ゴールドラッシュとキリシタン-33…「大籠キリシタン資料館」で学ぶ「江戸初期の宗教的状況」と時宗の板碑、そして北海道への検討の為の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

久々にキリシタン系のの学びを。

今回はあくまでも、検討可能かの備忘録。

手掛かりになるかは、全くの未知数だと言う事をご納得戴きたい。 筆者は久々に一関市藤沢町大籠の「大籠キリシタン資料館」を訪れ、学んできた。

前回報告の様にこちらでは、 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/190920

キリシタン遺物やレプリカの展示と共に、

・処刑と言う名の殉教の状況…

・それが行われた背景…

キリシタンがもたらしたものは?…

らを説明している。 キリシタンを取り上げる資料館らは少ない中、筆者にとっては是非とも見ていただきたい資料館の一つ。

ともすれば「弾圧」ばかりに焦点が当てられ、感情的な話ばかりになる話題だが、ここの展示はそんな薄っぺらいものではない。

 

大籠キリシタン資料館展示パネルより…

「江戸時代初期に大籠にあった寺や神社がキリスト教の隆盛によって衰退したと、大籠風土記は伝えている。現在も大籠地区には寺が存在しない。」 

 

展示パネルにある様に、最低近隣の一社三寺の寺社が江戸初期段階で途絶え、それがキリシタンの隆盛によるものとしている。

藤沢町文化振興協会発行の「大籠の切支丹と製鉄」によれば、

・明泉寺…

平治(1151~1159)開基で山号は「黄金山」、慶長年中(1596~1615)にキリシタンにより廃絶

大聖寺

元和年中(1615~1620)に住職が追い出される

神明社

キリシタンにより碑が汚され境内に埋められた上、寛永年中(1624~1643)に宮司が社田や屋敷を奪われ栗原に逃れた

・了角寺…

元弘(1331~1333)開基で山号は可汗山、1387に時宗へ改宗、キリシタンにより廃絶

と、かなり明確な伝承が残される。

寺社が消えた後に「切支丹宗門改」は近隣の時宗長徳寺や曹洞宗大悲寺が行った記録が同書に記載される。

また、保呂羽の大峰派修験、大兵院の法印が、慶長元(1596)年に天草へ行き洗礼を受け、祈祷にキリシタンを取り入れたが、禁教令下で成敗された伝承もある。

前回も述べたが、天下人である秀吉や家康が最も激怒且つ危惧したのはこんな従来秩序の破壊であろう。

秀吉のバテレン追放令の一項目はこれ。

こんな背景をちゃんと展示している。

実はここ大籠に縁あるバテレンはパラヤス神父。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/02/193254

ここを訪れたとされる。

 

また、キリシタンがもたらしたものは、

ズバリ「製鉄技術」。

元々葛西氏家中の「千葉土佐」が備中の千松大八郎,小八郎兄弟を招聘し製鉄工房を開き、キリシタン宗門を広めた伝承から話が始まる。

この千松兄弟の実在を否定する学者も居るとの事だが、事実として葛西氏統治時代に始まり、伊達氏時代に隆盛し、近代迄伊達領最大級の鉄の産地だった様だ。

 近隣の村々ではそれまで凶作らに悩まされた様だが、その製鉄によりそれから開放されたのは事実だろう。

簡単に説明した。

ここまでが、実は前提。

 

前回の訪問で、キリシタンによる寺社荒廃が起こった事は学んでいた。

ここで何か指標になるものは無いかと考えての復習であった。

探していた事例はいきなり見つかった。

一つは上記にある神明社の碑の様に、汚され埋められた、と言うもの。

もう一つは下記になる。

 

「平成4年7月に金文字の板碑10基が、旧墓地の上方にある杉山の際の崩落部かは重なった状態で発見された。なせ重なった状態であったか、大きな疑問である。」

藤沢町の板碑」 藤沢町教育委員会 平成14.10.1 より引用…

 

先述の様に、この周辺には時宗のお寺があり、了角寺の様に時宗だったが廃絶されたところもある故か、板碑が残される。

引用した「大松寺(上記大聖寺と同一)跡」の事例は、キリシタンにより廃絶させられた廃寺跡とされる場所から、昭和30年頃から出土記録が始まり、平成4年7月に10基重なった状態で出土、合計79基、断碑も含めると144基で種子が判読可能なものも120基に及ぶ。紀年判別可能な年代は1395~1471年に渡る。

板碑は上写真の様に、天然石のまま使用される所謂関西型で、宮城らに多い関東型(頂点は三角型に成形され二本横線を刻線)ではない。

中には「金装板碑」も含む。

出土と言う事は、一つ目の事例同様に地中に埋められた事になるのだろう。

なかなか熾烈である。

激化した信仰は、先祖が眠る板碑までも否定してしまった事になるのだから。

盛った数字とはいえ、最盛期3万人を誇ったと言われる大籠。

皆で熱狂してしまうとこうなるものなのか?

これを学べば、秀吉や家康が警戒したのも納得。

 

さて、ここから先は推察や想像の域を出ない。

筆者の売りは機動力だが、さすがにフィールドワークでそんな痕跡を探すのは厳しいからだ。

こんな話を知っているだろうか?

 

「北海道の板碑は南北朝期の貞治六年半.一三六七)以降のものが、函館市及び亀田郡戸井町と網走市の三箇所に計四基遺存し、中でも網走の一基は道北東部に孤立しているだけに、存在自体が強いインパクトを与える。」

網走市街の南側丘陵地に桂ケ岡公園があり、園内高台には史跡指定のアイヌのチャシコッ(砦跡)とその北隣に赤い円屋根をした網走市立郷土博物館が建っている。板碑は同博物館の二階展示室に、オロッコ人やギリヤーク人などの北方民族資料と共に公開されているが、実はこれはレプリカであって、本物は同館の金庫に保存されている。博物館の御厚意により調査は勿論本物を対象に計測、手拓等を試みることになった。

板碑の本体は縦二八・三㌢、横一六・五㌢、厚さ一・九㌢と意外に小形であり、簡単に持ち運びも可能な大きさである。下方を欠失し、周縁部も損傷していることから推察すると、原形はもう一回りぐらい大きかったものと推定されるが、頭部の山形やその下に来るべき横二条線の形跡は、正面・側面とも認められない。身部の郭線も無いようである。従ってこの板碑は頭部山形と横二条の切り込みを有する所謂青石塔婆形式の板碑とは異なる自然石板碑であり、石質は下部左側の大きく欠失した箇所等から見て、関東地方の同遺品に多用される緑色片岩と考えられる。

次に、この板碑の内容表現であるが、正面主要位置に主尊として異体形のキリーク(阿弥陀種子)を蓮座上に顕刻し、その下に三茎蓮の花瓶一個と両側に「 永」「升四」と刻銘している。そのまま解釈すれば、この板碑は室町時代の応永廿四年(一四一七)に造立されたことになるが、「 永」を元号とすると両字間が離れ過ぎていること、また、「升四」の方は年字を欠くなどの疑念もあり、応永年問の何月廿四日と解することも強ち間違いとは言えない。」

「今より丁度八十年前の大正五年に網走を訪れた清野謙次博士は、地元の郷土史家米村喜男衛氏の案内で板碑を親しく実見され、その所見を『民族』(三ノ三)に発表された。これによると、現存の板碑は明治四十三年頃に地元住人の玉木久次郎氏が網走洋字マルマトマナイの地中から、下部欠損した金属製の瓶(現在行方不明)と共に発掘した由である。清野博士が板碑の発掘地として報じたマルマトマナイは、江戸時代後期にこの地を訪れた松浦武四郎の『蝦夷日誌』(安政五年、一八五八年)に「クロマトマナイ(左リ小川、左右共雑木立)」とあり、昭和三十三年発行の地元『網走市史』上巻では「車止内」に訂正された。

