北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

折角なので「中世墓資料集成−北海道編−」にある現物を見てみようではないか。

実は筆者は同書にある中世墓を検出したと言う遺跡の発掘調査報告書を持っていたりする。

この際と思い、入手出来そうな物を追加で買ったみた。

で、その発掘調査報告書の墓についての記述を確認してみようと思う。

特に耳飾や垂飾と言うアイノ文化系とされる遺跡を数カ所ピックアップしてみよう。

 

千歳市「末広遺跡」

・同書の記述…

「中世~近世 (1739年以 (前)」

「土坑墓17基 (IP-1~3-14-30-45 54・60・74・84・111・112・114・122~125) 墓坑平面形は小判形・長台 形・長方形・楕円形」

「周溝を持つIP-1からは刀子 (1) 鉈 (1) ・鎌 (1) 、その他の主な副葬品は骨鏃・骨製中柄・小札・鉈・鎌・ 刀子・山刀・鐔・太刀・槍・渡来銭・耳 鉄鍋・片口吊耳鉄鍋・漆碗・漆皿・漆盆・錫製耳飾・ガラス玉・煙管雁首・砥石」

・基本土層…

上記に対応する調査報告書の本文から拾う限り、

Ⅰ層…表土は記述なし(重機除去)

Ⅱ層…Ta-a(1739年) 70~80cm

※末広遺跡にはTa-b(1667年)は見当たらない模様

Ⅲ層…黒Ⅰ層 15cm程度?

※厚さは近辺の竪穴住居(擦文文化期)の覆土土層より。

下部に白頭山−苫小牧火山灰がある場所があり、この層で縄文末〜擦文〜1739年迄含む。

尚、遺構面は近隣貝塚を見る限りでは黒Ⅰ層上面より1~2cm下部にあるという。

・発掘調査報告書実績…

該当報告書では17基の中〜近世墓が検出。

長方形墓:楕円墓は15:2

他特徴的なものは、

円形周溝を持つ…2

2体合葬墓…2

耳飾,垂飾等検出…3

・IP-2

「IP-1墓壙の南西で確認した土壙墓である。長軸200cm, 深さ35cm, 短軸が頭部で70cm, 足 端部で38cmのIP-1墓壙と同様のプランをもつ (Fig. 8)。土壙北東側に幅約20cm, 深さ6 cm程の溝を認めたが全周するか否かは不明である。なお,長軸方向の溝中に墓標跡と思われる直径15cm 深さ36cm, 尖底の柱穴を検出している。人骨は頭蓋,上・下肢の一部を残しているが,いずれも泥化が進んでいた。頭位はN-120° Eで長軸方向と一致する。 埋葬形態は仰臥伸展葬である。

壙外には口径23cm, 深さ18cmの片口吊耳鉄鍋が片口を壙内に向け、伏せた状態で出土している。 場内では足端部に口径約20cm, 内外とも朱漆の皿形漆器1点, 皿部の直径14cm, 脚部の高さ5cm程の黒漆の天目台と,その下に内が朱, 外が黒漆の腕がいずれも伏せて副葬している。さらに下技右側にも内外とも朱の漆椀がある。 また右肩部右側に刀子, 径1.6mの銀環, 図示しなかったが径4mm程のガラス小玉が272個出土している。ガラス小玉には6色有り, 112,青60, 透明42,白11,水色が4個であった。 副葬品から被葬者は女性と思われる。」

・IP-14

「M-17・18,N-17・18区の段丘縁辺部に位置する土壙墓である。IB層上面では長軸4.1m, 短軸2.6mの楕円形に黄褐色の盛土 (墓壙覆土Ⅱ層) が認められた。盛土中央部は深さ20cm, 長さ2.6m, 幅1.0m程の長円形に窪み, 南東には溝状の落ちこみが認められ, 一見して墓と確認出来た墓壙の一つである(Fig.10)。

