https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033
前項で報告した秋田県内の中世城館に於ける石積み,石塁,石垣の存在…
それに付随して2点のミッションをこなす為に秋田県南をフィールドワークした。
これを報告しよう。
①石積み構築年代上限確認…
前項の様に、石積みの構築年代は発掘していない又は古書記述無しらで不明。
ならば、確認出来ている最古級且つ発掘されている…これである程度の上限設定が出来ないか?
技術伝搬の視点からすれば、少なくとも各それぞれの石積みらはそれ以後と考える事が出来て来る。
それは何処か?
明確に現物が残されるのはこれである。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331
幻の城柵「払田柵」の石塁である。
3番目の写真が発掘ままのオリジナルらしい。
この際、向かいの秋田県埋蔵文化財センター見学の上、発掘にも参加している方にお話を伺った。
「史跡払田柵跡」と題し特別展もやっており、パンフレットと合わせて払田柵の特徴や年代らを羅列する。
・払田柵は9世紀初に築城、概ね10世紀後半に廃絶と考えられる。
・政庁(コの字型配置)が置かれた「長森」と隣の「真山」の2つの丘で主に構成され、
1,長森と真山を囲む「外柵」は、隙間なく材木塀…
2,長森のみを囲む「外郭」は、場所により材木塀,土を固めた築地塀,石塁…
3,長森山頂の政庁を囲む「内郭」は板塀…
で出来ている。
但し、第二期では1,の外柵は無くなり、外郭,内郭のみとなる。
・石塁は築城当初から設置されており、その上には櫓が建てられいた。又、東北にある他の古代城柵に石塁は全く無く、払田柵にしか存在していない。
石塁の石は「頁岩」で、長森で掘り出されたものを使用する。
・同時期の他の城柵に比べ、特異な形をしている。
1,鎮守府胆沢城
2,志波城
3,徳丹城
4,城輪柵…
これらは外柵が方形であるが、払田柵はアーモンド型?の楕円形基調。
・政庁から360°確認すると、東門を除く各門はほぼ正確に西南北の方角を向く。東門は何故か北東の方角にズレて作っている。
各方角をみると、
西→嶽山(神宮寺岳)と姫神山(太平山)…
北→森吉山…
南→金峰山…
をほぼ正確に見る事が出来る。
それぞれ、信仰の山。
更には周辺にある式内社が置かれた真昼山や保呂羽山らの山々全てを一望可能。
では、東門は?
正確な東は奥羽山脈で目印はないが、北東は同時期に築城した志波城の方角に合わせ作られる。
それだけではなく、
北西→秋田城…
南西→城輪柵…
南東→鎮守府胆沢城…
をほぼトレースしているそうだ。
とは言え、東門のみ北東を向く理由はハッキリはしていない。
・石塁だけではない。土塁、そして近辺の川から引き込んだ水堀があった事が確認される。
つまり、近世城郭の防塁施設の要素が何気に全て存在する(但し、防塁機能を狙ったかどうかは不明)。
・真山の機能は不明。
払田柵が機能している時代は、真山には墓跡が検出。
真山は鎌倉期以降は中世城館として利用されていたが、その時代は長森西側に墓跡が検出され、機能が全く逆さまになる。これも何故か?は不明。
・石塁以外にも払田柵にしか無いものがある。
それは、
この平瓦のデザイン。
何処かで見た様な「渦巻文様」。
これも、他の東北の城館には存在しない。
・最大の謎は、
1,払田柵は古文にある城柵のどれに当たるのか?
2,本当の名前は?
3,何の為に築城され、どんな機能を果たしたのか?
