墓地」は消滅したことになる。 旧公設墓地の北西側境界は、 丘陵上部からの堆積土砂による崖面裾までである。 よって第一次調査では堆積土砂による盛土した部分の調査はしていない。この盛土となっている土地は、大成漁業 (株式会社) 社有地になっている。
平成8年7月17日、この盛土部分の東南側が幅10m、長さ46m (460m²) の規模で排土除去された。これに対し北海道ウタリ協会網走地区紋別支部(支部長 畠山 敏) から 「旧元紋別墓地に接続している土地であるから、埋葬遺体が存在する可能性が高いので調査を要請する」 と市担当課に通報があった。 担当課は急ぎ土地所有者と除去作業者に事情説明をし、理解を求めるとともに排土作業の中止を依頼、 第一次調査時と同様の事前調査を紋別市立郷土博物館 (館長 因幡勝雄) と早坂忠司 (業務担当)に依頼した。 事前調査は平成8年10月15日から10 月21日に終了、 埋葬遺体の存在を確認した。
盛土面積は全体で4,413㎡であり、今回、そのうちの460㎡が排土除去されたことになるが、 市は残面積について独自で全面除去し、その上で紋別市旧元紋別墓地移転改葬事業をおこなうということで、土地所有者の大成漁業とウタリ協会紋別支部間で協議をすすめ、埋葬遺体の慰霊という次元の元で協議が成立し、翌平成9年9月9日から10月31日までの期間で第二次紋別市旧元紋別墓地移転事業を実施した。
なお、事業名については、すでに公設墓地 「元紋別墓地」 名がないことから、 第一次および第二を合わせて「旧元紋別墓地」と呼称することとした。」
「紋別市旧紋別墓地移転改葬事業発掘調査報告書」 早坂工務店/タナカコンサルタント 1998.3.31 より引用…
先の事業に隣接した、企業社有地ではあるが、工事が行われた事で、墓地が伸びていないか?協会支部からの「通報」で工事をストップさせ、発掘らを行っている。
一度やれば、当然二度目も有り得る訳で。
二次については隣接する民有地(上記社有地含む、B調査区)、市有地(C調査区)に拡大し、一次の倍の規模で調査を行っている。
基本層序は、前の部分に20〜50cmの覆土層が追加されるが、この覆土層は基本層序へカウントはせず、あくまでも工事による覆土というスタンスで除去し発掘を行っている。
結果的には墓壙検出はB調査区のみだった様だ。
墓壙調査で収容された遺体は214体。
内訳は、
・木棺長方形墓 14
・木棺座葬墓 7
・木棺箱葬墓 16
・土壙墓 7
・粘液状脂肪有機質 170
である。
民有地として使用されていたからか、一次調査の様に完形で検出される事はほぼ無い様で、木棺は殆ど破壊痕があるとの事。
一つ先に。
この発掘で協会支部側で活動した畠山支部長は一次調査の報告書を待たずに故人となられ、途中から始まった二次調査では新任の畠山支部長が活動した。
そんな経緯から、二次調査でも先代畠山支部長の意思を尊重し、粘液状脂肪有機質はご遺体一体としてカウントされている。
先に小括から、一次,二次調査での傾向を見てみよう。
「Ⅲ 小括
この事業は紋別市田元紋別基地移転改事業であるが、当時、畠山寿男支部長(故人: 北海道ウタリ協会網走地区紋別支部)から、「これを契機にアイヌ民族が保有する文化のうち、葬制にかかわる内容の一部を明らかにし後世に伝えていきたいものである」というお話があったが、その約束も果たせず今日に至ってしまった。今後何らかの機会に前支部長との約束を果た すことを約し、ここではその内容の一端を小話してまとめに代るものである。
旧元紋別墓地の使用年代について、畠山寿男氏は「明治17年頃~昭和18年頃まで」と述べた。 第一次調査において氏名、没年、年齢が明らかになった墳墓は、成人で1号墓 (N・Y37歳,女性 没年 昭和2年)と3号 (O・M 68歳,男性 没年昭和19年) がある。その他幼児墓の4号墓 (女 1歳 昭和19年) と5号墓 (女 1歳 昭和23年)がある。 その上限については、土葬埋葬をした事実をもって昭和2年(1号) まで遡のぼることができるが、副葬品の種類などからしてこれをあまり大きく上回らない時期、 大正末期頃と考え、さらに下限につ いては、昭和23年の土葬埋葬をもって終期としておきたい。
