https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501
前項をこちらに。
①要旨…
先の弾丸ツアー第四段で感じた勝山館の作りや夷王山墳墓群との位置関係ら違和感解消の為、東北での中世墓の大枠の傾向を確認しどの様に宗教が北上したか、それが北海道中世史にどんな影響を与え得るか?たたき台としてデータ化してみた。結果、東北での墓制は各県毎にそれぞれ固有の傾向を持ってるのではないかという事が見え始めた。
中世城館の構造、特に石積み,石塁らとの関係も合わせ見て、全体像の俯瞰に利用したいと考える。
②確認手段…
A,参考資料
中世墓資料集成研究会発行の「中世墓資料集成−東北編−」による。
B,抽出手段
同書の報告事例から、
・土葬or火葬…
・特徴ある副葬品を検出した遺跡数…
・特徴ある墓制を検出した遺跡数…
らをカウントし、比較していく。
C,注意点
・同書にピックアップされた遺跡は、平安末〜近世位迄に及び、その中の中世墓と思われる部分への記述からカウントするので時代的幅は出来る(各県毎の時系列変遷は別途)。
また、遺跡総数について、大規模遺跡の場合、発掘回数毎に分けてピックアップされている事があるが、それは元データに準じた。
・土葬or火葬が両方混雑する場合は両方にカウントする。
又、墓制が解らない墓単体や経塚の可能性が高く発掘していない遺跡は数から除外した。
以上より、遺跡総数とカウント数は合致はしない。
③結果…
A,青森県
・遺跡総数
58
・土葬or火葬
土葬→36
火葬→14
※→内混雑は3
・特徴ある副葬
古銭→24
ガラス玉(水晶,土玉含む)→2
鏡→0
鉄鍋→3
鉄釘→8
刀剣(刀子含む)→5
陶器,かわらけ→14
漆器→2
仏具(五輪塔,板碑含む)→4
馬具→1
甲冑→1
骨骨器→1
硯→0
・特徴ある墓制
周溝を伴う→2
鍋被り墓→4
集石塚→0
B,秋田県
・遺跡総数
56
・土葬or火葬
土葬→20
火葬→22
※→内混雑は6
・特徴ある副葬
古銭→7
ガラス玉(水晶,土玉含む)→1
鏡→2
鉄鍋→0
鉄釘→3
刀剣(刀子含む)→2
陶器,かわらけ→16
漆器→1
仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→3
馬具→1
甲冑→0
骨骨器→1
硯→0
・特徴ある墓制
周溝を伴う→8
鍋被り墓→0
集石塚→7
C,岩手県
・遺跡総数
41
・土葬or火葬
土葬→32
火葬→8
※→内混雑は2
・特徴ある副葬
古銭→32
ガラス玉(水晶,土玉含む)→1
鏡→1
鉄鍋→4
鉄釘→3
刀剣(刀子含む)→1
陶器,かわらけ→8
漆器→2
仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→0
馬具→1
甲冑→0
骨骨器→0
硯→1
・特徴ある墓制
周溝を伴う→3
鍋被り墓→0
集石塚→0
D,山形県
・遺跡総数
82
・土葬or火葬
土葬→31
火葬→27
※→内混雑は4
・特徴ある副葬
古銭→15
ガラス玉(水晶,土玉含む)→2
鏡→3
鉄鍋→0
鉄釘→5
刀剣(刀子含む)→3
陶器,かわらけ→22
漆器→7
仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→19
馬具→0
甲冑→0
骨骨器→0
硯→1
木製品→11
・特徴ある墓制
周溝を伴う→0
鍋被り墓→0
集石塚→18
(尾花沢,藤島,櫛引,長井,余目,遊佐各1、平田2、鶴岡9)
E,宮城県
・遺跡総数
35
・土葬or火葬
土葬→10
火葬→16
※→内混雑は3
・特徴ある副葬
古銭→16
ガラス玉(水晶,土玉含む)→0
鏡→0
鉄鍋→0
鉄釘→1
刀剣(刀子含む)→2
陶器,かわらけ→8
漆器→0
仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→8
馬具→0
甲冑→0
骨骨器→0
硯→0
・特徴ある墓制
周溝を伴う→2
鍋被り墓→0
集石塚→1
(名取1)
F,福島県
・遺跡総数
31
・土葬or火葬
土葬→9
火葬→15
※→内混雑は0
・特徴ある副葬
古銭→5
ガラス玉(水晶,土玉含む)→0
鏡→0
鉄鍋→2
鉄釘→1
刀剣(刀子含む)→2
陶器,かわらけ→10
漆器→0
仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→3
馬具→0
甲冑→0
骨骨器→0
硯→1
・特徴ある墓制
周溝を伴う→0
鍋被り墓→2
集石塚→2
(相馬,会津各1)
以上…
④考察…
A,土葬or火葬…
青森,岩手は土葬>火葬
秋田,山形は土葬=火葬
宮城,福島は土葬<火葬…
の傾向はありそうだ。
青森の場合、
十三湊遺跡→火葬比率が高まる
根城跡→土葬比率が高まる
傾向が見えそうだ。
他県の結果と接続すれば、より日本海ルートで中央と接続されたであろう湊町や街道らで直接直結したであろう南東北では火葬比率が上がりそうである。
その辺は仏具系遺物や石塔系,卒塔婆,笹塔婆らが山形〜宮城ライン上迄で顕著な事は伺えるので、仏教系、又修験系でも仏教色が濃いであろう事は推測可能。
岩手や青森東部はより古来の風習を残したのではないだろうか。
また、土葬の頭囲は概ね全地域で北向きな傾向はあるのだが、北海道同様の東向きが無い訳ではない。
骨の残存が無いので断定は出来ないが、北海道への玄関口である十三湊では明確に東西方向を向く土壙墓が幾つも存在する。
この辺は行き来の中で決まるとは考えられるが、全く東向きが北海道固有とは言えないのだろう。
実は山形県北村山郡大石田町の次年子(じねご)1号塚(中世~近世墓)の被葬者が北海道系骨格を持つのではないかとの指摘がある。
真逆に、飛鳥では夷狄と伝承された人々が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/15/191851
全く現本州人系だとの分析結果が得られた事例もある。
つまり、中~近世に至る過程で局部的にでも血統的混雑をしている可能性はあるのだろう。
我々は物証を旨とするので、必然遺物からの文化区分が主にし、あまり血統的区分には触れない事にしている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631
結局、何を持って北海道系住民の内のアイノ文化系と定義付けるかが決まっていない以上、漠然と血統的区分に触れても意味はないのではないのだろうか?
単に土葬or火葬の指標で見ても、この様に文化グラデーションはある程度ハッキリ出てくる。
仮に中世北海道系住民が土葬と言うなれば、
・余市、上ノ国ら西蝦夷地→日本海ルートでの津軽,秋田からの影響…
で、特に後者の下北半島,糠部,岩手側をグラデーション地域として広がりが見えると言えるであろう。
これは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047
前時代の須恵器ら交易ルート上の伝播と、蕨手刀ら宗教,精神的主柱伝播の差に於ける下北半島,糠部側の影響が色濃く出ている事に合致してくるのではないだろうか。
なら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
昨今の道内に居たとされる口蝦夷集団の「宗教的源流に修験道あり」との北海道での指摘も、ある程度納得であろう。
要は、修験道の中でも古神道系が強いか?後の仏教系が強いか?でのグラデーションで見れば良いと考える。
B,特徴ある副葬について…
確認し、鏡の副葬がもっと多いと考えていたが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/27/210830
思っていた程では無い。
但し、確認手段にあるように、明らかに経塚であろうものはカウントしていないし、鎌倉期位から経塚に収められたのは概報。
羽黒山鏡ヶ池の事例から見れば、修験系の道具の中で、神の写し身的な意味合いから、自らの写し身的な使い方をし始めたのかも知れないと考える。
特に板碑や経塚の場合、死者の鎮魂だけではなく生前に死後極楽に行ける様に願いを込め造営する事がある様だからである。
鏡ヶ池の事例はそうだろう。
むしろ、東北の仏教系の強化の影響は有り得るものと考える。
特に火葬が多くなる宮城,福島、そして出羽三山のお膝元である山形で五輪塔や卒塔婆,笹塔婆らの検出が顕著な事や、南に下る程副葬が少なくなる傾向はありそうなので、北海道側をより古い形態、陸奥側での南東北をより新しい形態としてグラデーションが掛かると考えれば、ある程度納得戴けるのではないだろうか?