これらが、全く解っていない事。
説としては、第二雄勝城説や河辺柵説らが古くから言われて来ているが、決め手になるものがなく、解っていない。
こんなところか。
自ら設定したミッションとしての「石積み構築年代上限設定」、あっさりクリア出来た。
秋田で最も古そうなものは秋田城か雄勝城、そして幻の城柵「払田柵」。
秋田城→無い
雄勝城→まだ明確に特定出来ていない
払田柵→800年頭の築城で、石塁現存
第一期の雄勝城が見つかり、石塁が見つかるまでは、秋田に於ける石積みは払田柵が最古になる。
ここまで書くと、払田柵の特異性が解って戴けたであろう。
払田柵の材木が年輪法で802年となっているので、必然石塁もその前後となるだろう。
因みに、埋文の方に中世城館の石積みらが13あると話したところ、そんなにあるのかと驚いていた。
この方が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/02/192531
「中世に竈がない」事を最初にご教示、中世に詳しい方を紹介してくださった方。
なかなか時間が合わず、やっと挨拶とお礼が出来た。
竈の話も少しだけ説明し、進捗あらば報告する事にした。
有難い事だ。
と、言う訳で、一つ目のミッションクリア。
②「和鏡」を探せ…
これは、前項であちこち同行させて頂いた方からの特別ミッション。
突然「和鏡」が無いか?と。
・恐らく12世紀位
・秋田県南が顕著かな?
との漠然としたもの。
まぁそれ以上訊ねる必要はない。
何らか、発掘結果から気付いた事があり、それは前項や他の北海道の遺跡に関連した事であろう事は間違いがない。
それに、
・秋田県唯一の国宝「線刻千手観音等鏡像」は11世紀末頃
この2点は既に知っていた。
何らか解れば、羽黒修験や鳥海修験にも繋がる。
一つ目のミッションと重ねて回ればヒントは得られる。
と言う訳で、
・後三年合戦金沢資料館
・美郷町歴史民俗資料館
・雄物川郷土資料館
・羽後町郷土資料館
と、5箇所を回る。
結論からいこう。
それぞれ全てに和鏡が展示されていた。
理由は簡単。
経塚が造営され出すのが平安末~鎌倉期だから。
また、出羽三山神社の鏡池も概ねこの頃からの古鏡が検出している記憶がある。
「【鏡像】神道で御神体とされる鏡面に、本地垂迹思想に基づいて本地仏と思われる仏像や神像を線刻したもの。〜後略」
「【経塚】経典を地下に埋葬して、その上に築いた塚。経典は紙本経の他、銅板経、瓦経、礫石経、滑石経などで、紙本経の多くは青銅、金銅で作られた筒形の経筒に納め、さらに陶磁器などの外容器に入れて納められた。地下には石組みが作られ、この経筒、外容器の他に合子(筆者註:化粧らを入れる蓋付き容器)、刀子、鏡、銅貨なども一緒に埋めてある。最古のものは寛弘四年(一〇〇七)の藤原道長の金峰山経塚で、当時のものは末法思想に基づく弥勒下生を期待してのものだった。その後、鎌倉・室町期には、極楽往生、証菩提、追善のために経塚がつくられた。主な埋納経は法華経である。特に葛城山中では法華経二十八品のそれぞれを納めたニ八の経塚が作られ、それを巡る峰入がなされていた。この他、熊野那智の金経門・本宮備先、新宮権現山、羽黒、彦山などの修験霊山でもつくられている。」
「【池中納経】池・沼・湖に経を奉納する信仰。古代後期から近世まで続いた習俗。堂社に本地仏を刻んだ掛仏を奉納する信仰に連なるもので、池・沼・湖の龍神に捧げ、祈念を込めたものと思われる。古代後期かは近世にかけての六〇〇面余りの鏡が発見された羽黒山上の鏡ヶ池、赤城山の小沼、榛名山の榛名湖、高野山の鎮守天野社(長床衆)の鏡ヶ池などがある。」
「修験道小辞典」 宮家準 法藏館 2015.1.20 より引用…
以上、修験道小辞典から関連ありそう点を拾ってみた。
丁度この頃、戦乱や天災により末法思想や浄土信仰が広まり、各地に経塚が作られる。
東北で特に有名なのは奥州藤原氏の金鶏山の一切経か…とは言うより、上記の様に「羽黒山」とハッキリ記載されるので、出羽三山信仰としても知られた話なのだろう。
と言う訳で、平安末~鎌倉期に経塚造営や池中納経開始と同時に和鏡の需要も増えたと考えられる。
では…
・後三年合戦金沢資料館…
閑居長根経塚で出土の「古鏡蓋付陶製経壺」「古鏡蓋付銅製経筒」の展示。
払田柵周辺で出土した「瑞花双鳥八稜鏡」の展示と、
由利本荘市「岩倉館跡」出土の和鏡の展示。
又、
由利本荘市「堤沢山遺跡」での梵鐘ら鋳物を行っていた遺物の展示。
・美郷町歴史民俗資料館…
同町内出土の「菊花散紋双鶴鏡」残欠と古銭の展示。
・雄物川郷土資料館…
