古代東北に「渡来系」はどの程度関与したか?…陸奥国司,出羽国司に任官された「百済王氏」の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録」…

日本最初の産金の立役者は「百済王敬福」で陸奥国司経験者。

「秋田城跡歴史資料館」の展示、「第11号漆紙文書」。

「出羽守・介が署名した解文

「解」と呼ばれる下級役所から上級役所へ提出する文章です。出羽守(長官)の「小野朝臣竹良」と出羽介(次官)「百済王三忠」が署 名(サイン)しています。ともに歴史書にも名前が記録されている人物です。しかも二人がサインをしていることから、ともに秋田城に駐在したことがわかります。

二人の在任期間から天平宝字年間の三年(七五九年)までに書か れたものと考えられます。文書は、出羽国陸奥国を取りまとめる 「按察使」に出されたものかもしれません。」…

この通り、出羽国介として「百済王三忠」が秋田城に在任していた事が漆紙文書に残され、それは他の古文と整合出来ている。

では、東北に於いて渡来系の関与はどの程度あったのか?

この際史料集から辿ってみようと思う。

「奥州藤原史料」より…

この史料集はSNS上で歴史学者の野口実氏が使っていると上げていたが、按察使についての話だったので取り寄せてみたところ、平安までの按察使だけでなく鎮守府将軍,陸奥国司,出羽国司がリストアップされていた。

ここから百済王氏を抜き出してみよう。

名前の左は、(守)→国司、(介)→国介である。

 

陸奥出羽按察使

按察使には記事無し。

 

鎮守府将軍

・(副)百済王俊哲宝亀11(780)年

・(權副)百済王英孫…延暦4(785)年

・(副)百済王俊哲延暦6(787)年に解任記述

百済王俊哲延暦10(791)年

百済王教俊…大同3(808)年(見)

 

陸奥国

・(介)百済王敬福天平10(738)年頃

・(守)百済王敬福天平15(743)年

・(守)百済王敬福天平18(746)年

・(介)百済王教俊…大同3(808)年

 

出羽国
・(介)百済王三忠…天平宝宇4(760)年(見)
・(守)百済王三忠…天平宝宇7(763)年
・(守)百済王文鏡…天平神護2(766)年
・(守)百済王武鏡…宝亀5(774)年
・(守)百済王英孫…延暦4(785)年
・(守)百済王聴哲…延暦16(797)年

・(守)百済王教俊…弘仁3(812)年

 

以上。

さすがに陸奥と出羽の調整を計る按察使には任じられてはいない様だが、陸奥国司、出羽国司、鎮守府将軍にその名がある事が解る。

影響を見るにはちょっと解り辛いので、時系列に並べ直そう。

※に、今迄取り上げた事がある事象を付記する。

 

・724…多賀城築城…※1

・733..出羽柵北上…※2

・738頃…  百済王敬福陸奥国

・743  百済王敬福陸奥国

・746  百済王敬福陸奥国

・748  百済王敬福涌谷町黄金山からの砂金を上納…※3

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録…」

・759  桃生城、雄勝城築城…※4

・760  百済王三忠…出羽国

・760頃 出羽柵→秋田城へ改称…※5

・763  百済王三忠…出羽国

・766  百済王文鏡…出羽国

・774  百済王武鏡…出羽国

・同年  桃生城襲撃事件、775に鎮圧…※6

・780  宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)勃発…※7

・同年  百済王俊哲…副将軍

・785  百済王英孫…權副将軍(5月任)

・785  百済王英孫…出羽国司(9月任)

・787  百済王俊哲…副将軍(解任記述)

・789  巣伏の戦い(阿弖流為蜂起)…※8

・791  百済王俊哲…将軍

・797  百済王聴哲…出羽国

・801  坂上田村麻呂、征夷終了報告…※9

・802  鎮守府胆沢城築城…※10

・803  志波城築城…※11

・804  払田柵築城?…※12

・808  百済王教俊…将軍(見)

・808  百済王教俊…陸奥国

・811  文屋綿麻呂による征夷軍活動…※13

・812  百済王教俊…出羽国

・同年  徳丹城築城…※14

 

各城柵築城、産金、陸奥国38年戦争について付記した。

一応、念の為。

鎮守府将軍については、同書一覧に従ってリストアップ。

鎮守府胆沢城が築城されたのは※10の延暦21(802)年。

鎮守府に着任し、そこで直接政務を取る役職になったのはその後になるだろう。

百済王敬福の産金だけでなく、各城柵の築城の頃に着任していたり、陸奥国38戦争時に従軍しているのが解る。

それぞれがどんな政策を行ったかは、同年の行政文書らを追う事になるが、その辺は後で。

ただ、秋田城改称の頃となると、渤海との外交施設機能を持っていたのは間違いない。

また、38年戦争で鎮守府に関わりを持ち、幻の城柵「払田柵」築城の前後頃に鎮守府に居たのも間違い無さそうだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331

「幻の城柵「払田柵」…羊蹄柵が有り得る根拠」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045

「秋田の石積み構築年代上限と「和鏡探し」の特別ミッション…秋田県南を回れ!、そして宗教的背景を探れ!!」…

 

東北史に於けるターニングポイントに東北に居たのは間違い無さそうである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録…」…

これにある様に、百済王敬福は信頼出来る従者を上総から呼び寄せているので、それらが活動を行う事もある訳で。

それらの中に、現在追う「石積み,石垣」や「修験の活動」「製鉄,精錬」に関わりが出る内容が出てくれば、関与の度合いは出てくるかも知れない。

 

まずは備忘録である。

 

 

参考文献∶

「奥州藤原史料(東北史史料2)」  東北大學東北文化研究會  昭和53.9.10