https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
前項をここに。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/210633
全く関係ない話なのだが。
「狄穴洞窟遺跡」を知っている方はいるだろうか?
実は筆者は、致道博物館展示で頭の片隅に残っていて知っていた。
博物館の方も、論文らは極限定されたものしか出ていないと。
実は関連項は、庄内の歴史と同時にそれがある「飛島」の歴史を知りたかった。そこで資料を集めようとして愛知県の「飛島村」に辿り着くオオボケをしてしまった次第。
洞窟遺跡と言えば、北海道の方ならフゴッペ洞窟を思い浮かべるかも。
が、洞窟遺跡は当然、北海道固有ではない。
致道博物館でご教示戴き、資料らが入手出来たので、ボチボチその封印を解こうかと思う。
致道博物館の方々には感謝しかない。
ありがとうございます。
さて…
ある村に、土地の者の間で昔から「決して中に入ってはならぬ」と口伝されていた洞窟があった。
その洞窟の名を「狄穴」と読んでいた。
ある日…
子供達は肝試し半分に、禁を破り洞窟へ。
禁を破った子供達が見つけたのは人骨…
殺人事件では?…県警が大挙押しかけ村は大騒ぎに。
それは洞窟名にある夷狄の仕業か?
はたまた鬼の封印を解いたのか?
子供達は顔面蒼白…
だが…
そこで鑑識曰く…
あれ?この骨、相当古いね…
と、言う訳で特別捜査班撤収。
それは何なのか?解明する為に、地元の考古,民俗,自然らでスペシャルチームを変遷し出航…
実はこれが、飛島「狄穴洞窟遺跡」の発掘経緯だそうで。
では、どんなものか?
①飛島とは?
酒田から北西約39km。
確か県境秋田側からは直線20km位であろうか?
勿論、両県から目視可能。
対馬海流の影響で温暖ではあるが、リマン海流がぶつかるところでもあり、暖流系の回遊魚や寒流系の底物両方が狙える漁業の島でもある。
②洞窟と発掘結果
自然洞窟で、島東南の中央付近、ボグラ岬の先端に開口している。
海面から約4.5m。
内部は上図の様にT字状で、南側(一番手前が開口部)の1が第一洞窟、北側の2が第二洞窟、南西側の3が第三洞窟として調査された。
第二洞窟の奥は落盤で塞がれ、第三洞窟の奥も堆積土で埋まっていた(往古開口の可能ある)様だ。
第一,第二洞窟では遺物らはなかった。
では第三洞窟。
基本層序は、
上層…10~15cmの小砂利層…
下層…70cm以上の荒い砂利層で下部になるほど水分が多い…
である。
上下層とも、遺物が出土している。
又、壁面には海水侵入による波汀線が着いており、更に北側の壁から天井にかけて煤の付着がある。
大小轢や転石には火熱痕があるものがあり、内部で火を焚いた形跡が見られる。
遺物は両層共に撹乱され、壁際に寄せられている模様。
つまり、海水により移動したと思われるとの事。
遺物は(先の警察らの調査分含む)、
上層…
人骨…10体分
老年男性から少年性別不能まで
土器…
土師器5点、10世紀前半頃のものと推定。
ヘラ削りやロクロ引きでの底切らが特徴で、2点図の様な墨書(図の2の4本線と5の「2」)が見られる。
下層…
人骨…12体分
老人男性から幼少性別不能まで。
土器…
須恵器1点と土師器1点。
須恵器は小型坩形の口縁部、土師器は二重口縁で、共に9世紀位と推定。
その他骨を使ってた5cm程度の針や黒色土師器や須恵器辺多数。
上記で解る通り、狄穴洞窟の人々は、9世紀前後,10世紀とその年代がはっきり分かれているのが解る。
副葬らは見当たらない。
下層の人骨では鎖骨の変形(骨折か)や骨髄炎らの痕跡が見られるが、著しい擦痕や切断らは見えず殺人らとも思えない。
ざっとだがここまで。
纏めると、
・9世紀と10世紀の二度、10人程度の老若男女がここで暮らした形跡がある。
・暮しの内容は不明。使っていたのは土師器や須恵器。
・二度とも後に海水浸水して、遺物は撹乱された。同時に、集団はほぼ一気に全滅したと思われる。
・この悪環境で暮らす理由と死亡原因らは不明。
こんなところか。
文献中も、この最後の部分は疑問視され、
・北方系の人々の侵入?
・何らかの迫害、又は骨の変形を病気と見立て病人家族の隔離?