墓壙は長軸276cm, 短軸70~90cm, 足端部がやや狭くなる長方形のプランを呈する。掘り込み 面からの深さは約70cmと今回調査したアイヌ期の墓墳の中では深い。長軸方向はN-119°Eを示し, 長軸線上の溝中に墓標跡と思われる直径20cm, 深さ50cmの柱穴があり,さらに壙外の北西部には2ヵ所に焼土が認められた。

人骨は仰臥伸展葬で埋葬され, 遺存状態は良好である。頭位は長軸方向と一致するが,顔面を西に向けている。

副葬品は頭部と壁の間に伏せた漆椀をのせた漆盆, 刀子1点, 骨製中柄, 骨鏃合せて36本が出土した。また頭部に1対の銀製ニンカリ (Fig. 11-1617), 頭部から胸部にかけて太刀を検出している。Fig.11-12が骨鏃, 3~12が骨製中柄である。1~11は鹿の中手 (足) 骨, 12は鯨骨製。13~15は刀飾具であろう。 太刀は刀身部に漆塗りの鞘の一部を残す。図中スクリーン部は朱漆である。19は長さ約40cmの鉄製槍先で,墓壙から3m南のIB上面において出土した。 副葬品から被葬者は男性と思われる。」

・IP-111

「調査区最東端の段丘縁辺部に立地 する土壙墓である (Fig.18)。掘り込み面を確認出来なかったが, 高さ約80cmの壁を残す。 長軸262cm, 短軸85cmの長大な方形を呈する。

遺骸は手を前に合せた伏臥伸展で 埋葬され, N-73°-Wを示し,今回調査した近世アイヌ墓中唯一の例で,頭位と共に被葬者の異常死を示唆するものと考えている。保存状態は頭蓋を除いて悪い。

図示出来なかったが, 壙内西端か ら内が朱漆,外が黒漆の腕を3個載 せて伏せた盆が出土している。 Fig.18-1は透明なガラス玉, 2は緑色のガラス小玉である。3・4は異形, 5~8は環状金属製品で鉛製か。 同じ材質の鍔状金属製品が下顎部から 出土している。 9は鎌, 10・11は刀子である。1は足端, 2・9・10は左肘, 3・5・6 は左肩, 7は右肩, 8は左膝から, 10は,頭部南側の壁際から出土した。」

・同書ではIP-1を紹介しているが、

銀環のあるIP-2

耳飾のあるIP-14

同様のIP-111

をピックアップしてみた。

墓周辺の土層を見る限り、IP-2,IP-4では覆土上にTa-a、IP-111は覆土上面が破壊されているのか判然としない様だ。

少なくとも墓が作られた時期は、Ta-a(1739年)よりそんな遡れる訳ではないのではないだろうか。

確かにIP-111では「近世墓」と表現される。その辺は副葬が「内耳鉄鍋」ではなく「吊手鉄鍋」に変わっている事や同書にある様「煙管雁首」がある事でも想定可能。

ここでも楕円墓は検出しており、

顕著なIP-123を見る限り、ⅠB層で被覆される楕円墓が古い傾向になりそうな感じも見受けられる。

と、IP-111で微妙な表現が使われているが、顔が背中側に向けられ葬られている。

つまり、葬られた段階で首は胴体から離れていた事になる。

葬られた段階で首を逆さまに葬られたか?再葬されたか?は発掘調査報告書には記述が無い事を付記する。

 

千歳市「美々4遺跡」

・同書の記述…

「中世から近世(1667年以前)」

「土坑墓1基 (IP-121) 墓坑平面形 は小判形」

「TP-121からは鉄製螺旋状垂飾 (1)」

・基本土層…

本文から拾う限り、

Ⅰ層…表土は記述なし(重機除去)