墓地は「部落に近い山の中腹あるいは丘陵上」 久保寺 1969)、 「森のなかの遠く離れ、隔離された場所」 (J.パチラー 1995) につくられるなど、集落地から離れた場所が選定されることが指摘されている。しかし旧元紋別墓地は集落地と墓地の距離が、わずか北西に10m範囲内という至近距離にある。 現代という時間差のなかで形成された墓地であることから、「集落から遠く離れる」という考えが薄らいでいるのかも知れないが、そうであるとすれば、「一定 の隔離された場所である墓地」がどこかに存在していたことが考えられる。
藻別川と支流元江川 (テレケウシナイ川) が合流し、両川に挟まれるように三角形状の、標高5~10m前後の丘陵が海に向かって伸びている。 この丘陵の先端部は、国道造成や地域開発のために掘削され形をとどめていないが、掘削部のやや背後はゆるやかなスロープとなり、現状は牧草地になっている。 字名は「栄部落」というが、この丘陵上に 「元紋別部落の旧アイヌ墓地から鉄刀一本、刀子1本、銅鍔1個が出土。いずれも桃山期以後江戸時代頃のもの」 とする墓地があったという(河野 1960)。 栄部落の丘陵は、元紋別コタンからすると南位にあたる。 また、安政5年(1868) 蝦夷探検家松浦武四郎は、モベツコタンの村おさサントアイノから「その地(モベツコタンの位置)からやや南方にある父親エトナウの墓のほうを拝む」 という聞き取りをしている(松浦 1868)。サントアイノの父親エトナウの埋葬地が、河野がいう栄部落旧アイヌ墓地であるとすれば、江戸末期のモベツコタン墓地は、集落地から離れた場所に存在していたということになり、現代になって集団墓地にたいする考えが変移したとい うことになるのかも知れない。
また、アイヌ語地名テレケウシの語源はいつもそこで皆が踊る場所という意味であり、これも古代の祭場であったとみて差し支えない」 といわれている (知里 1953)。 紋別アイヌ語地名解では「いつも飛び越えていく沢」と訳されているが(更科 1960)、川幅は非常に広く、 飛び越えていくような簡単なものではなく、やはり知里説が妥当なのであろうが、それではど のような踊りであったのか、飛び跳ねるような踊りであったのか。 それが元紋別栄部落の旧アイヌ墓地と古代の祭場とのかかわりで、どのようなことであったのか、これらは今後の究明を 待たなければばならない。
残存により埋葬頭位が明らかなのは、第一次9棺 (1、2、3、7、9、16、19、22、 28号墓)、第二次1棺 (11号墓) である。その内訳は南位2 北位3 南東位4、北東位1となる。 まちまちな結果であり、一定の方向性を見いだすことができない。 おおまかにみると、 全体的にまたは南を向く傾向がある。直接関係はないのだろうが、その方向に元紋別栄部落の旧アイヌ墓地 (先祖霊) が所在するからであろうか。北位が3棺あることについては、そ の意味するところを知ることができなかった。 第一次調査で検出した28号墓について、他の事 例を知らないために、具体的に聞いてみたが畠山寿男氏は「知らない」といい、昔から「魔除け」というものがあったといい、それきりご教示を得ることができなかった。 疱瘡などの病悪霊」を閉じ込めたこともあり得るが、それ以上はいいかねる。
アイヌ文化の埋葬はキナ (ござ)に包んで土葬をするが、 旧元紋別墓地における埋葬は、ほとんどが木棺を使用している。 木棺の大小は身長および体格の肥瘦など個人差もあり、その大きさもまちまちであろうが、成人墓でおおまかに棺長160~170cm、 棺幅30~50cm、棺の深さ20 ~30cmが本墓地の大概である。
本墓地の地層厚は、表土から第4層まで数えてA調査区で28~33cm、B調査区で28~50cmである。その下は丘陵の基盤層である粘土層 (第5層) であるが、座棺葬墓および骨箱形を除き第5層を掘り込んで墓壙を掘っているのは少ない。ほとんどは第3層ないし第4層から掘り込むことから、結果的に浅い埋葬になっている。 この地に過去ブルトーザーが入ったことが想定でき、その段階で木棺のほとんどが消失し数cmの横板と底板が、あるいは棺の底板だけという 形になったものであろう。地層の堆積層が浅いというよりも、もともとの埋葬墓壙が浅く掘られていることに留意すべきであろう。 豊原司氏は厳冬期の道東部、とくに標茶町の冬期間の埋葬について、地面の凍結はツルハシも入らなくなる。 