らを推定しているが、全く決め手に欠けていると。
ここが「狄穴」と呼ばれる理由も、伝承が途切れて解らないのも痛いところ。
だが、その呼び名や状況を考えれば、北方系の人々を疑いたくはなる。
実は、記憶の中から思い出したのも余市の墨書やフゴッペ洞窟を学んだ事。
この段階で余市大川遺跡は発掘されていない。
それがあったら、調査チームの見解もそちらへ傾いていたかも。
「夷狄」「蝦夷」…
やはりそんなイメージは出てくる。
まして、ここは飛島。
往来の途中でもあるし、佐渡への粛慎上陸らの伝承や渤海使の漂着もある。
これで戦闘痕でもあれば、地の人々と上陸した異民族やプレ・アイノの接触と推定され終わりそうなところ。
話を伺った方も頭にはあったようだし、そんな見解が素直なところだ。
疑い深い筆者的には、出来過ぎなストーリーだと思っていたが。
だが、結論から言えば、混迷度が上がる研究結果だった。
では、本題。
ネット民大好きな血統論。
実は、上層(10世紀)の頭蓋骨3体分(壮年男性,壮年女性,2体)が良好だった為に骨格学での比較を行っている。
比較対象は、
・現代日本人
・古墳時代人
・縄文時代人
・北海道アイノ
・アムール川流域トロイツコエ遺跡人。
これから得られた結果は、
・壮年男性は「縄文人」に最も近い
・壮年女性はそれぞれ「古墳時代人」「現代日本人」と共通の傾向を示す
以上である。
最もかけ離れているのはトロイツコエ遺跡人で、少なくとも大陸系傾向は殆ど無い…という。
更に、歯が残っているものがあったので、8検体につきミトコンドリアDNAの採取を試み、7検体で成功した。
これによると、
・D4a
・D4e
・D5
・G1
・M7b
・N9a…
以上6種のハプログループに分類された。
中で同一ハプログループと認められたのは、先の縄文人に近い壮年男性頭骨と現代日本人に近い壮年女性頭骨で、母系で繋がりを持っていると考えられ、D4aのハプログループに属した。
又、狄穴洞窟の人々は、母系として割と多様性に富むものの、現代日本人が概ね持つ本州,沖縄,韓国,Chinaに出現するものとほぼ一致し、特異な特徴を持つ礼文島船泊遺跡や有珠モシリ遺跡人のN9bとは全く一致をみない。
北海道系と共通するのはG1一体のみで、このG1はコリャク,イテリメンらシベリア系に見られるが、現代日本人では殆ど検出をみないそうだ。
と、言う訳で、
・多様性はあるが東アジア一円の母系が主で、現代日本人のそれと一致。
・一部シベリア系は検出を見るものの、北海道系とは全く一致しない。
・頭骨の骨格学的解析と近い結果で現代日本人の傾向が強い。
以上の通り。
東北の日本海側のミトコンドリアDNAの資料数が少なく解析が弱いとはあるが、この狄穴洞窟遺跡の人々は本州や現代日本人と同様の傾向を持ち、少なくとも北海道系や粛慎,靺鞨と呼ばれる大陸系北方人との関与は薄い事になる。
如何だろうか?
この洞窟に住んだ人々は全くの現代日本人。
洞窟に住んだり、狄らと言う表現でフィルターが掛かりがちだが、そのような研究結果にはなっていない。
ましてや、須恵器や墨書土器を使う。
本州、こと朝廷との接触も考えられる様な人々なのだ。
なら「夷狄」「蝦夷」「まつろわぬ人々」…こんな記載をされる人々は、巷で言われる異民族的な枠組で言われるが、本当にそんなものなのか?
実は狄穴洞窟遺跡の人々の様に、北方系とは関係ない事例はまだまだ沢山あるのではないか?と言う事
更に、この洞窟の人々は平安期とほぼ断定される。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
こんな文化形成過程を踏むなら、北海道にもこれと同様の人々がいて然るべきだろう。
・何らかの事情で洞窟に住んだ…
・狄穴洞窟と呼ばれる…
これらで、フィルターを掛けてはいけないと、狄穴洞窟遺跡人は語りかけているのではないだろうか?
我々はよく「単語に振り回され過ぎではないだろうか?」と言っているが、まんまそれでは?
筆者は歴史の再勉強をし始めて、先祖達からずーっと問いかけられている気がしている。
「蝦夷(エミシ)」とはなにか?
だ。
今のところの答えは、「都の貴族や施政者らが勝手にそう言っているだけで、中身はそんなに変わらない」である。
時間軸や地域差,気候差が文化の特色として出ているだけの事で。
そんな貴族やら施政者がブーブー言う中で、庶民は多少の文化差なぞ気にせず、共に酒杯掲げ、同じ食い物を喰らい、愚痴を言いながらワイワイ宴会しながら額に汗し真面目に働く姿しか思い浮かばないのだ。
古代の土器に、悲壮感を感じるか?
筆者はまるで感じない。
まぁそれでも、
・何故洞窟住んだ?
・何故一気全滅の様な最後を遂げた?
・何故この飛島に来た?
ら、理由が解らない事に変わりは無い。
が、目に付けたフィルターは、外した方が身の為であることは確かであろう。
それをまだたった一例ではあるが、飛島が教えてくれた。
参考文献:
「飛島洞窟発掘調査報告」 酒井忠一 『庄内考古学 第10号』 1971.9.5
「飛島の洞窟遺跡」 佐藤禎宏 『海と列島文化 第1号 日本海と北国文化』 1990.7.30
「山形県飛島狄穴洞窟出土の平安時代人骨(抄訳)」 山口/石田 『山形考古学 第22号』 2006.7.20
「山形県酒田市飛島の狄穴洞窟遺跡出土人骨についてのミトコンドリアDNA多型解析」 安達/坂上/梅津 『山形考古学 第22号』 2006.7.20