秋田に於ける「末期古墳群」の意義…「蝦夷塚古墳群」「岩野山古墳群」とその終焉、北海道の関係は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
たまたまであるが、SNS上で話をさせて戴いた中で、末期古墳についての話題があった。
秋田でも古墳は24位検出する様だが、勿論前方後円墳の様なものではなく、終末古墳や末期古墳と呼ばれるもの。
石室を備えるや横穴を持つこともなく、周溝を巡らし土饅頭を持つ様なもので、県内でもあまり目立つ存在ではない。
だが…
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それを江釣子古墳群らと接続してみると、その意義が解ってくる。
では、それがどんなものなのか?
各資料館常設展示から2つの古墳群を見てみよう。

A,蝦夷塚古墳群
雄物川郷土資料館」の常設展示より…



八世紀中期以降の物とされる。
17基の小円墳が検出し、勾玉や鉄鏃らの副葬を伴う。
被葬者は不明だが、地元の土豪ではないかとされる…と、ここで終わったらそれまで。
館員さんへ質問してみる。
759年に築城されたとされる「雄勝城」との関連を研究者達はどう見ているのか?
ご覧の通り、成立時期はほぼ被る。
現状では、明確に被葬者と雄勝城を繋げる様な副葬らの遺物は見つかっていないそうだ。
但し…
①1基、5㌢超の大型勾玉を含む装飾(現在、東京の国立博物館にある)をされている被葬者があり、他の副葬と異彩を放つ…
蝦夷塚古墳群から数百m先に大型倉庫跡と思われる遺構があり、旧雄物川の川筋が目と鼻の先…
③それまでのお墓の形態が「土壙墓+屈葬」だったのが、ここから「小円墳+伸展葬」へ変化しており、南東北の葬送法の影響を帯びると考えられる…
これらから、雄勝城と関連がないとは考え難いと思われる様だ。
何より、
④まだ雄勝城そのものが見つかっておらず、その全貌が不明…
ここが大きい。
昨年の発掘調査で、官道と考えられる遺構が見つかり、少しずつ雄勝城へ近付きつつあるが、その発見がまずは先。そこから研究が更に深化していく事になるだろう。
現状はここまで。

B,岩野山古墳群
五城目町 「文化の館」常設展示より…



ここでは12基の古墳が検出され、8~9世紀のものと考えられている。
勿論、蝦夷塚古墳群同様に伸展葬で、木の棺と思われるものもある。
1号墓の副葬の一部が上記。
蕨手刀や毛抜型太刀を副葬、何より束帯姿の腰帯に付けられる部品「石帯」を持つ。
これは官位を持つ者しか許されていない、つまり「官人」だと言う事になる。
12基の内、3基の被葬者が「官人」ではないかと推定されているとの事。
展示パネルでは「元慶の乱」の時に、秋田城側についた地元土豪ではないか?と推定する。
それもそうなのだ。
この近隣には、


秋田城の出先機関秋田郡衙」と考えられる「石崎遺跡」や、


祭祀や生活に関わる遺物を伴う「中谷地遺跡」が隣接する。
ガチに「朝廷」に関連した「官人」を中心とした人々の墳墓群と考えるには易しいだろう。

この時代の後に、古墳群は殆ど検出されなくなる。
それは、ステータスの高い人物は「仏法」の影響で火葬らが広がっていく。
周溝墓をどう捉えるかで諸説あろうが、「岩野山古墳群」が終末古墳群,末期古墳群と言われるものの終焉を飾るトリ…とも、言えるのかも知れない。
それが秋田に於ける古墳群の意義。

では、そんな視点で北海道を見てみよう。
勿論、擦文文化期になる。
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江別,恵庭古墳群はこんな感じ。
若干周溝が楕円との指摘もあるが、大きさや副葬は同様の傾向。
造営は8世紀と、むしろ「岩野山古墳群」より古い事が考えられ、同時期陸奥国側の副葬の豊かさをトレースする。
で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
そもそも擦文文化とはこんな風に、東北からの文化伝播や移住に伴い出来上がったと言うのが、最新研究結果だろう。

更に、

これは余市町「大川遺跡」の1989年概報より。
見ての通り、続縄文迄は「屈葬」だったのが、擦文文化期辺りから「伸展葬」に切り替わって行く様が見れよう。
こんな変遷を辿る。
東北での古墳群造営に伴う「伸展葬」の拡散とほぼ時を置かず、文化伝播と移住、そして「伸展葬」が広がる。
上記の通り、擦文文化がどうやって出来たか?を鑑みて、この「蝦夷塚古墳群」そしてその終焉たる「岩野山古墳群」から紐解けば、南東北→北東北→北海道へ伝播、そして朝廷側についた土豪の影響が極めて高いと言えるのではないか?

古墳とは、そもそもそんな性格のものなのであろう。
まぁ「諸説あり」。
だが、上記は考古学に身を置く研究者なら知っている。


そして…
擦文文化期の後に「アイノ文化期」でも「伸展葬」であるから「擦文文化人がアイノ文化人の担い手だと言う論」をするなら、上記は一片たりとも無視出来ない事になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
金田一博士は地域差、文化の支流にすぎないと指摘し、独立したものではないとしている。
それは、奇しくも金田一博士が熟知しない「古墳を中心とした考古学」にも現れているとも言える。
少なくとも、金田一博士が言う「消えた古蝦夷語」を駆使していた「口蝦夷」に限ると限定しても…


さて、上記古墳の話は、北海道において「先史時代」とされる、古代の話。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
他の北方文化のテイストが加わるとしたら、空白の中世「以降」でしか有り得ない。
そこ迄は、極東北に近い文化で暮らしていた事になる。
だから、差異が生まれるとしたら、中〜近世しかない…と、言う事になるだろう。
それがどうやって入ったのか?
それは「解らない」だ。
遺跡が無い故に…