シッタップ (土握り具)などではとうてい墓壙は掘れないという全道事例を網羅して考究し「葬ることにより、霊は抜けて骸のみが残るということになる。墓壙を掘って、掘った土や木の枝や割り板を用いて埋葬する形態が、 寒冷地の厳寒期においては、幕を掘らず (掘ることが不可能であるため) 被葬者をそのまま置いてその上に木の枝で覆うという埋葬を行ったことは十分推測できる。 (中略) 要するに被葬者が見えなくなる、あるいは隠れてしまう状態」(豊原 1998) の埋葬形式が存在したのではないかという考えから、氏はそうした形式について 「地上葬」 と概念をした。明治12年 (1879) 開拓使属酒井忠郁が全道を巡行し、各地のアイヌ人に風俗習慣について聞き取り調査をしているなかから、 網走と紋別の葬送の部を見ると(河野 1984) 次のようにある。
① 網走村コタンバケ 和名上野広造の説
「人死すれば、その人の所持せし上等衣及び脚半小手を着せ、筵 (むしろ)にて包む。(但し、包みて木にて造りし針を以てつづり合わせる) 之を方言ケイチと称す。 凡そ今夕死せ 明朝、今朝ならば即日埋葬なり。親族相集り六尺に三尺、 深さ一尺五寸位の穴掘り死 体を横に納め土覆ひその上に木を重ねるのみ (後略)」。
② 紋別村キケニシハ 和名大石蔵太郎の説
「人死すれば埋葬網走に同じといえども、土を覆わず、男は煙草入れ、椀、盃。女は飯櫃 鍋等を共に送る。また往昔は焼家なせしが今は穢物を焼き捨てるのみ」
児玉作左衛門氏は、八雲・ユーラップの例をあげて、墓壙の深さは 「30cmほどの深さで、被葬者を入れるだけの大きさと深さがあればよいとされる。 その理由として、その上に柴や船板 を載せ土を盛る」としている(児玉 1936)。 これなどはまさに旧元紋別墓の墓壌の浅さに通じるものがあり、キケニシハがいう 「土を覆わずその上に木を重ねるのみ」 は、まさに地上葬そのものを想定できるのである。 ただ、豊原氏は道東部の冬期間と前提をしたが、 通年を通しての古い時代の埋葬について、 地上葬が主であったかも知れないということを考え、もっと資料の集積をはかり後日論じてみたいと思っている。いずれにしても和人との交流がはじまり、 葬制も土葬から木棺使用に変容したのであるが、 民族独自がもっている 「人を送る」「霊を送 る」 という葬制規範のなかにあるいくつかのうち、 地上葬的要素が本墓地に残影しているといってもいいのではなかろうか。」
「紋別市旧紋別墓地移転改葬事業発掘調査報告書」 早坂工務店/タナカコンサルタント 1998.3.31 より引用…
と言う纏めをしている。
如何せん事例が少なく、なかなか推定の域を出ない様だ。
故に、全道の状況を引っ張る事で必然的に一様な考えにならざるを得ない様に見えるのは筆者だけだろうか?
さて、考察してみよう。
一点目として、上記の様に今回の発掘での墓所運用期間は当初明治17年~記録に残る最終埋葬の昭和23年とされてきたが、副葬から推定されるに遡っても大正若しくは昭和初期~昭和23年迄となる。
この段階で、元来言われる「墓域と居住区は離れる」と言う伝統風習は最早崩れていたのは事実として否めないであろう。
先んじた松浦武四郎や河野広道博士の記録からと今回の発掘からその辺は明らか。
二点目として、布(キナ)で包み埋葬、これもここでの発掘では木棺が殆どである事から、従来から伝承される埋葬方法とは差があるのは上記の様に事実。
一般にイメージされる葬送方法は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033
こんな感じだろう。
なら時代背景を与えてみよう。
この辺が土地利用についてのプロセス。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/08/204935
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/10/093212
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
また、オホーツク地域の特異性、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/02/131535
ゴールドラッシュでの人口インパクト。
また、この地方での宗教施設の拡大はどうだろうか?
