https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
前項はこちら。
先日、筆者は「阿光坊古墳群」と「おいらせ阿光坊古墳館」へ行ってきた。
ここから報告したい。
関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652
十和田大爆発での人々の移動。
阿光坊古墳群は、八戸と三沢に挟まれた「おいらせ町」にあり、
阿光坊遺跡、天神山遺跡、十三森(2)遺跡の総称で、125の末期古墳と8の土壙墓を検出。
遺物らから概ね7世紀初〜9世紀末迄運用され、周溝を伴う径約4~9m×高さ1mの末期古墳が並ぶ。
副葬は太刀や蕨手刀や馬具、玉類や釧、耳環らと周溝部に須恵器や土師器らが検出されている。
筆者的に興味深いのは、
碧玉の石帯円鞆。
被葬者が官位を持っていた可能性が高くなる。
勿論、一個しか出土していないので断定は難しいが、朝廷の官人と関わりが深い可能性は高い。
筆者が資料館巡りをして、この周辺で石帯の出土は六ヶ所村に一例あるので、親朝廷の豪族は居たと考えられる訳だ。
さて…
今回の訪問で最も驚いたのはこれだ。
上が館内のパネル、下が遺跡内の道路状遺構のパネル。
末期古墳の周溝部に遺物の検出がある時があるのは知っていた。
土饅頭は葬祭と副葬を行ってから封印されたであろう事は当然だろう。
出土土層的には、周溝の底部より若干高い位置の場合もある様だ。
つまり、土饅頭を封印した後に一定期間置いてから再度訪れお供えをした可能性か出てくる訳だ。
それは二枚目で補足される。
遺物的には、九世紀終わり頃と合致し、その後この周辺で古墳造営は終焉を迎える…ハズなのだが、915年の十和田大爆発の火山灰「To-a」降灰後にここに人が訪れた事になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652
改めて関連項を。
奥入瀬川流域は泥流発生やTo-a被覆ら被災し、後に主に八戸又は三沢方面へ移動したと推定される。
現実、この周辺には非ロクロ圏の土師器が出土している。
とすると、墓守の為に村に残ったか?移動先からここに来たものと推定されてくる。
「墓参」の習俗を持っていたと考えられるとの事だ。
周溝部への遺物検出がここだけではない事を加味すれば、末期古墳を作った人々は同様に「墓参」していたとも考えられるし、後の北東北人の信心深さは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
中世城館でも館内に塚の造営や館神を祀る習慣を持ち、近世,近代でも古神道の影響と思われる信仰や文化を残す事で概ね納得出来る。
しかも、結界とされる周溝部ギリギリに供える念の入れよう。
蝦夷(エミシ)と言われた人々はそんなものなのだろう。
では、北海道は?
江別や恵庭の古墳でも同様と考えられるだろう。
しかし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033
黄泉がえりを恐れ墓参をしないや、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544
択捉島の十字架の一件は、墓に触る事を嫌っている。
まぁ「送り」に拘るなら、送った後は神の世界へ…とすれば墓参はしないのかも知れず、やはり葬送に於いても、中世の断絶が発生する事に…
考えられるとすれば、
・何らかの外部からの葬送方法流入で、そちらに切り替わった…
・始めから古墳を作った人々とは葬送が違う別の集団…
こんなところか。
現実、末期古墳は存在し、それも古墳群を形成、恵庭では末期古墳と土壙墓が隣接する事を考えれば、後者を想定する事も考えねばならなくなる事になる。
葬送文化の要因は大きい。
集団の死生観の影響を受けるからだ。
葬送についても、少しずつ深めねばなるまい。
さて、筆者のフィールドワークは一箇所で終わる訳がない。
もう一点、考えさせられる事を…
阿光坊古墳群の後に、
・三沢市歴史民俗資料館
・東北町歴史民俗資料館
・十和田市郷土館
この三箇所をまわった。
関連項は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915
こちら。
実は、おいらせ町では鉄滓らの出土は少ない様だ。
だが、フイゴの羽口を竪穴住居の竈の支脚土器に転用される事例があるそうで。
三沢…
十和田…
東北町では近世鉄滓の展示はあり、一帯で古代〜近世に製鉄や鍛冶が行われたのは間違いない。
これ、関連項にもあるように、岩手北部ではそれら遺物,遺構は極端に薄くなり、元慶の乱後の秋田での製鉄拡散の後に、津軽とこの周辺へ伝搬したと考えられる訳だ。
さて、通説では、朝廷の支配権は、志波城や徳丹城の勢力圏迄。
でも、上記の様に「石帯」の出土や製鉄伝搬を考えると、それは本当なのか?と疑問が起こってくる。
実際、それは青森の北の方の資料館でも?と疑問が出たり、よく話をさせて戴く相互フォロワーのファンガンマ様は「秋田城側が支配したのでは?」と仰しゃる。
確かに陸奥按察使は、太平洋側に来た渡島の人々に秋田城へ回る様に指示を出したのは古書に残る。
五所川原窯跡の須恵器が北海道に分布する事を鑑みれば、津軽,糠部共に秋田城側でコントロールしたとしてもおかしくはない。
これも「おいらせ阿光坊古墳館」のパネル。
位置関係が断定出来ないので難しいが、このままで考えれば、始めから糠部周辺と岩手北部の豪族はあまり仲が良かったとは言えなくなる。
それが交易利権に関わる問題であれば、それなりに緊張状態は継続されたであろう。
なら、秋田城経由の製鉄等の伝搬は止められる可能性が出てくるだろう。
経済格差は開く方向。
これらが解消されたとすれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257
安倍氏による攻撃…?
こんな勢力図変遷も、想像を掻き立てられる。
要は、都で書かれた古書よりも、現地の勢力図や支配権らの問題はもっと複雑に入り組み、それを読み解くとすれば、製鉄,須恵器窯、金属製鉄,宗教らの伝搬の解明が必要になるのではないのか?
と、考えるのだ。
少なくとも、これらを見る限り、朝廷城柵の位置で、それ以北と以南みたいな単純な話ではなさそうだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/18/222411
中世化が早く、安倍氏や清原氏の支配地域が他の地域よりべらぼうに広い事も加味すれば、郡らの成立より、そこ場所の土豪を押さえれば、経済的支配は成立するし、それは北海道との交易も含んで来るだろう。
何せ、商売上の品物以外の生活物資らは北東北に依存して、出土遺物の差異が擦文期ではなくなるのだから。
さて、如何だろう?
突飛に見えるかも知れないが、遺物が語る事で解釈すれば、こんな事も想定しておく必要はあるのではないだろうか?
断片ではあるのだが…
まぁ、まだまだ少しずつ、見識を増やして多視点で検証していこうではないか。