Ⅱ層…Ta-a(1739年) 厚さ表記無し

Ⅲ層…Ta-b(1667年)厚さ表記無し

※ここまでを重機で除去。

Ⅳ層…黒Ⅰ層 10~20cm程度

※この黒Ⅰ層でアイノ文化期〜縄文後~晩期の遺物,遺構を検出。

・発掘調査報告書実績…

「同書の記述」では「IP-121からは」となっており、周囲に幾つかの墓坑があるものと考えたが、該当報告書では1基の中〜近世墓のみで、他は縄文晩期位の墓坑。

・IP-121

「位置  E₁65-70・E₁-65-80」

「平面形  東西に延びる楕円形」

「規模   2.34×0.94/2.09×0.62/0.45」

「確認・調査・土層   Ta-b火山灰を除去した後、Ⅰ黒層上面に落ち込みを確認した。土層断面を確認しながらこれを掘り下げたところ、 II 黒層下約20cm程の掘り込みを確認した。土層はTa-c、Ta-b パミスの混在するI黒層からなり、堆積は複雑な様相を呈していたが、9層の覆土が認められた。掘り込み面はⅡI黒層下層と思われる。

「底面  ⅡB層中につくられており、平坦である。」

「壁面  急な立上りである。」

「遺物  壙底から金属製品が出土している。覆土からⅣV群 c類土器・石鏃が出土した。」

「土器  土器は5点出土しいずれもIV群c類である。 小破片のため掲載できなかった。」

「石器  石鏃1点出土した。1は有茎凸基の尖頭部は正三角形状である。」

「金属製品  壙底から垂飾が1点出土した。2は断面径が丸い針金状のものを巻き上げて鐸形を作り 出したものである。」

「時期  遺構の平面形、土層及び出土遺物から近世アイヌ期の土壙墓と思われる。」

・これが美々4遺跡の「螺旋状鉄製品」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/16/182820

「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?…螺旋形状をした事例の備忘録」

この辺の項で取り上げている螺旋状,コイル状の金属品。

同一墓内に何かヒントになるものはないか?と期待していたが、残念ながら検出されたのはこれ一つだったようだ。

ただ、墓の底面である事を考えれば、副葬又は(覆土の縄文遺物同様)混入だとしても埋葬される段階で混入…つまり墓が作られた段階でここに収められた事は間違い無さそうだ。

ちょっとヒントが少ない。

なら、耳飾,垂飾は出ていないが参考に近隣の遺跡の墓も見てみよう。

と、なれば美々8遺跡を…

 

③美々8遺跡

・同書の記述…

「中世から近世(1667年以前)」

「土坑墓1基(IP-1)、墓坑平面形は小判型」

「IP-1からは刀子(1)・内耳鉄鍋(1)」

「墓標穴あり」

・基本土層…

Ⅰ層…表土

Ⅱ層…Ta-a(1739年) 

Ⅲ層…黒0層

Ⅳ層…Ta-b(1667年)

Ⅴ層…黒Ⅰ層 

※上面に一部Us-b(1663年)、中盤に一部白頭山−苫小牧火山灰(946年)を含み、この黒Ⅰ層でアイノ文化期〜縄文後~晩期の遺物,遺構を検出。

・発掘調査報告書実績…

アイノ文化期とされる墓は1基のみ。

・IP-1

「位置   D-66-24・25」

「規模  1.84/1.56×0.75/0.66×0.44m」

「調査   Ta-b火山灰除去後Ⅰ黒層上面にTa-c 火山灰混じりの暗褐色土が長楕円形に広がっているのを確認し、d66-25でのⅠ黒層調査中に墓壙南側の立上りを検出した。

「特徴   平面形は長楕円形で長軸はS-38-W" をむく。断面は、平坦な壙底から内湾気味に上方へ立ち 上がる。覆土は Ta-c 火山灰と黒層とが混った土が主である。北東側の墓口付近には、完形の内耳鉄鍋が半ば埋まった状態で倒置されていた。また北東側の墓壙底から8cm上の第5層上面には朱漆の破片が散らばっていて、その下には漆碗が置かれていた。また南東側の底には暗褐色の粘りのある土が楕円のプランを持って広がっており、おそらくこれがヒトの頭部と思われる。その脇に針と小刀が並んでおかれていた。副葬品の特徴からアイヌの墓である。