この位の時期なら、何せジョン・バチェラーが、一部でカトリック教徒を獲得している。
これら背景を加味すれば、開拓使や道庁の政策含めて、葬送方法の同化過程と見る事も出来るかも知れない。
特に宗教教化されれば、アイヌブリな葬送より自ら帰依した宗教方式をとったであろう。
また、本州から渡った者がこの中に混ざって居ないのか?…これらは『データベース』の確認が必要だろう。
合わせて、ここ紋別では、旭川市近文の様な「人工古潭」の造成が無かったか?だ。
こうなれば、当初設定された居住区や農地、墓域らは記録に残るだろう。
ただ、大正,昭和初期ならば、既に明治では人工古潭への移住は終了しているであろうから、発掘された墓域は「移動後に開かれた」可能性も出てくる。
この辺を解明していけば、何故居住区に近い墓域が存在し、何故木棺ら葬送方法が古来伝承と違うのか?らも解明出来てくるのではないか?と考える次第。
北海道の生き字引「河野常吉ノート」らにもこの辺の記載がないのだろうか…?
次は個別の発掘調査について。
運用期間のズレはあるが、一部は先代の畠山支部長の説明通り、多様な葬送方法が行われていたのは事実である。
また、
・伸展葬…
上記の一次調査1号,3号墓
・座葬(27号墓)、火葬(24号墓)…
・箱葬…
・不定形な土壙…
引用にある特異例…
「28号墓 (第9図)
N5区で確認された木棺使用の長方形の墓。 木棺の出土状態は完全な形である。長さ126cm、幅34cm、深さ20cm。頭位は北。 仰臥伸展葬。 表土より約30cmの深さで上蓋を検出。 第4層上面より約10cm下から掘り込まれている。 人骨はほぼ一体分である。 推定身長は150cm前後であり、木棺の長さより大きい。 首を左に、両足は内側に強制的に曲げられ埋葬されている。第3層上面で、直径10cmの丸杭が検出された。杭は覆土の上から木棺に打ち込まれ底板まで届いている。このため木棺の上蓋は折れ曲がっている。 この杭は足元から70cmほど離れ左脇腹付近に刺さっていた。内部には粘液状脂肪有機質が堆積している。
副葬品…
・広口瓶 1
ガラス瓶 直径6.5cm 高さ13cmo 広口部直径は6cm。
・小菜瓶 1
ガラス瓶 直径6.5cm 高さ6.5cm 口部直径は1.5cm。
・血状鍋 1
腐食している。 皿状鍋で片口があある。
・鉄板小鍋 1
直径16cm。 深さ5cm。 耳が2対 ある。
「紋別市旧紋別墓地移転改葬事業発掘調査報告書」 早坂工務店/タナカコンサルタント 1998.3.31 より引用…
何の為に、木の杭を棺のど真ん中に刺す必要があったのか?
ここでは解らないとある。
まるでトドメを刺すが如しだが…
引用にあるように、木棺+伸展葬ならば頭位方向が解るかと思うが、案外墓の形やら葬送方法が多様で、ハッキリとどんな傾向なのか?解った訳ではなさそうだ。
これらも、上記、社会背景や宗教進出と重ね合わせてみる必要はあるだろう。
で、筆者の個人的な疑問…
この辺は、
江戸期…場所支配人らの日誌らは無いのか?
明治以降…行政文書として土地利用への記録らが残ってないのか?
だ。
何故、あれこれの文献が、松浦武四郎の記録に偏り引用されるか?が理解に苦しむ。
公式文書を何故引用しないのだろうか?
まぁ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
正直に書けば、旭川の事例での当時の行政側の杜撰さは解るだろう。
この紋別市の例でも、墓域の一部は、一般に売却され社有地として企業が使っていた。
この二次調査で、
・企業は事業が停滞
・行政は事業停滞と費用の掛り増し
・協会支部は先祖墓域の破壊
この時点で得をした者は居ない。
誰か責任をとったのであろうか?
まぁ企業へ売却されたタイミングが、旧土人保護法との兼ね合いで、個人的売買の可否が絡むであろう故に、簡単ではないであろうが。
この辺が不思議なのだ。
そして、昭和30年頃に収集されたコレクション。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354
丁度、この頃から高度成長期の息吹が芽生えはじめ、このコレクションらが寄贈され出すのが、正にこの墓所の最終運用時期の頃。
その辺は、他の事象と合わせ考える必要はあるだろう。
さて、連々と書いてきたが、筆者の本音を最後に…
筆者がこの発掘調査報告書を手に入た理由はただ一つ。
近現代墓の中に中~近世墓が混ざって居ないか?を知りたかっただけだ。
古来からずーっと定住していれば、余市の様に数百年単位で墓域は変わらないであろうと考えたから。
だが、結果は見事にハズレ。
近現代墓は近現代墓でしかなく、往古墓域から移動して、ここに埋葬される様になった事実しかない。
墓域は移動した。
なら、居住区は?
筆者的には、これが解れば充分なのである。
参考文献: