鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録、あとがき…なら、北海道事例「ニタップナイ遺跡」を見てみよう ※追記あり

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/17/090616

「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録…中世集団墓地「由比ヶ浜南遺跡」のもう一つの顔とは?」…

さて、前項で紹介した「ニタップナイ遺跡」… 

当然ながら厚真での発掘。

訪問時はあまり気にもとめなかったが、気になったなら確認してみる…これが我々のスタンス。

では基本層序から。

ここで遺構が検出されたのは、

①Ⅰ層直下、Ⅱ層a直上の近世〜近代平地住居

②Ⅱ層d、所謂黒0層、Ta−a直下の住居跡

③Ⅱ層e直下、Ⅲ層a直上の遺構群

④Ⅲ層中の住居跡ら。

⑤縄文の遺構

で、この内、④は続縄文〜擦文文化(白頭山−苫小牧層の上、擦文文化後期)遺跡で、③と④との間には2cm程度のギャップがあり、識別可能だったとある。

では、問題の獸頭骨らが並ぶ遺構について引用してみよう。

この遺構は③にあり、江戸初期の火山灰Ta−b(樽前山b)で直接被覆されていたとある。

では、記述ある部分を引用してみよう。

 

「獣骨集中は6ヶ所検出した。調査区内平坦面の包含層のほぼ全面からシカを主体とする未被熱の獣骨が出土しているがその中でも密度の濃い範囲を集中区として扱った。構成種としては僅かながらクジラやヒグマも含まれている(VII章第2節)。これらは、四肢骨やその他の部位で構成でAVタイプ(IIIBB-01・02・03)と頭蓋骨由来の部位を中心とするタイプ(IⅢBB-04)、頭蓋骨のみで構成するタイプがある(ⅢBB-06)。このうちIIIBB-04・06は平坦部と斜面部の境界付近に等高線に平行した1条の杭列跡に伴って検出した。いずれも杭列跡の斜面部側の位置関係である。IIIBB-06は発掘区壁面において樽前bテフラを直接被覆する状態で検出し、調査区の拡張の結果、6㎡に25頭分の頭蓋骨のみで構成される。雌雄別々に4段に集積されたブロックもあり、「シカ送り場」跡と考えられる。火山灰を直接被覆していることから事後の作用による移動が殆んどないものと考えられ、 当時の送り儀礼の形態を推察するうえで重要な成果が得られている。なお、IIIBB-05 は被熱焼骨片の集中で、シカの四肢骨に由来する部位と哺乳網部位不明の焼骨片 43.9g が回収されている。

杭列跡は58基の打込みの杭跡が8~30cm 間隔に構成され、1条検出した。位置は斜面部と平坦部の境界付近で調査区を横断し、さらに調査区外へ続くものと思われる。この杭列跡を境界にIII層アイヌ文化期の遺物密度が全く異なり、斜面部出土の遺物はほぼ皆無である。位置関係よりIIIBB- 04・05 を伴うと思われるが、このような杭列は管見の限り初例で、性格については不明である。」

 

第6節 獣骨集中・杭列跡

獣骨の分布状態

ニタップナイ遺跡ではTa-bテフラ直下の平坦面より多量の獣骨を検出している。獣骨は包含層で 1,392点、遺構(獣骨集中)で367点の合計 1,759点検出している。全て座標点を記録し、同定可能な資料についてはメモ写真で記録した後に取上げを行っている。取り上げの際、脆弱な資料については酢酸ビニル樹脂エマルジョン接着剤を水で希釈したものをハケまたは霧吹きを用いて硬化させた。分布は後述する杭列跡を境界に沢側は殆ど出土せず、平坦面に主な分布を示す。出土獣骨は殆どが未被熱で、部位が特定できる資料が多く保存状態は良好であったといえる。それは資料の大半が Ta-bテフラを直接被覆していることが一つの要因と考えられる。調査区に広がる獣骨分布の中で更に濃密なブロックを形成している地点は6ヶ所認められ、それぞれ個別に図化し詳細を記録した。中でも特筆するブロックはIIBB-06で、Ta-b直下で25個体のシカ頭蓋骨・上顎・鹿角がまとまっ て見つかっており、近世前葉アイヌ文化期の動物儀礼を考える上で重要な発見になった。