「遺物   1は鉄針、糸通しの穴は確認できなかった。錆が針の芯部分まで及んでおり中空になっていた。2は小刀、茎の一部が欠損している。刀身には木質が付着しており、切先部分には更に繊維が付着していた。3は内耳鉄鍋、一文字湯口を持つ丸い底から上方へ直線的に立ち上がる体部を持つ。口縁部は直線的に外上方へ立上り口縁端面はT字状に肥厚する。内耳部分の断面は円形で、鍋とはアーチを描いて接続する。なお、図では欠失しているが片口状に口縁部分がひずんでいた。 また、内耳部分には吊り手部分とみられる木質が遺存していた。4は朱漆片、漆の塗膜片だけが残っており本来の形態は不明である。漆椀の上部に散在していたことより腕の蓋の可能性も考えられる。5は漆椀、漆の塗膜のみが遺存しており木質部分は完全に失われていた。漆の色調は暗褐色を呈しており生漆の可能性がある。」

「時期   墓壌のプランがⅠ黒層上面で検出されている(筆者註:ママ)ことことからTa-b 火山灰降灰以前である。」

・この美々8遺跡周辺が黒0層(Ta-aとTa-bの境目)が検出される地域で、美々8遺跡の「低湿地帯」で出土した木製品、金属製品が近世の姿を表すとされる。

表土層では、道路跡や土坑、

遺物として、銃弾薬莢や金属辺が出土。

黒0層では、道路跡や建物跡、

内耳鉄鍋らが出土している様だ。

低湿地帯の方は別の機会に報告しようと思う。

さて、同書では「墓標穴あり」とされているが、発掘調査報告書で確認すると、穴らしきものは内耳鉄鍋が検出された位置しかない。

このIP-1においては墓標穴は見当たらない模様。

ここは黒Ⅰ層上面から掘り込まれTa-bの被覆なので1667年以前ではあるが、①の末広遺跡IP-123の様に黒Ⅰ層が被さってはいないので、そんなに大きく遡る訳では無さそうだ。

 

斜里町「オネンベツ川西側台地遺跡」

・同書の記述…

「中世~近世」

「土壙墓5基 (Plt4・7-11・13-14)」

「Plt4=刀(1),Pit7=刀(1)・刀装具 (1)・漆器(1)・ガラス玉(1), Pit11=刀子(1)・漆器(1)・垂飾 (1), Plt13-漆器(2)・鉄鍋(1), Pit14=漆器(1) ・鉄鍋(1)」

「13・14は再葬?」

・基本土層…

Ⅰ層…表土  10cm程度、a,bに分層

Ⅱ層…Ta-a(1739年)又はKo-c2(1694年)  5mm程度

※どちらか判別は出来ておらず

Ⅲ層…黒Ⅰ層 10~30cm程度で局部的に数㍉のMa-b5(1000y.B.P.→950年位)検出

※この土層で縄文,続縄文,オホーツク,擦文,一部アイノ文化期の遺物包含

・発掘調査報告書実績…

該当報告書では5基の中〜近世墓が検出。

長方形墓:楕円墓は5:1

他特徴的なものは、

円形周溝を持つ…0

2体合葬墓…1

耳飾,垂飾等検出…2

配石?と思われる礫…2

・PIT 11

※ここで登場する「チエトイ」は、土を食用としたとする伝承からの想定の様で、まるで貝塚の様に黄褐色土が積まれその中に日常品らが検出している。この発掘調査報告書では「貝塚」と表現している。

ウィキペディア「土(食材)」より…

樺太アイヌ民族も、調理に土を使っていたことが知られている。 珪藻土(アイヌ語チエトィ。「我らの食べる土」の意) を水に溶いて煮立てたものにハナウドの葉柄、ウラジロタデの若い茎、クロユリの鱗茎などを搗き潰して加え、油を加えたりして食する[2]。」