車止内は東に潮見、南は八坂、西は天都山に囲まれた広い地域で、現在は水路改修のため昔日の面影も薄らいでいるが、当時は中心部を流れるクルマトマナイ川が商都山の湧水を合流し網走川に注いでいた。また、発掘者の玉木氏は車止内に旧在した北楽園という庭園の庭師で、園内の大木を倒した際にその根元付近の地下から、板碑が下部欠失した金属製の瓶と一緒に発見されたことなどは判明したが、発掘時の記録は無論存せず、当時を知る人の生存も得られない。したがって、板碑の発掘箇所を具体的に検証することは最早不可能であり、玉木氏子孫の消息も定かでない。

ただし、発掘地に関連して注意すべきはクルマトマナイの地名が、アイヌ語で「和人の女が住んでいるところ」を意味することである。このことはいうまでもなく発掘された板碑が網走かその周辺で和人によって造立されたことを示唆するものとして興味深い。清野博士もこの点に注目されて、「若し好事家があって、之が内地からマルマトマナイに一板碑を明治四十三年より以前に故意に埋めて置いたと云ふ事実の根接が無い以上、此板碑は応永年間に網走か或は網走に近い所で日本人の手により造られたものと信ず可きである」と結論づけられた。そうなると、板碑が造立された応永年間にはすでに和人、中でも仏教文化の保持者が網走地方に移住していたことになるわけで、この点は南北東部への和人の移入を十七・八世紀頃とする北海道通史の理解と大きな隔たりをもっことになる。すなわち、北海道が蝦夷ケ島、蝦夷ケ千島と称されていた鎌倉時代にすでに和人の移入が認められるにしても、それは道南部の僅かな一角であって、江戸時代に松前藩が成立した当初においても本拠の福山を中心に東西各二十五里、東は汐首岬付近まで西は熊石に至る海岸線を松前地と称し、亀田と熊石に番所を置いて和人は松前地にのみ居住を許可した。

車首岬以東は東蝦夷地、熊石以西を西蝦夷地と呼んだが、中でも東の襟裳岬と西の神威岬を境にこれより奥地は奥蝦夷地であって、北見・網走地方への和人の移入は寛文九年(一六六九)のシャムクシャインの蜂起鎮圧後、松前藩の支配が厚岸方面まで拡大した十七世紀後半とするのが穏当であろう。シャムクシャインの戦後近江商人蝦夷地への進出は一層活発化するから、交易を目的に来魅しそのまま定住した者も居たと考えられる。いずれにしても地元『網走市史』が「しかしなお板碑の発見だけをもって応永移住を断定するには多くの困難があろう」と慎重な態度を示しているのは、右のような事情が存するからである。」

 

「北海道網走の板碑 -板碑の北限探査紀行-」 播磨定男 『徳山大学論叢』 1996年6月  より引用…

 

実は、網走で板碑の出土があり、レプリカがこの段階で公開されていた。

先に確認していた清野博士は、地名らから網走周辺で作られたものと結論付けたが、網走市史では慎重、播磨氏も本州から網走への移入を鑑みれば、後代持ち込まれた物とするのが穏当としている様だ。

まぁ判断としては妥当なところだろう。

筆者もこの一個の出土で、清野博士の言う通りだと言うのは難しいと考える。

何より、出土状況が全く解らない。

 

ならば、板碑の背景から考えてみようではないか…

と言う訳で、お解りだろうか?

基本的に板碑は、時宗門徒のお墓又は、生前に死後極楽浄土へ行くことを願い建てた物。

わざわざ、他所に運び込む様な主旨の物ではないと、この論文を読んだ時から思っていた。

筆者の知る限り、板碑は風雪に耐えながらその場に設置されている。

当然なのだ。

先祖の墓石を持ち歩きはしない。

新たに建てるにしても供養の意味で墓域に建てるだろう。

なら本州で板碑が埋められたり、粗末に扱われた事例はないかと探していた。

で、大籠へ…見事にヒットした。

考えられるのは、

①天災らで墓域が埋まり、板碑が地中へ…

先行者の墓域へキリシタンが入り、地中に埋めた…

大籠の事例は②に当たる。

松前藩は1700年位の段階で幕府に対し、「往古、夷狄と本州人は混雑し暮らしていたが、後に居住地が分かれた」と報告していた気がするが…どうだろう。

松前氏は北海道の隅々をよく知らなかったのは、後に探索させた事から想像出来る。

知っていたのは?

大殿の安東氏では?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/21/194111

こんな人物がいるのだが。

よしんば、これが本州人ではなくとも、北海道在地の人物が時宗を信仰すれば、板碑は建てる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

何せこれだ。

実際、

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1650103856758677504?t=CU5RJ2Z505Tra2QKKdfH3A&s=19

幕末までキリシタン信仰を持つ者が居た可能性もある。

伝承なら上記クルマトマナイだけではなく、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/24/111811

よりダイレクトなものやズバリキリシタン伝承に至るものも。

実際、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835

司教目線なら、近い風習も残っていたと言う。

不思議なのだ。

北海道へ福音をもたらしたのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

カトリックだろうに。

そうでなければ、「大千軒岳殉教」は起こり得ない。

 

さて、カトリックから板碑へ話を戻そう。

同論文によると、この網走の板碑の材料は「緑色片岩」であるそうだ。

著者の播磨氏は、詳しく調べていないとしつつ、この板碑の材料は持ち込まれたものとしている。

この石材の産地が限定されるからだ。

主には中国,四国と群馬。

阿波,伊予や秩父になる。

岡山にある板碑を調査したところ、近い阿波,伊予ではなく秩父から持ち込まれたもので、近隣だからといって産地だとは限らないとしている様だ。

なら、四国から北海道へ?

https://www.mus.akita-u.ac.jp/index/indx1274.htm

秋田大学鉱山博物館の資料。

実はこの緑色片岩、福島の阿武隈山地にもある。

東北で他地域の石材を運んだ事例は紹介している。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/25/104404

アノーソクレース流紋岩は男鹿から産出し、十三湊と庄内は加茂に現物が確認される。

同様に、緑色片岩も関東御免津軽船を駆使する安東一族なら中国方面からも入手出来るし福島は阿武隈山地も然り、何せ石巻周辺にも修験繋がりでネットワークを持っていた可能性がある。

時期も鎌倉末~室町…一応同じ頃の様だ。

 

如何であろうか?

上記は、東北の事例から「仮に本当に板碑が室町に設置されていたら?」を想定してアウトラインを引く為の備忘録に過ぎない。

通説であれば「あり得ない」で終わる話だが、

・大殿たる安東氏は修験系一派やそのネットワークに名が残る…

・金属製の瓶が経筒残欠であれば、宗教的な条件が揃ってくるのではないか…

・石材も入手可能な場所にある…

・中世の武具残欠は、各地にその出土をみる…

これらより、鎌倉末~室町での板碑や経塚造営の可能性はあるのではないか?

また上記の様に、

・天災らで墓域が埋まる、又は墓域へキリシタンが入り、地中に埋めた…

これらにより、地中にあったり撹乱された表土として放置,廃棄された可能性はあるのではないか?

 

ある事で、ある事の証明は可能。

無い事で、無い事を証明する事は出来ないが、あるであろう可能性を残すのみである事の証明は出来ないのだ。

蓋然性が高いのは「無い事」。

現に、板碑は「ある」のだ。

何故、通説なるものに拘り、無い方が優先されるのかが、理解不能

我々はだから、あった場合と無い場合の両論併記が必要だと言う考え。

まぁ可能性に挑む事をしないのであれば、それを研究と言うのか…?

それが面白いのだろうか…?

まぁこんな推論を立ててみるのも、面白いとは思うが。

 

 

 

参考文献:

 

「大籠の切支丹と製鉄」 藤沢町文化振興協会  平成29.3.31

 

藤沢町の板碑」 藤沢町教育委員会  平成14.10.1

 

「北海道網走の板碑 -板碑の北限探査紀行-」 播磨定男 『徳山大学論叢』 1996年6月