獣骨集中1[IIBB-01] (図Ⅲ-20-21 図版18-1~3-52-9~19)

位置:AH-28.29

規模:446×260 cm

主要動物/部位:シカ/鹿角・下顎・四肢

確認・調査:火山灰除去後のIIaU 層で調査区北東側斜面変換点にシカを中心とする獣骨を密集して検出した。調査は部位が特定できる個体については竹串やブラシを用いて精査を行い、全体の広がりを確認した。包含層出土の個体と集中地点の個体線引きについては視覚的に集約しているとこ ろで主観的に設定した。平面図・撮影などの諸記録をとった後に獣骨を取上げて調査終了とした。遺存体出土状態: 出土した遺存体はいずれもIIIaU層出土でTa-b テフラ降下直前の資料である。 Ta-bテフラを直接被覆している部分も多く、全て未被熱で比較的良好な状態で検出している。また、少量であるがカワシンジュガイ殻皮も出土している。

遺物出土状態:遺存体分布範囲内から同一層より出土する遺物を対象としている。金属製品(4)はシカの下顎と重なり合った状態で出土している。そのほか集中区北東からは長軸 27.7cmの鯨骨製骨角器素材が1点出土している。分布状態は広範囲にわたって広く分布している。

出土遺物(図ⅡⅢ-21): 1は軽石製の砥石?である。1側縁に平坦面が認められることから、研磨具の可能性が高いと思われる。2は小柄で刀身部はほとんど欠損している。柄の部分には薄い銅板が巻かれており、片側に文様が施されている。3は刀子の茎部分。4は針で基部は欠損しているが先端は尖っている。断面は丸状で長軸81mmと本遺跡から出土する他の針に比べ長い。5~7は棒状鉄製品で6は1面に溝が認められる。8は銅板である。9は鯨骨製の骨角器素材で両端部にカット 面が、両側縁には浅い段状の切削単位が認められる。素材の部位は肋骨もしくは下顎と思われる。

そのほか図示していないが3点の棒状鉄製品、3点の礫が出土している。礫については2点がメノウの自然礫であることから、もともとは火打石の素材として持ち込まれた可能性が高い。その他フローテーションからはシソ属、アズキ、ブドウの炭化種子が出土している。

獣骨集中2[IIBB-02] (図Ⅲ-22 図版 18-4.552-20-21)

位置:AGAH-31

規模:352×262 cm

主要動物/部位:シカ/四肢

確認・調査:IIaU 層調査中にシカの四肢骨を中心とする地点を確認した。調査は周辺の精査を行い平面分布の広がりを確認した。本集中区の密度は他の獣骨集中と比較して密度は濃くないが、四肢骨等特定の部位がまとまって検出していることから包含層とは異なる性格であると判断して集中区として取り扱った。また、部位のわかる個体については竹串やブラシを用いて精査を行った。平面図・撮影の諸記録をとった後に獣骨を取上げて調査終了とした。

遺存体出土状態:出土した遺存体はいずれもIIIaU層出土でTa-bテフラ降下直前期の資料である。遺存状態は良好で部位の特定が出来る資料が多い。

遺物出土状態:分布範囲内に含まれる遺物を対象としている。特に遺物の出土量は多くないが同 一面より刀が一振り出土し、ほかに礫、礫石器が散在する形で分布している。どれも同一面出土の資料である。

出土遺物:1は全長30.1cmある山刀である。棟部分は一部潰れ、折り返った状態になっている。茎には目釘が残存しており木質が薄く残っていたが取上げることは出来なかった。2は2点接合の鉤状鉄製品で、両側縁に浅い溝が認められる。

炭化物集中2[IIICB-02] (図IIIⅢ-22)

位置:AH-31

規模:72×62 cm

確認・調査:IIIBB-02 の精査をしている際に南側で炭化物が集中する地点を確認した。検出層位は IIaU層で平面図、写真撮影などの諸記録を行った後にフローテーションサンプルを回収して調査終了とした。フローテーションからはオオムギ1点が回収されている。

性格: 範囲は他の獣骨集中と比較して小規模であるが四肢骨・下顎等がまとまって出土している。出土状態から Ta-bテフラ降下直前に形成されたと考えられ、後述するIIBB-06と同時期、同一 面、出土位置などから関連する遺構である可能性は高い。周囲は遺物が殆ど出土せず、獣骨のみ出土していることなどから儀礼的な様相が高いと考えられる。