これは往古には特殊と言う訳でもなく世界中で話はあり、国内でも特に妊婦が土壁をかじるらの伝承はあり、体内で不足したミネラルを補給しようとする行動の様だ。

「C-8区のI層を掘削後、黄灰色土 (チェトイ?)が小規模の広がりを見せた。その直下にII 層火山灰が見つかった。この火山灰の下15cmほどまで掘り下げたところ、頭蓋骨が見つかった。さらに広範囲を掘削したところ、大腿骨などの足の骨も見つかり、墳墓であることが判明した。」

「形態   平面形-長方形。大きさ−長軸 (南北方向) 2.05m、 短軸 (東西方向) 0.55m、 掘り込みの深さー上部の形態は不明であるが、II層面からの深さは0.3mである。 掘り込みの幅は胸部付近が最も広く、足下に向けやや細くなる。掘り込み形態一壁の立ち上がりはほぼ垂直になる 作りである。 底面の起伏は、南側 (足) から北側 (頭部) に向け多少低くなる。」

「層位   表土のI層を掘削した後、 黄灰色土 (チェトイ?) が見つかり、その直下にⅡ層の火山灰がブロック状に残っていた。その下はⅢ層と同じ色調を持つ黒色土が続いていたが、PIT 7同様土の絞まりが弱く壁・底面を特定し易かった。また、 III層中には僅かながら摩周b5火山灰も残存していた。構築層- III層中に構築されたものと推測する。」

「土器   第21図3~9は覆土出土土器である。3は第Ⅲ群の土器底部破片。 4~9は第VI群の土器胴部破片である。」

「石器   第21図10は覆土出土の黒曜石製 リタッチド・フレークである。」

「刀子  第21図1は底面出土の鉄製刀子欠損品で、保存状態は非常に悪い。右膝付近で出土。」

「飾り玉 ?    第21図2は底面出土の焼骨製飾り玉? である。頭部付近で確認した。」

「その他   木炭、漆器片は保存状態が非常に悪かった。」

「小括   PIT 7同様、II 層火山灰が残存しており、18世紀初頭以前の墳墓と考えられる。人骨の保存状態は悪かったが、頭蓋骨はほぼ完全な状態で残されていた。大腿骨や脛骨腓骨の一 部も確認できた。埋葬形態は、仰臥伸展葬で、頭位は北方向である。 鑑定の結果、壮年の女性と判明。」

・PIT 14

「B-22区とC-22区の境界付近のI層を掘削中、 鉄鍋破片が出土した。周辺を精査して掘削したところ、人間の頭蓋骨や歯、大腿骨などが確認でき墳墓と判断した。」

「形態   平面形一隅丸長方形。 大きさー長軸 (北東 南西方向) 1.9m、 短軸 (南東北西方向) 0.7m、 掘り込みの深さ-1層下面からの深さは0.2mである。掘り込み形態一壁の立ち上がりはほぼ垂直になると考えられる。 しかし、掘り込みは非常に浅いものであった。 底面の起伏は、南西側 (足) から北東側 (頭部) に向け多少低くなる。」

「層位   表土の1層中のササの根を除去後、 鉄鍋片が出土した。やや下面の黒褐色土中から頭蓋骨や歯、大腿骨などが見つかった。埋土は1層と同じ色調の黒褐色土であった。構築層-I層中に構築されたものと推測する。」

「人骨出土状況   人骨の配置はほぼ埋葬時の出土状況を示していたと考えられるが、一部不自然な出土状況を示す部位も見られた。それは、頭骨部分と大腿骨や寛骨などの (でん)部で、頭骨は粉々に砕けた状態で出土していた。また、他の部位は仰向けで埋葬されているのに対し、腎 部だけははうつ伏せ状態であった。再埋葬を行なったのであろうか。」

