ゴールドラッシュとキリシタン18…「カトリック留萌教会」司教が纏めたキリシタン史&我が国の状況は欧州にバレていた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/185916
これは「カトリック視点」でのキリシタン史になるのだろう。
直接の関連項は下記になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/30/195833
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305
史書的に、北海道への「キリスト教伝導は幕末」と言う風潮に、何故カトリックが黙っているのか不思議でならなかったが、やはり纏めていらっしゃる方は居た様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/194346
こんなインタビューをしていた筆者的には、教会が…いや、神社,仏閣含め、昔の門徒の話を全く調べないと言うのも甚だ疑問。
それは置といて…

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 平成七年二月十八日…

留萌の「カトリック留萌教会」のフランシスコ会司祭である「続橋和弘」氏が編集した、主にカトリック視点での年表を纏めてらっしゃるので、要約抜粋してみよう。

・1548~1571年
ニコロ・ランチェット(インド)、
ルイス・フロイス(京都)、
ガスパル・ビレラ(未記載)よりそれぞれ、蝦夷地の状況らをイエズス会経由で報告。
…※

・1612年
江戸幕府キリシタン迫害開始。
多くが東北,蝦夷地へ逃れる。

・1613年
カミロ・コンスタンツォ、堺のキリシタン医師へ教義らを授け、松前へ派遣。
(松前慶広の要請で訪道した「桜井隆二」の事)

・1618年
アンジェリス神父、一度目の訪道。

・1620年
カルバリオ神父、一度目の訪道。
旅行記の中で「蝦夷地では莢果(さやまめ)と稗以外の米や野菜の田畑は無い」と報告

・1621~1622年
アンジェリス&カルバリオ神父、それぞれが二度目の訪道。

・1623年
アンジェリス神父、火刑で殉教。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/09/163326

・1624年
カルバリオ神父、水攻め刑で殉教。
同年、アダミ,ポルロ両神父の訪道の話あり。

・1625年
アンジェリス神父の「蝦夷国報告」がローマとメッシナで印刷され、全ヨーロッパへ配布される。
…※

・1629年
モレホン神父の報告。
米沢藩で6名火刑、これらが「松前カルバリオ神父から洗礼を受けた」と白状」

・1630年
アダミ,ポルロ両神父が津軽に赴き、蝦夷渡航企ての話あり。

・1631年
キリシタンの児玉喜左ヱ門、松前藩金山小吏となる。

・1635年
南部藩の宗門改めで「松前に「伊勢嘉右衛門」と言うキリシタン(司教?水方?)が居ると発覚」

・1639年
松前藩の大沢(50人)、石崎(6人)、千軒岳(50人)が打首刑、所謂「蝦夷大殉教」。
(常磐井武季→高橋陸郎の手紙では、処刑は知内川外で、千軒岳ではないとあり)

・1644年
仙台藩の転び人の白状で、児玉喜左ヱ門捕縛。その後江戸送りとなるも後の消息不明。(様似町史では、児玉は様似のキリシタンナイで捕縛とあり)

・1649年
松前藩、初めて幕府へキリシタン宗門簿を提出。

・1658年
松前地方にキリシタン5名」と常磐井武季の手紙にあり。(転びの5名?)