 

獣骨獣集中3[IIIⅢBB-03] (図III-22 図版19-1.52-22)

位置:AJ-49.50

規模:314×104cm

主要動物/部位:シカ/四肢

確認・調査:IIaU 層調査中にシカ四肢骨が密集する地点を検出した。現場での部位特定は困難であったが、周辺には獣骨が散在しておらず包含層と異なる密度から集中に含めた。検出地点から南側調査区外に延びることが予想される。調査はある程度大きさ、部位がわかる状態でまで精査を行 い平面形、写真撮影等の諸記録をとった後に獣骨を取上げて終了とした。

遺存体出土状態: IIaU層検出だが部位も小さく遺存状態はよくない。

遺物出土状態:獣骨範囲内には礫14点及び 金属製品が1点出土しているのみである。

出土遺物(図II-22-3): 3は環状鉄製品である。片面には木質片が付着していると思われ、ロ金(タマクラ)もしくは刀剣類の留具と考えられる。

獣骨集中4[IIBB-04] (図Ⅲ-23-24 図版19-2-3)

位置:AK-27

規模:168×128 cm

主要動物/部位:シカ/下顎

関連遺構:杭列跡

確認・調査:調査区南東側の緩斜面で、火山灰除去中にTa-b テフラ中から鹿角2本を検出した。IIIaU層調査時に鹿角が出土した地点を中心に精査したところシカの獣骨がまとまって出土したため同一面で平面分布の広がりを確認した。東側約1m 離れた地点に小刀が1点とシカの下顎を2点 検出しているが、距離が離れているため集中区には含めていない。集中区内の獣骨は包含層と同様に部位がわかる程度に竹串、ブラシを用いて行った。IIIBB-04 についてはまとまった状態であったため、酢酸ビニル樹脂の希釈したものを土壌ごと塗布し全体の硬化を行った。平面範囲、獣骨の実測、写真撮影の諸記録後、土壌切り取りによる獣骨の移設を行い調査終了とした。

遺存体出土状態: 遺存体は全て未被熱で、部位の判別が出来るほど良好な状態であった。出土層位はIIaU層を基底面にしてTa-bテフラを直接被覆していた。鹿角はTa-b層中で出土したことから、オスの頭蓋骨は上または横向きの状態でIIaU層に置かれていたものと考えられる。

獣骨集中6[IIBB-06] (図Ⅲ-24~25 巻頭カラー4-1・2 図版19-4.5 20-1~3)

位置:AKAL-28

規模:272×168 cm

主要動物/部位: シカ/頭蓋骨

確認・調査:杭列跡の延長線上で、柱穴断面調査中に南西壁面でシカの上顎歯を検出したことにより発見に至った。調査区外に獣骨が広がっていることが明らかであったため、原因者である開発局に許可を得て調査範囲の拡張を行った。獣骨は鹿角及び頭蓋骨までの上顎までが主体で、複数個体検出していることから個体識別可能な状態になるまで、竹串、ブラシを用いて精査を行った。検出後は乾燥による劣化が予想されたため、酢酸ビニル樹脂エマルジョンン接着剤を水で希釈したものを刷毛または霧吹きを用いて土壌ごと塗布し全体の硬化を行った。なお獣骨の広がりは1.5m× 3m拡張した時点で鹿角が更に南東へ延びていたが、まとまった個体数を得られていたので拡張を終了した。獣骨は平面的な広がりだけではなく一部重なった状態で検出されたことから平面の微細 図、撮影等の諸記録を行った後、土壌切り取りによる獣骨の移設を行い調査終了とした。

遺存体出土状態:出土状態は、頭蓋骨・歯列・鹿角がII層上面を基底面にTa-b 層中に突き出ている立体的な状態で検出している。識別できた個体数はオス11個体、メス6個体、不明8個体の合計25個体である。一部Us-bテフラ (1663年)を被覆しているが、殆どの個体が Ta-bテフラを直接被覆している資料で保存状態は良好である。オス個体は鹿角が上になるもの(正置) と下になるもの (倒置)の2通りで、メス個体は横になっている状態も認められる。特に巻頭カラー4-2のオスは、正置の状態で4段重なりあって検出している。

頭蓋骨間には Ta-bテフラが充填していること、頭蓋骨に乱れた形跡が認められないことから形成時には直接地面に置かれた状態であり、さほど時間を経過せずに Ta-bテフラが降下したと考えられる。これらのことから IIIBB-06 は本来に近い状態であったと考えられる。そのほかの出土状態は、オスが正置の状態で4個体、倒置の状態で2個体検出している(1個体は鹿角のみで不明)。メスは4段重なったオスの北側に5個体まとまって検出している。このうち正置は4個体、横が1個体である。その他は歯列のみの検出で、頭蓋骨がはっきりとしていないが、鹿角の有無などから大部分はメスと考えられる。出土する位置についてはオス・ メスが重なっていないため判然と分けられていたと考えられる。年齢については3歳を中心に満2歳~4歳に集約 (1例のみ6歳)されているという結果を得ている(第VII章 第2節)。

性格: 前述したIIIBB-04と同様、時期や位置関係、周辺で遺物は出土していないなどの共通点が認められる。しかし、IIIBB-06は頭蓋骨の上顎部分だけがまとまり、オス・メスの頭蓋骨が別々に重なっているなど他の獣骨集中とは異なった出土状態である。とりわけ頭蓋骨のみという構成が意図的な集められ方をしているため、シカに対する「送り」など儀礼跡の可能性が高いと考えられる。

杭列跡(図III-23-26図版20-3~5・21)

位置:AJ-26-27. AK-27-28

規模:1200cm×60cm

形状:帯状

確認・調査:IIIb層調査中、調査区東側の平坦から斜面へ変換する地点に多数の柱穴と考えられる落ち込みを確認した。柱穴は等高線と並行するように58本配列され、調査区の端から端までほぼ直線状に検出している。調査はIIIcU層上面まで掘り下げた後、IIIb層及びTa-bテフラの落ち込みプランにIIIKPX-01から付番した。平面形の記録をとった後にそれぞれ柱穴の半截を行った。断面観察後に柱穴と認定したものは断面図、撮影等の諸記録をとり完掘を行った。完掘の際には杭先が不明瞭なものについては木根やその影響を受けているものと判断し欠番としている。柱穴を全て完掘した後、近景の写真撮影、坑底面の座標を記録して調査終了とした。

獣骨集中5[IIIBB-05] (図III-27)

位置:AI-43

規模:248×100cm

検出層位:IIIaU

主要動物/部位:シカ/

確認・調査:調査区に分布する獣骨は殆どが未被熱である中、本遺構は被熱した資料の集中区であり包含層より出土する獣骨とは性格が異なることから集中として取り扱った。IIaU層で検出し、被熱であることから周囲に焼土や灰層の広がりを考慮しつつ精査を行ったが痕跡は認められなかった。平面形の広がりを確認し、平面図、撮影等の諸記録をとった後に土壌サンプルを回収して調査終了とした。フローテーションからはブドウが出土している。」

以上である。

 

気になる点を纏めてみよう。

①この獣骨集中区面はⅢ層直上〜上面で擦文後期の遺構面との間に2cm程度の空白があり、連続的に活動が営まれていたとは言えない。

また、獸頭骨集中のIIBB-06の状況から、廃絶直後又は廃絶されてから殆ど間を置かずにTa−bら火山灰(一部Us-b)の直接被覆を受けている。

よって、それら獣骨が配置されたのは1663〜1667年以前且つそんなに時間差がない時期と言える。

②遺構は平坦部と斜面部に分かれる位置で斜面部との境目で柵列で隔絶され、殆どが平面部に分布する。

③それぞれの集中区は

1…鹿角・下顎・四肢…未非熱

2…四肢…未非熱

3…四肢…未非熱

4…下顎…未非熱

5…非熱骨のみ

6…頭蓋骨…未非熱

と、部位や非熱有無で分別,整理され配置されている。

こんなところか。

勿論それぞれ直結するものではないが、単に時系列で並べれば、ここは擦文後期〜空白〜17世紀(1600年代)前半、由比ヶ浜南遺跡が13世紀前半で獸頭骨としては鎌倉→厚真の順になる。

獸頭骨が並ぶIIBB-06では鹿のみとなるがIIBB-01らでは他の動物の骨も含まれる。

そんな意味では鎌倉由比ヶ浜南遺跡の頭骨が並ぶ遺構と共通点もある。

鹿の骨と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

「時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ」…

ユオイ,ポロモイ,二風谷遺跡でも火山灰降灰後にチャシ斜面側へ分布しているのは概報。

割とこんな風に無造作に送り?廃棄?された場所はあるが、ここニタップナイ遺跡では整然と整理され「配置」されていると言う異差はある事になる。

ではこの検出層の他の遺構は?