「瑞花双鳳八稜鏡掛軸」の展示。
これは、後三年合戦の清原家衡縁とされる沼柵の比定地から出土したとされる様だ。
・羽後町郷土資料館…
「田沢の山の鼻の山腹で、2枚の古鏡が発見されました。」と写真のパネル。又、貝沢十三本塚(経石,金片,古銭,骨片出土)や浦田山十三森、舘ノ下十三塚の資料やパネルの展示。
と、全箇所で経塚や和鏡についての展示があった。
平安期の由利柵に伴なうのか、遺物工房迄ある。
揃いに揃った感。
実は、埋文でのお話でも、由利本荘→大森(保呂羽山)→雄物川町,羽後町→横手市→西和賀→北上→鎮守府のある胆沢…これが、古代から使われたルートではないかとの話があった。
雄物川町が「雄勝城」の有力比定地、盆地内を北上すれば「払田柵」へ至る。
陸路で繋がっていた可能性は高い。
また、秋田は弥生〜古墳期の遺跡が希薄は概報だが、にかほ市周辺では子持勾玉らが出土したりする。
これら遺跡の年代で並べると、やはりにかほ,由利本荘市→雄物川,羽後町、→横手市→大仙市と文化伝搬した形跡がある様だ。
つまり、陸奥側から奥羽山脈越えのルートでなくとも、新潟,山形から鳥海山を望み海路で人や文物が流入し、それが陸路で伝搬したと言う事も考えられる様だ。
出羽三山や鳥海山らの古い信仰が、このルートでもたらされた可能性はある。
まぁ古墳期迄遡らずとも、平安期なら確実に修験者が行き交っていたであろう事は、国衙,郡衙や保呂羽山らに式内社があるのでほぼ決まりだろう。
飛島の和鏡,古銭と、
探せば幾らでも出てくる。
安倍,清原氏、奥州平定氏関連での経塚と言う話はポロポロ出てくる。
鎮魂の為か?
と言う事で、特別ミッションも終了。
和鏡はあり、それは平安後期〜鎌倉期で急激に増える。
理由は経塚や池中納経の伝搬によるもので、特に池中納経については羽黒修験の影響が色濃そうなので、媒介は修験者であろうと予測可能だろう。
さて、北海道。
当時の宗教背景や世相を鑑みれば、和鏡を使う意味合いはこんなふうになる。
それに仏を刻み神仏習合させる。
北海道でも墓らで和鏡が出土するが、これも修験道の影響を帯びたものと考えてみるのは如何であろうか?
御幣…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
斎串…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
六器…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552
墨書礫…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
対岸、野辺地の状況…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
江戸期ではあるが、参考…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
厚真の経壺や千歳の錫杖らを見ても、本州の歴史区分で言う奈良,平安〜鎌倉期での宗教的なベースは神道,仏教,陰陽道らを包含した「修験道」ではないかと考える事が出来るのではないか?。
驚く必要は全くない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
擦文文化は大なり小なり本州からの移住や文化流入が無ければ成立しない。
それに、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945
津軽,糠部からの移住が書かれるのは、皆さん大好き「新羅之記録」、ましてや、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
自らを「蝦夷の末裔」と言うのは彼ら自身だし、シュムクル集団には「本州から移住(時期に言及なし)」伝承…
まさか、人や物だけ移入して宗教は伝搬しません等というダブルスタンダードはあるまい。
さて、如何だろう?
石積み,石塁,石垣も特別ミッションも、突発的に出てきているが、これら技術伝搬や宗教拡散らが見えてきた感。
これらと遺物と年代整合していけば、見え方も変わろうと言うもの。
少なくとも、日高,胆振より西は本州に近い文化や宗教になる。
そして遺跡の遺物はほぼ同じ。
本州と同じか或いは一部北方系との共生。
口蝦夷とは、そんな人々になってくる。
これで何か不都合でもあるのか?
まぁ、独立した一つの民族なんてものではなくなるのは確かであろうが。
だが、そう言っていたのは彼ら自身。
参考文献: