舘岩の「石塁」&解読不明碑…飛島の謎-その2

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/15/191851

さてさて「狄穴洞窟遺跡」、充分に謎めく研究結果だ。

だが、飛島の謎はそれだけではない。

それも我々にピッタリネタなのだ。

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200 

余市の石垣…

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/09/204105

横手城で展示の解読不明碑…

とんでもない組み合わせで、何がなんだか解らないであろう。

では、まずここから。

舘岩は、飛島勝浦港の南側に位置し、東西180m、南北60m、高さ40mの岩体上に位置している。主郭を中心に北東方向へ2つの副郭があり、その郭を仕切る様に石塁がある。主郭東側の石塁は、長さ約80m、高さが1m(第1塁)、北東側は弧状に約60m(第2塁)で、その中央東南より1辺3m四方の石室がある。また、第二塁下の第3塁とその東南側の第4塁西端部分が枡形状を呈している。年代を示す伝承や文献等は認められない。」

 

山形県中世城館遺跡調査報告書 第3集  (庄内・最上地域)」  山形県教育委員会  平成9.3月  より引用…

 

なかなかインパクトのある分であろう。

実は、これだけ学びたく、筆者は「酒田市立資料館」へ。

幾つか資料を戴いた。

感謝しかない。

ありがとうございます。

 

さて、上記文献の引用元となる「総合学術調査報告書  鳥海山・飛島」では、もう少々詳しく、

・館岩は港や勝浦部落を保護する様に南に突出し、砂洲(砂越と言われる)で接続される…

石英粗面岩を1m程度積み上げている…

・全国的に類が見当たらない…

・阿部正巳は北方アジア大陸の粛慎,靺鞨らの築城又は朝鮮式山城との類似性を指摘、海賊の拠った説がある…

古代構築,戦国構築らが言われたが、少なくとも近世に築いた記録らはなくもっと遡る模様…

では館岩とは?

庄内ロケ地データベース様のHPより…

http://location-shonai.com/library/T00459/index.html

こうである。

正直、この写真みるとギャグにもならない。

確かに天然岩の上に石を積み上げている様だ。

実は酒田市立資料館さんから戴いた資料には館岩そのものについては記事がなかった。

ならば、この阿部正巳氏は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/18/180921

実は、この論文を探してこれを。

羽後国飽海軍飛島の石器時代の遺跡並に石塁」 より、確認した本人の弁で補足。

・積み上げた石は大体30∼60cm程度が主…

・鉄鏃や刀片が出土した話はあるが、阿部氏調査時は未確認…

・古老に聞き取りしても、平家落人伝説ら、要領を得た答えは無く不明…

・攘夷に伴なう庄内藩の防備については古老らが知っており(昭和3年調査)、合致せず。つまりそれ以前からある…

蝦夷にこの手の築城法は聞いた古都がないし、朝廷は主に柵。またアイノでもない。故に粛慎,靺鞨らではないか?。他には九州方面の神籠石程度…

要するに「解らない」が、本音の模様。

ならば、もう少し後は?

「飛島誌」は昭和57年、長井政太郎氏の著。

補足する。

・阿部氏は粛慎,靺鞨を疑うが小物忌神社の調査で訪れた大場教授は1000年以前の築城と考える(白崎良弥 小物忌神社考略資より)と言っていた…

・由利十二党の仁賀保の小笠原氏が大宝寺氏が武田vs上杉の際に加勢する隙に飛島を攻略した記録が秋田にはあるが、その時代の防塁にしては不完全…

以上である。

庄内史は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

こちら。

確かに大宝寺氏は上杉に加勢しているが、小笠原氏が何時まで飛島を領有したか?は判然はしない模様。

何せ大宝寺氏vs安東愛季の際に安東は庄内迄攻め上がった話もあるし、後に庄内が上杉領となった段階で庄内を手当したのは直江兼続

その後は北の関ヶ原の煽りで最上領、そして庄内藩成立で酒井領に。

まともに古書記録が出てくるのは、庄内藩成立後。

飛島には古墳?経塚?も二基あるそうだが、細かい経緯は不明。

まるで解らない。

館岩について集められた資料は現状ここまで。

酒田市立資料館でも致道博物館でも、飛島については史料が殆ど無いとの話であった。

現状の追跡はここまで…

いや、違う謎も。

 

実は、この戴いた資料にある石碑が問題だったりする。

勿論、館岩に現存するという。

問題は、この石碑の内容。

酒田市立資料館「飛島の歴史・民俗資料展」より。

ニューとびしま就航一周年の企画展で集めた資料を見せて戴いた。

解読不明の文字?が彫られている。

この記事は、先の館岩の学術調査報告書らには記載がない。

出雲系神代文字で解読を試みたり、鳥海山麓にある岩絵らとの関係、また、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/07/112250

対岸の遊佐町出土の殷代青龍刀との関連…どうもまだ確信に至るまでにはなっていないようだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/09/204105

筆者はこの横手の解読不明碑を見ていただいた。

似てるなとの印象を持って戴いたが、同じ文字?が有る訳でもないので…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

出羽三山鳥海山は最低平安からの信仰対象。

羽黒修験らの足取りとして、山沿いに真室川→北上,遠野方面へ北上すれば横手らにも繋がる。

これが更に北上していけば、伝搬させたのは修験者とも考えられてくるとは思うのだが。

 

如何であろうか?

今のところで掻き集められた情報はここまで。

ここから先は、次の調査、具体的には館岩周辺の発掘らが必要になるのだろう。

・青龍刀に纏わる縄文末の殷の痕跡か?

・粛慎,靺鞨の足跡?

・狄穴洞窟遺跡同様に平安の落し物?

・中世の土豪や海賊によるものか?

出羽三山,鳥海山信仰に伴なう祈りの場か?

ただ、我々は知っている。

古代の石垣構築技術は、何も大陸ダイレクトに求める必要はない事を。

804年築城とされる幻の朝廷城柵「払田柵」には石垣がある。

 

さて、この謎に迫る研究者は居るだろうか?

城郭考古学、宗教考古学、古代文字研究…何でもあり。

場合によっては日本史を変えるきっかけになるのではないか?

但し、その時必ずこんなワードを突き付けられる。

蝦夷とは何者なのか?」

漆黒の泥沼の世界へようこそ…

 

 

 

 

参考文献∶

 

山形県中世城館遺跡調査報告書 第3集  (庄内・最上地域)」  山形県教育委員会  平成9.3月  

 

「総合学術調査報告書  鳥海山・飛島」  山形県総合学術調査会  昭和47.10.31

 

羽後国飽海軍飛島の石器時代の遺跡並に石塁」  阿部正巳 『東北文化研究 上巻』 喜田貞吉 東洋書院 昭和52.12.29 

 

「飛島誌」  長井政太郎  国書刊行会  昭和57.11.30

 

「ニューとびしま就航一周年企画展  飛島の歴史・民俗資料展資料」  酒田市立資料館