「鉄鍋   第27回はPIT 14から出土した鉄鍋片と周辺から出土した破片との接合分布図である。第28図は、その接合した鉄鍋の実測図である。底部のほとんどを欠いていた吊耳鉄鍋で、吊耳の 孔は4つであった。鉉はほぼ完全な状態で残っていた。脚は3本である。墳墓内出土の鉄鍋破片足下に集中していた。」

「装飾品?    第29回は使用目的不明の装飾品? である。銅製の(かすがい)様のものと木製品とで構成されている。 2・3は木製の竹管(環)状製品である。材質は不明である。」

「その他   漆器片。」

「小括    保存状態が良く、ほぼ全身の骨格が残存していた墳墓であった。埋葬状況を観察すると、頭骨と臀部付近が奇妙な埋葬状況であった以外、解剖学的な位置を保っていた。埋葬は仰臥伸展葬、頭位は北東方向であった。奇妙な埋葬状況を示していた頭骨は細かく粉砕した状態で出土した。また、寛骨や大腿骨はうつ伏せ状態(他の部位は仰向け状態)であった。理由は不明である。副葬品の鉄鍋破片の出土状況を第27図から判断すると、 PIT 13同様、鉄鍋1個体を埋 時に入れたのではなく、一部だけを墓内に入れたものである。出土した鉄鍋は吊耳鉄鍋であることから、墳墓の構築時期は18世紀以降と思われる。人骨鑑定の結果、熟年の女性と判明。」

PIT 4(墓)

「C-5区を掘削中、刀の柄 (つか) 並びに鞘(さや)部分を発見した。その周囲を広げたところ、大きなレキを東西方向に2列配石したような形跡が見られた。その内側と刀の周辺を掘削したところ、配石の内側からは人間の寛骨や上腕骨などが、刀の直下からは椎骨が発見された。このため、配石によって区画された墳墓であることが判明した。」

「形態   平面形-2列の配石による区画が見られる。大きさー長軸 (東西方向) 掘り込みが見られないため配石の状態より判断して1.3m、短軸 (南北方向) 0.5m、掘り込みの深さ−上部形態が不明なため確認面からの深さ0.2m。底面の起伏は、西側 (足)から東側 (頭部)に向け多少低くなる。掘り込み形態一不明である。

「層位   表土のI層を掘削した後、 墳墓の埋土とII層との区別が付けられなかったため、刀が発見されるまでは墳墓であることは分からなかった。I層並びにIII層と同様の色調を持つ黒褐色土などから構成されていた埋土であろうと推測する。構築層-I層中の構築と推測する。」

「腰刀   第15図は腰刀拵 (こしがたなこしらえ)の一つ蝦夷拵の柄並びに鞘の一部である。柄頭部分と鍔、刀身はなかった。柄の造りは、茎 (なかご) 部分の支え木 (材質は不明)があり、それを取り巻くように金製の薄板を回す。その上に、装飾として銅製の唐草文の透かしが見られる。鞘は、鞘尻(鐺:こじり)部分が見られなかったものの鞘口部分は残っていた。鞘の造りは、柄同様、支え木(材質不明)があり、それを取り巻くように漆塗りが施されており、一部分に鮫 皮が張られていた。その上に、銅板に銀杏文の装飾が施されている。また、笄(こうがい)や小柄 (こずか) 櫃、栗形、返角(かえりつの) その他付属物の金具も見られた。 刀身の代りに竹光らしき木片が入っていた。材質は不明である。」

「その他   鉄片、木片。」

「小括   上部構造が土盛を伴なっていたものか判断できないが、石で区画された墓であることは間違いない。人骨の保存状態は悪く、比較的状態の良かったのは刀が乗っていた椎骨部分や寛・仙骨部分であった。頭骨などは確認できなかった。 埋葬状態は、仰臥伸展葬と推測する。頭位は東方向である。 人骨鑑定の結果、壮年の男性と判明。詳細については、付編-3 (253頁) を参照されたい。この刀は宝刀と呼べるもので、役付きの人物の墳墓かも知れない。」

