飛島の歴史と「水中考古学」の可能性…飛島の謎-その3

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ここまでバタバタと庄内地方と飛島について学んでみた。

一応、飛島の歴史も触れておこう。

前項の「飛島の歴史・民俗資料展資料」の略年表(写真は酒田市立資料館常設展より)に加筆。

 

・縄文期…

葡萄岬遺跡(草,前,中期)、柏木山遺跡(中,後,晩期)等検出。

 

・弥生~古墳期…

現状未検出。

 

・平安期…

狄穴洞窟遺跡検出。

 

・不詳…

館岩の石塁造営。

 

・鎌倉~室町期…

銅鏡や古銭検出。

 

・1533

由利十二党の小笠原家保、飛島攻略。

 

・1543

庄内の武藤義増、飛島奪還。

 

・1559

小笠原重挙、飛島攻略。

 

・1597

上杉方の本庄繁長、庄内攻略。

この辺りで小笠原光繁が飛島主膳正を名乗ると言う。

 

・1601

最上義光、庄内占領。

 

・1602

由利郡が最上領となる。

 

・1603

永田勘十郎、飛島年貢でイカ24梱(48000枚)を徴収

 

・1622

最上家改易に伴い、酒井忠勝入部で庄内藩成立。

 

以上、庄内藩成立まで。

これしか書いてない。

考古学的に検出がある北海道の方がマシかも知れぬ。

現実に、離島という事もあり、地域研究以外での検討,調査が限られるというのが実情の様だ。

庄内藩成立以後は記録に登場し、生活の一面らは解って来ている様だが、それ以前が殆ど解らない。

仮に飛島が防塁や監視台の機能を持つとして、奈良,平安期なら国衙「出羽柵(城輪柵)」が対岸にあるので、狼煙らで連絡が取れれば…

それとて、記録がある訳では無さそうなので、平穏無事と言う事になるのか。

庄内藩成立と西廻り航路開発後は、皆さんご存知の通り起点酒田港の風待港や避難港として機能し、略年表の様にイカやタラ、鰤らの水揚げ,租税記録があるのでその姿は概ね解る様だ。

弥生,古墳期の空白や中世での痕跡が薄い事から、むしろ定住地ではなく漁師の島として漁場の基地的使い方をしていた様な記載もある。

島の歴史そのものの調査が薄いのもあるが、ならそれで良いのか?…我々的には「違う」だ。

そんな視点での論文を紹介しよう。

 

「ここ庄内に於いて縄文時代に大陸文化の流入があったことを裏付ける遺物が出土したり、国内の遠方からも盛んに交易があったことを伺わせる資料が出てきたりしている。この広範囲な交易交流手段は、海上路を考えるのが自然である。〜中略〜縄文時代から現代まで人々が舟(船)を使って日本海を動いていたことを知ることが出来る。そして当然ながら嵐などに遭遇して難破沈没した舟も数多くあったと考えられている。」

 

「庄内沖から引き上げられたやきもの」  酒井英一  『山形考古学 第22号』  2006.7.20  より引用…

 

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我々も言い続けて来た事だ。

 

本論文では、庄内沖から引き上げられたやきものについて報告している。

 

①近世陶器…

昭和60.4月、飛島沖で底引き網で引き上げられた溲瓶。

高さ24.3cm、最大胴径18.2cm。

江戸後期、鹿児島の熊野焼と推定。

 

②中世陶器…

昭和40年代に温海沖の底引き網にほぼ完形で引っ掛かる。

高さ39.7cm、最大胴径33.9cm。

「綾杉文壺」で14世紀前半の珠洲焼。

 

③古代須恵器…

昭和44年、平成10年にそれぞれ飛島東沖と飛島沿岸で引き上げられる。

一方は酒田市立資料館で常設展示中。

双方とも8世紀前半位の物と比定される。

 

「庄内沖の海から引き上げられた、いわゆる海揚がりのやきもの4例を紹介したが、生産地や時期については考古学的な検討不十分なまま、大まかな見通しとして記した。

庄内沖の海底には考古学的に取り扱うべく多くの資料がまだまだ眠っていると思われるりまたもう少し漁師さんの家々を丹念に調査すれば現存する資料が眠っていると推察される。集成し検討するための基礎的作業を続けていき、ある一定段階で生産時期や生産地、海上輸送や交易の問題などの考察を行いたい。」

 

「庄内沖から引き上げられたやきもの」  酒井英一  『山形考古学 第22号』  2006.7.20  より引用…

 

如何だろうか?

江戸期の風待港の性質上から考えても、それ以前から突然の天候悪化らでは飛島への回避は行われていて然るべき。

とすれば、飛島沖には辿り着く事が出来なかった難破沈没船がかなりの数、海底に眠っている事だろう。

交易船と考えれば、ルートは飛島と本州の間にある程度限定されるであろうから、必然沈没船が眠るのは飛島の東沖…

「飛島誌」上では、貞享二(1685)年以降の破船年表が記載されるが、命からがら飛島へ辿り着けた数だけでもかなりになる。

それ以外は不明。

古代〜中世の交易実態は明らかではない。

最も正確にそれらを導き出せるのは沈没船や積荷をダイレクトに確認する事だろう。

当然それは、狄穴洞窟遺跡や館岩の謎に迫るだけではなく、日本の経済を動かした日本海ルートの実態解明に繋がる。

「水中考古学」の出番しか有り得ない。

それは当然、北海道やそれ以北、渤海らとの関係の全容解明に繋がる事になる。

最早民間交易迄に及んでいたなら、公式な史書記述を凌駕する程の遺物が眠る事も想像に易しい。

まだ、全く全容が掴めていないのだから。

陶磁器含めたやきものだけでなく、砂金らが発見されて産地特定迄至れば、場合によっては日本史がひっくり返るポテンシャルもあるだろう。

今後に期待するところだ。

 

 

 

 

参考文献:

 

「ニューとびしま就航一周年企画展 飛島の歴史・民俗資料展資料」 酒田市立資料館

 

「飛島誌」 長井政太郎 国書刊行会 昭和57.11.30

 

「庄内沖から引き上げられたやきもの」  酒井英一  『山形考古学 第22号』  2006.7.20