平地住居2、簡易的な炉の無い建物跡9、焼土4、灰集中11、炭化物集中10が検出されている。

建物跡や灰集中区に関しては、一部はUs-b(1663年降灰)〜Ta−b(1667年の間に構築時期が限定される物がある。

 

ここでおさらい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/05/112644

「火山噴火の痕跡一覧からの備忘録…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…

北海道では胆振,日高辺りを中心にして、火山灰に被覆される地域がある。

ここ有珠では60cmとあるが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

入江・高砂貝塚館の地層剥ぎ取りで、上部の白い部分がこの火山灰に当る。

場所によりこれが1m位の厚さになる場所もある。

さすがにこの「有珠4遺跡」らの畠跡は、Ta−b降灰で再生を放棄、廃絶されている。

その辺を我々は生き延びる事が出来たのか?と問題視してきたので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

こんな直球を投げ掛けたりしている。

因みに、本遺跡では途中に「黒0層」の遺構が見つかったりしているので、遺構面から5cm上で重機使用を止めて手掘りに切り替えたとある。

これなら、近世の姿も確認出来るが、レクチャーされた話では殆ど無遺物層なので黒色土層(主に第三層黒色土層と言われる地層)迄重機で掘り下げている場所もあるとの事。

これ、発掘主任が立ち会わなければ遺構破壊を重機で行いかねない。

 

もとい…

それら遺構での遺物は、住居跡の刀ら鉄器、

灰集中区での鎌や砥石、

包含層でのキセルら、

などになる。

ここで、灰集中区で奇妙な記述を見つけた。

「イノシシあるいはブタと考えられる骨が2点確認された。あるいは和人がもたらすアイヌのダイエットリストにあったのか、今後の課題である。」

勿論、Ta−b直下、4区は被熱無し、6区は被熱しているとの事。

この寒冷期の時代、北海道に豚若しくは猪が居たのか?

また、食べる習慣があったのか?

勿論、居なければ持ち込まれた物だし、食わぬ為に持ち込むのは不自然、わざわざ食わぬ物を持ち込むならば何らかの意図が必要になる。それは?

本遺構が、戦国〜江戸初期位に限定される事も加味しなければならないだろう。

仮に「由比ヶ浜南遺跡」の様に皮なめしとして獸頭骨が利用されたとするなら…

因みに、本遺構でのヒグマの骨は3体分程度。

仮に鹿送り→熊送りと変遷したと仮定しても、1667年段階ではそれは完成するには程遠い状況になるのだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

渡辺モデルに時系列データを与えれば、育てた子グマを送る祭祀が始まるのはもっと後での事になる。

 

ついでに、一応本遺跡より下った時代の遺構でも気になる部分にも少々触れよう。

基本層序の「①Ⅰ層直下、Ⅱ層a直上の近世〜近代平地住居」、所謂「黒0層」で1667年のTa−bと1739年降灰のTa-a(樽前山a)の間の時期限定で造営〜廃絶された施設だと言える遺構になる。

 ここでは炉跡のある平地住居跡が検出される。

遺物では箆状鉄製品や他鉄製品、坩堝状土製品、フイゴの羽口、鉄滓ら…

等検出。つまり、この地床炉跡は鍛冶遺構だとしている。

ここで非常に気になる記述がある。

 

「6-2 遺跡内における鉄器生産活動

既述のとおり、近世アイヌ文化期 (Ta-b以降)の住居跡中央部では、平面形が長軸74cm、短軸54cm の楕円形を呈する炉跡が検出され、その上層から鉄器、羽口片、鉄片、剥片状鉄滓、粘土状物質、 坩堝状容器片、および粘土状資料などが出土した(出土状況の詳細は本誌 44~51ページ)。検出された炉跡の底部は明褐色を呈する。坩堝状容器片および粘土状資料は発泡し溶融または部分溶融している。金属考古学的調査の結果、剥片状鉄滓はウスタイトを主体とし、それらの回りを少量のガ ラス質ケイ酸塩 (G1)が取り囲んだ組織によって構成されている。表面はやや暗灰色を呈するヘマタ イト (Hem)と思われる組織からなる。加熱した鋼を鍛打した際に、鋼表面が剥離し生成した資料の可能性が高い。この資料の検出から、検出された炉で鍛冶操作が実施されていた可能性を考えることができる。