・発掘調査報告書上、「装飾品?」の記述がある2基と、特異性のある「配石がある」内の1基をピックアップしてみた。

同書記述でのPIT 11の「垂飾」は注目している螺旋状金属製品ではなかった。記述無かったPIT 14の装飾品も同様。

恐らくだが、遺構外から耳飾と思われる

物が出土しているので、相対的にその様な推定をしたのではないだろうか。

又、PIT 14では表面の火山灰は検出されてはいないが、「吊手鉄鍋」を持ってして18世紀以降の近世墓と判断しているのが興味深い。

この判断は今迄読んだ報告書の中にはなかった。

「まとめにかえて」にはこうある。

「発掘調査の結果、墳墓5基貝塚5基の遺構を確認した。墳墓は男性2基、女性3基であり、 出土場所は標高8mの台地平坦面上と旧小河川を挟んだ標高 5m低位平坦面上であった。台地面には男性2基と女性1基、頭位は女性が北方向で男性は東方向であった。低位面には女性2基が見られ、頭位は北東方向であった。頭位の違いには埋葬時期の違いが考えられる。台地の PIT 4 (墳墓)から出土した腰刀拵 (こしがたなこしらえ)の一つの蝦夷器は宝刀と呼べるものであり、役付きの人物が所持していたものと考える。松浦武四郎の「日記」の中には、オンネペツ土産取エクハアイノの名前が書かれており、役付きの人物がいたのであろう。しかし、この増墓が土産取のものであるかは資料が足りなく言及できない。

貝塚は台地平坦面から低位の平坦面にまで広がっていた。建物出土状況と土堆積状況を観察すると、黄灰色土(チェトイ?)はブロック状に重なって堆積していた。つまり、土の廃棄は数回に亘っており、そこには当然時間差が考えられる。このことは、当地の人間の生活においても時間幅があったことを物語っている。一方、出土遺物を見ると貝塚の一般的な遺物(動物・魚の 骨や貝など)とともに陶磁器や金属製品など和人の製作した生活用品の出土も多い。このことは、当地が和人との関わり合いが多く、接触も度々あった場所であることを示している。

松浦武四郎は「再航蝦夷日誌」の中でオンネベツ川はネモロへの山越えの拠点であったと書いている。また、河野は斜里町史の中で物送り場を18世紀末の飛騨屋造材隊に駆り出されたアイヌ隊が残した痕跡ではと述べている。 つまり、当地にはコタンの人たちだけではなく、和人も何かの形でいたと考えるべきである。

墳墓に埋葬されていた人たちは斜里(オンネペツ)?アイヌであろうが、貝塚がオンネベツコタンの人たちが残したものであるかは断言できない。 確かに、斜里 (オンネベツ)?アイヌが残した貝塚とは考えられるが、和人の手が加わったあるいは、和人との接触の中で残された可能性の方が大である。その理由は、和人が製造した陶磁器や金属製品の出土が多いことが挙げられる。斜里町で発掘されているアイヌ文化期の遺跡、オショロコマナイ河口東遺跡やタンネウシ貝塚遺跡の出土遺物を見ると圧倒的に自然遺物が多く、陶磁器や金属製品などは破片で数点僅かに見られるだけである。この点から考えると、なんらかの和人との接触がなければ当遺跡のこのような出 土状況はあり得ないのではないだろうか。

ところで、陶磁器の中でも特に焼酎徳利の出土が多いのも特徴的なことで、同様な例が苫小牧の弁天貝塚でも報告されている。この報告の中で焼酎徳利が多い理由として、場所請負制によるアイヌの労働の代償として米の代わりに焼酎が用いられたのではないかと考察している。 斜里においても場所請負制は18世紀末から実施されており、その漁場としてオンネベツ川が該当しても 不思議ではない。漁場 (番屋)とは限らず造材の飯場や仮小屋とも考えられ、金属製品の中に鉞や鉈が僅かではあるが見られる点を考慮すれば造材の可能性も強くなる。しかし、造材の飯場は昭和に入ってからもあったことが知られており、ましてや出土した銭や鉈が現代のものと区別が付かないため決定的な資料とは成り得ない。