1671年
松前藩の「宗門制度」完成。

・1673年
改めて、松前藩キリシタン宗門を厳禁と触れを出す。幕府へ「古切支丹類族帳」提出。
松前では、キリシタン本人より上二代、下五代を「非人扱い」とした。

・1682年
改めて禁教高札。
訴え者への報償金制度確立。

・1687年
松前藩キリシタン調査状況を幕府へ報告。
因みに類族死亡時は塩漬けにし、宗門改方の指示を仰ぐ指示を出す。

・1691年
宗門改時、名主と五人組は寺判を示す様に通達。

・1692年
幕府へ「古切支丹類族帳」提出。
この年の家老松前広時の日記の約一割はキリシタン関係だったと松前町史にあり。

・1697年
宗門改が年一度十月に行われる事になる。

・1716年
松前町史ではこの年から1735年(享保年間)に松前ではキリシタン消滅とあり

1717年
松前藩、宗門改激化。
翌年迄行われた「幕府巡見使」報告には、キリシタン1名類族40人の発覚記載あり。

・~1729年
五人組制、全和人地へ拡大。

・1747年
カムチャッカのホコウンチェウスキーがイヲサブ司祭を幌筵島派遣、56人に洗礼。
北方領土へのロシア南下とロシア正教拡大の論文あり。

・1753,1754年
宗門改方は槍の携帯を許可される。
宗門改実施。

・1766年
宗門改についての報告の為、家老の蠣崎広富,寺社奉行の氏家直堅が江戸へ。が、宗門改が甘いと昼の出入りを禁じられる。

1780年
松前沖ノ口で切符発行。
要は船乗への宗門改実施開始。

・1799年
幕府は蝦夷地全土に「三条の法」発令。
その一つは「邪宗門に従う者、外国人に従う者、其罪重かるべし」

1802年
蝦夷地直轄に伴う函館奉行設置、翌年松前キリシタン取締強化指示。
(既に千島にロシア正教広まりつつあり)

・1804年
有珠善光寺で宗門改実施記録あり。
三官寺創建。

1828年
宗門改実施。

1829年

「一八二九年(文政十二年)
十月二十八日、切支丹類族であった炭焼沢の万太死亡につき検使を派遣し、死体を二重箱に塩詰にして仮埋。」
「一八三〇年(天保元年)
二月十三日、前記の万太土葬せよとの幕府からの指示がでる。三月十九日、万太の死骸を正行寺に葬る。万太に関する記録は林家文書「日記」による。」

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 平成七年二月十八日 より引用…
続橋司祭は、これを持って北海道のキリシタン消滅と考えている模様。

・1843年
宗門改が寺の和尚へも及ぶ記録あり。



大きな処を抜粋した。
もう天保年間、幕末…この辺で良いだろう。
東北にも、宗門改の記録や古書古文は残るが、概ね1700年をボーダーラインとして鉱山含め見掛け上キリシタンの痕跡は消える。
ある意味完全に潜伏化したとも言える。
だが、上記通り松前藩は対応に苦慮し、戸籍を扱う寺の和尚迄も宗門改の対象にしていた。
以前の項の様に、1800年近辺で松前藩は片っ端から寺社改築をしているが、これとの関係は?
これをどう考えるか?
とっかかりから、こんなもんである。
キリシタン…いや、カトリック教徒か居なかった?居ないなら、苦慮しない。
これがカトリック教視点から見たカトリック史。


それと、江戸初期で「…※」を末尾に付けた部分は、国外へのイエズス会からの報告になる。
早い話、我が国,蝦夷地の状況は、ヨーロッパへ筒抜けだった事になる。
ゴールドラッシュの話も、カトリック教徒が大量に居た事も、全て印刷された書物で情報が漏れていた。
通りで、オランダが江戸初期に、金銀島探索と船を回したり、択捉島へ拠点を作ろうとする訳だ。
勿論ロシアにしても、東へ進みさえすれば毛皮も手に入るし、何れは千島~北海道へ至る位は、詳細地図が出来て居なくても理解可能だったと言う事だ。
鎖国だったから…いや、それを強化する前に既に、バレバレ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/24/195310
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
これらも印刷物が出回っている以上、これは事実と受け止めねばなるまい。
そして、江戸中~後期にイギリスから始まる産業革命で、我が国とヨーロッパの兵力は逆転し、ロシアは何の脅威も感じず南下可能となった。
黒船の時代の到来。

海があるから安全…
鎖国していたから安全…
これが大間違い。
冷静に考えて戴きたい。
既に大航海時代を経ている。
海の漢にしたら、海は巨大な道に過ぎない。
それがシーパワーの視点。
ランドパワーの視点とは、真逆なのだ。


これは現代にも通じるだろう。
この時代は船だった。
先の大戦では航空機だった。
現代ではそれらに加えミサイル迄ある。
海が全てを守る時代は中世には既に終了している。
で、ロシアはこの時代南下顕著で、脅威と幕府には見なされたが、現代の我が国は無事か?
尖閣,沖縄、北方四島,北海道…
丸っきり構図は変わっていないと思うが。
歴史に学ぶ事、それは教訓を取り出す事。
明治で一気に富国強兵を行わざるをえなかったのは何故なのか?
考えてみる良い機会かと考える。
現代人は甘過ぎる。


さて、どうだろう?
筆者としては、要約しながら既成概念が壊れていったが、読んで戴いた方は如何であろうか?
だが、まだこれも序章程度に過ぎない…と、言わざる終えない。



参考文献:

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 平成七年二月十八日