No. 20 は坩堝状容器の一部である。発泡し、溶融または部分溶融している。組織観察の結果、火 山灰を素材としていることがわかった。本資料については、固体鉄を加熱・鍛打する際に破砕された鉄滓が火窪炉の中に入り込み、火窪炉の底で固化することによって生成した、とする見方をとれる。この場合、溶融または部分溶融した飛散物が溶着を繰り返し、炉底部の形状を反映した形で固化する。上記操作では、炉内に存在する炭材が坩堝状容器に噛み込まれるはずである。検出された資料に炭材の噛み込みや固着はみられない。資料の残存状況からただちに、鍛冶過程での生成を主張することは危険である。

もう一つの見方として、銑鉄の脱炭過程での生成が考えられる。あらかじめ粘土状物質を用いて 作成した椀形の容器または設備の中に溶融銑鉄(溶鉄)を準備し、必要に応じ造滓材を加えた後、空気酸化によって銑鉄を脱炭し鋼を製造する操作、あるいは椀形の設備または容器の中に溶銃を生成させた後、外熱を加えながら酸化鉄を含む造淬材と長時間接触させ鋼を製造する操作の実施が想定される。

銑鉄を脱炭して鋼を製造する操作を円滑に進めるためには、反応に不可欠な熱源の確保が重要となる。この点については、①坩堝状容器または設備内に生成した溶銃(必要に応じ造滓材を添加)の空気酸化による脱炭、②坩堝状容器の中に銑鉄および酸化鉄を含む造滓材を入れた後、容器ごと開放形の炉に入れ長時間加熱する、③①と②の併用、という3つの方法を考えることができる。①において、溶銃中に送り込まれた空気中の酸素は鉄鉄中の炭素および鉄と反応し、前者は二酸化炭素として、後者は酸化鉄として鉄浴から排出される。鉄の再酸化に伴う発熱が、脱炭反応の円滑な進行に寄与する。脱炭操作終了後、容器内に生成した鋼塊は回収されるが、椀形の容器に固着し分離が難しい場合、容器ごと加熱・鍛打して鉄淬を分離し、鋼塊を回収したものと推定される。 青森県青森市野木遺跡の平安時代の遺構からは、羽口先が坩堝状容器の中に装着されたままの資料が検出されている。坩堝状容器は灰褐色を呈し、溶融または部分溶融している(赤沼英男 2000), 溶鉄の空気酸化による脱炭が実施されていたことを示唆する資料である。近世アイヌ文化期のニタ ップナイ遺跡において、坩堝状容器を使用した銑鉄の脱炭による鋼製造技術が獲得されていた、と青森県青森市野木遺跡考えることは十分可能である。」

「ニタップナイ遺跡出土鉄関連資料の金属考古学的調査によって、以下の4点が明らかとなった。

① 擦文文化期時代の包含層から出土した鉄鏃は、ニタップナイ遺跡から出土した他の鉄器に比べ 銅含有量が高いという点で特徴的である。形態に加え化学組成にも差異がみられる。

アイヌ文化期には複数の地域から鉄器がもたらされていた可能性が高い。

③ 近世アイヌ文化期には、鋼を加熱・鍛打して日常生活に必要な鋼製鉄器が製作されていた可能性が高い。加えて、銑鉄(鉄鍋片)を脱炭し鋼を製造する精錬が実施されていた可能性がある。

④ 擦文文化期から近世アイヌ文化期へと時代が推移する中で、製品鉄器または原料鉄の獲得地域が変化した可能性が高い

近世アイヌ文化期には、東北地方北部との間で鉄に関する物質文化交流が展開されていた様子をみてとれた。今後、当該地域周辺から出土する鉄関連資料の金属考古学的調査を実施し、これまでの調査結果に、ほぼ同時代に比定される東北地方北部出土鉄関連資料の調査結果を重ね合わせるこ とによって、アイヌ文化期における鉄器普及の実態が一層みえてくるものと思われる。」

 

以上の通り。

小鍛冶をやっていた…だけではなく、銑鉄から脱炭し鋼を作り出す「大鍛冶」迄やっていた?