このように遺構や出土した遺物から考えると和人と斜里(オンネベツ?) アイヌの関係、つまり場所請負制が始まってからの姿だけがクローズアップされ、和人が入る前のアイヌだけのコタンの姿や存在した場所は見えて来ないのである。」

Ⅰ層からは所謂貧乏徳利が多数出土しており、同時2建物跡やコタンの形跡が見られない事から、居住地は別、むしろ場所請負制による共同活動を示すのではないかとした上で、墓の被葬者が本州文化を持つかアイノ文化を持つのかは断定出来ないとしている。

活動時期は18世紀を跨ぐ辺りの様だ。

チエトイ(食土文化)が樺太固有なれば、樺太からの流入も考慮せざるを得なくなる。

 

如何であろうか?

第一回目としてはここまで。

上記の様に、中世墓と区分しようとしても、実際は近世(江戸期)の墓が含まれてしまうのは、こんな風にTa-bら火山灰被覆迄を範囲と取らざるをえない為。

火葬墓の木炭からC14炭素年代を割り出したり出来れば良いが、他に編年指標となるものが無ければ地層から割り出すしかない。

で、見ての通り1cm位黒Ⅰ層が被覆してる可能性がある末広遺跡ですら、上面側に極近い事から火山灰被覆した時期を大きく遡る事はないだろう。

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

「時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ」…

平取の二風谷らも同様。

また、編年といえば、「吊手鉄鍋で18世紀と推定」している斜里町のケースを初めて学んだ。

確かに上記に当て嵌めるとTa-a直下付近の墓で検出されている様ではある。

吊手鉄鍋が何時頃から出回るか?はこれからだが、それを持ってしても中世墓というよりは、近世墓に近い時代背景になるだろう。

その場合、オネンベツ川西側台地遺跡の事例の様に「松前藩士に知行された商場」「場所請負人による運上所,会所」の活動に伴うものとも考えられるのではないか?。

この辺は市町村史らとの整合をしていけば解ってくるだろう。

今後もその辺に注意して確認しようと思う。

さて、話を主題に戻そう。

上記の様に一定数で楕円墓が混ざるのは解って戴けたと思う。

発掘調査報告書中では楕円墓での場合は「副葬からアイノ墓と判断」しているとある。

だが副葬「だけ」からの判断だと今回着目する耳飾,垂飾らの様に、かなり特殊性を持つものがないと難しいのではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−3…東北の延長線上で北関東の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

伸展葬にして、周溝墓にして、内耳鉄鍋や数珠(ガラス玉)や漆器の副葬にして国内にはあるからだ。

まずは何より我々的には、これらの事例の検証や中世墓の状況確認の拡大をしていくだけ。

中世と近世とで如何ほどの差があるのか?

全然違う。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/24/204753

蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる」…

ルイス・フロイスはyezoは秋田に来ていたと記す。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

「ゴールドラッシュとキリシタン-32…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる③&まとめ」…

アンジェリス&カルバリオ神父はyezoは松前に来ていたと記す。

松前藩の成立」を持ってして北海道の近世は開始される。

そして、秋田,津軽,南部に来ることは出来なくなり、各地に場所が開かれる。

通商の民の「商売相手」が変わるのだ。

全く変わる。

 

 

参考文献:

「中世墓資料集成−北海道編−」 中世墓資料集成研究会 2007.3月

「末広遺跡における考古学的調査(下)」 千歳市教育委員会 1982.3.31

「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」(財)アイヌ文化振興・研究推進機構  2001.6.2

「美沢川流域の遺跡群ⅩⅤ -新千歳空港建設用地内発掘調査報告書-」 北海道埋蔵文化財センター 平成4.3.27

 

「オネンベツ川西側台地遺跡発掘調査報告書」  斜里町教育委員会  1993.3 月