2つの仮説…生きていた証、続報2

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/02/192531

「竈」探求の続報2である。
詳細は下記をご覧頂きたい。

雄物川郷土資料館での展示…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1269728046946250752?s=19

羽後町歴史民俗資料館での展示と確認…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1269581346394890241?s=19


現物として、江戸期らに使われていた「置きカマド」に近い物は、極近世の物だが、雄物川郷土資料館に所蔵されていた。
鍋をかける部分は、羽釜以外でも対応出来る様にリファインされていたが、羽釜を直接乗せれば従来竈同様になるだろう。

又、羽後町歴史民俗資料館のパネル、「鈴木家住宅」…
1612年築の曲屋の下に発見された家屋遺構=それ以前の住宅遺構となる。
既に竈としての外観は破損し残されてはいなかったが、土間の位置的問題,焼土跡や炭跡ら遺物で、屋内設置の竈の可能性を示唆させている。
概ね、江戸中期位の曲屋の竈の痕跡を、一気に江戸初期若しくはそれ以前まで遡れるかも知れないと言う事。
実は、この鈴木家住宅には、本人達の家屋,使用人用家屋、2つの家屋が同じ敷地に有ったと古書で伝承されていた。
それを裏付けつつ、二棟くっ付け曲屋とした事も修理報告書にある。
それら時代背景を合わせれば、大体いつ頃なのか?想像出来るかも知れない。

ただ、仮にそれ以前まで遡れたとしても、注意は必要だろう。

豪農故に屋内竈が設置出来た、つまり経済的理由。
②馬屋等、農家の作業の延長線で屋内竈が設置された、つまり職業的文化的理由。
このどちらで、屋内竈が復活したか?だ。

戦国の岐阜城らでは、竈が設置された遺構があると言う。
①の経済的理由なれば、町屋でも豪商らは竈が設置されるだろう。
これが、②の職業,文化の違いなら、町屋なら規模が上がっても、基本的には置きカマドと言う話になっていく。


ただ、これはどちらとしても、我々が探求するヒント…として必要なだけであり、本題的には北海道と東北それぞれどうなのか?の直接的な答えとは違う。

本来、我々が探求する宿題とは…?
北海道住民が住んだと言う住宅「チセ」には、竈の痕跡や使用の伝承が無い…
これがベース。
政府広報らで言われる「これ」が本当であれば、近世アイヌは竈を使わず米を炊いた事になる。外で石組して圧倒的火力にすれば米を炊くのは可能。
ただ、この場合、雨の日は?等不都合が起きるのだが…
暴露すれば…我々は北海道での竈の存在をキャッチしている。

つまり、その竈を使った人々は、近世アイヌとは違う文化を持っていると言う事。
ここで、東北でも中世竈文化が発見出来れば?
そう…北海道には、竈を通して近世アイヌとは「違う文化集団」が居た証明が出来ると言う事になる。
ここで、近世アイヌの先住性は棄却される。
後の松前領以外でも、東北に近い文化集団と近世アイヌは共生していた可能性が浮上してくる訳だ。
これ…北海道史では有耶無耶にされている、「奥州藤原氏」や「十三湊安東氏」らが、そのままの文化で北海道で生き続けた事を示唆させてくる。


我々は一貫している。
北海道と東北は繋がっており、その繋がりが切れた事はない…
歴史に偶然はなく、必然性をもってそこに辿り着く…
この二点。

食文化や武具文化により、北海道、特に所謂蝦夷地に、実は幾つかの文化集団が居た仮説が成り立てば…
ハイ…政府広報はやり直し…
と言うより、北海道史そのものの再構築が必要となってきはしないか?。
近世アイヌ文化だけではない幾つかの文化集団の共生の歴史を、構築せねばならなくなる。誰かの言う事に、間違いか嘘がある…と、言う事だ。


たかが「竈」…
だが、生命維持の根幹「食」に至る部分なのだ。松前領以外の文化が一つではなくなる…
これが如何に大きな問題なのか?
その点については、我々の「仮説」の合理性と共に、現状はこれを読んで頂いた方の判断にお任せする。

我々は「物証」を探し出す宿題を粛々とこなして行くだけだ。