知っているところでは、本道のアイノ文化では「鍛冶はやっていない」がで、記録残るのは樺太のみ、しかも大鍛冶迄やってるとなると…本当にアイノ文化の仕業で大丈夫なのか?

厚真から20~30kmの千歳での黒0層の状況から、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

こんな風に金堀衆や場所の活動を投影した…と言う事も想定は必要なのではないだろうか?

千歳の知行展開は早そうだし、馬の痕跡がある以上、周辺への展開もそれなりに。

その辺は地方史書らから改めて拾って行く事になるだろうが。

 

さて、如何であろうか?

熊送りの原型的な解説もされる様だが、

現実として、

・本遺構は、前時代の擦文文化期との間に2cm程度のギャップ、後時代の黒0層とはUs-b,Ta−b火山灰と言うギャップがあり、数十〜数百年の空白がある。移動を含め連続性の有無は検証が必要だろう。特に本遺構はキセルの存在より戦国期〜Us-b,Ta−b火山灰迄の間のみ営まれたのは間違いない。

・中世段階で獸頭骨を並べる遺構は最低「鎌倉に存在」し、それは時系列的には厚真町ニタップナイ遺跡遺跡より先になる事は考慮すべき。

・ニタップナイ遺跡の獣骨は部位毎又被熱有無らを整理され平地側に配置される。Ta−bら降下後のチャシや竪穴住居の傾斜面に無造作に配置される状況と同一視出来るのか?

・ニタップナイ遺跡に於いては、ヒグマの骨は鹿らと比較して極僅かに過ぎず、Ta−bら降下直前段階で熊送り、特に子グマ養育型熊送りへの原型と考えた場合でもまだ変遷タイミングより前になる。

又、極僅かに検出された豚又は猪の骨をどう見るべきか?、特に野生の猪の場合は分布域から外れているとも考えられ、検討課題に挙げられる。

・Ta−bで被覆される本遺構は、その被覆段階で廃絶されているが、その人々はどうなったか?、特に野生の鹿を食料として利用していた場合、火山灰降灰後の資源回復はどうだったのか?

・黒0層の鍛冶遺構は本当にアイノ文化の一端と見て良いか?

特に、坩堝による脱炭での銑鉄→鋼の大鍛冶工程は、従来鍛冶らを行わないとされる本道同文化の通説とは乖離してしまい、知行地に設定された「場所」の経済活動ではないのか?

最低でもこの程度の疑義は出るのではないだろうか?

これらを考慮して、この遺跡は江戸中〜後期に古書に描かれた姿に直接リンク可能か?

正直に言えば豚or猪や大鍛冶の痕跡をみれば、本州系の文化を持ち渡った人々…でも説明はついてしまいそうだが。

都度言ってはいるが、現在存在を消されている人々とは「明治以前に居住し、北海道弁を話し、場所や商人に採った魚らを納品し、本州に近い文化形態で普通に暮らしていた人々」…つまり「シヤモ」と表現された多くの道民の祖になると思うのだが。

本当に、それで良いのか?…を我々は問いたい。

 

※追記…

鎌倉市由比ヶ浜南遺跡の獣類頭蓋骨列」 斉木秀雄/西本豊弘  によると、

由比ヶ浜南遺跡の獣頭骨が並んだ遺構だが、下顎が検出されないそうだ。

カウントされた馬の下顎骨は、頭骨が並んだ列の中には無い。

発掘調査報告書等らで指摘されていた頭蓋骨後ろが無い…ここに囚われ過ぎた感。

下顎を外して一定方向に向け並べられた…ここは共通点となる事を追記しておく。

 

参考文献:

厚真町 ニタップナイ遺跡 (1)  −厚模得木路建設事業に係わる蔵文化財発掘調查報告書1−」  厚真町教育委員会  平成21.1.15

※「鎌倉市由比ヶ浜南遺跡の獣類頭蓋骨列」 斉木秀雄/西本豊弘  『動物考古学 第9号』 動物考古学研究会  1997.10.1