C,周溝を含めた墓制変遷…
実は…
十三湊遺跡
根城跡
津軽,糠部側の両拠点においても、周溝を伴う墳墓は検出される。
秋田の事例で数が突出するのは、火葬場所の周辺を方形周溝で囲う事例も含まれる為である。
よって、周溝を伴う事も北海道固有とは言えないのであろう。
今後、北海道の中世墓との比較も行っていくつもりだが、忘れてはいけない3点…
・北海道では中世遺跡、特に居住遺跡が激減する事
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
・上記事例は、丁度、擦文文化→アイノ文化への変遷を指摘されている時代を網羅している事
そして、
・北海道では、続縄文文化期が屈葬であったが、擦文文化期に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
末期古墳群の登場以後、伸展葬化が始まり、恵庭の古墳群では、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
その両方が見える事や、宗教具についても本州の影響が江戸初期迄は見える事、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501
である。
前時代がこうであれば、その過渡期に於いて東北、特に上記より糠部周辺の影響は見ない訳にはいかないであろう。
また、夷王山墳墓群の火葬跡である。
見ての通り、円形又は不規則形と明らかに十字型のものが二種類ある。
この被葬者が何者であるか?は別として、火葬方式として捉えた場合、特異性がありそうだと考えるのは容易である。
では、東北の事例を確認してみよう。
これは秋田の大館市山王岱遺跡(14~15世紀)の事例、集石遺構を持つ餌釣遺構と一部と考えられる様だ。
他に十字型の記事がある、または山王岱遺跡の様に事例紹介中に十字型の火葬痕を持つ遺跡は、
琴丘町の金仏遺跡(13世紀代?)
琴丘町の盤若台遺跡(12~13世紀)
鷹巣のからむし岱Ⅰ遺跡(9~10世紀)
現状見つけられたのはこの4箇所のみ。
秋田、それも米代川流域と八郎潟東岸北部にある程度限定され、それ以外の東北にはこの十字型の火葬方式を持つ中世墓は無い様だ。
なら、この十字型の火葬方式は何処からどの様に伝わったのか?
こうなると、北関東や北陸らの事例と比較が必要だろう。
ここだけ見ても、日本海ルート上からの文化流入は予想可能だろう。
無視出来ようハズは無いと、同時に、後の桧山安東氏の勢力圏と重なるのが興味深い。
勿論、桧山(下国)安東氏が桧山に入るのは、1454年の安東政季が蝦夷地から移るのを待つ必要があり、それ以前は比内浅利氏や出羽葛西氏らの勢力圏と伝えられるのを付記しておく。
D,集石塚について…
改めて上記をピックアップすると…
青森県…0
秋田県…7
岩手県…0
山形県…18
宮城県…1
福島県…2
である。
北関東での中世城館での、石積み,石塁,石垣の傾向はこれである。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
勿論、中世城館内の館神を祀る寺社もデータに含むので、類似の傾向は示してくるであろうが、山形県鶴岡を中心に、庄内,秋田沿岸南部~旧街道~秋田内陸南部へ広がり、飛んで米代川周辺へのライン上で検出を見る。
この米代川周辺と言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/04/200752
後に峰浜の蝦夷館で実績を確認しているので、例外ではない。
また、中世城館の確認をしていない福島に関しては、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
相馬の日光院が羽黒修験の有力な末寺であり、古くから関連が深いであろうと予想可能。
ここで改めて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005
これらを合わせると、古い出羽三山信仰らの関与を想起させる。
宮城,福島でこれらが薄いのも、火葬の比率や仏具の検出らを重ねると、より仏教色が強い為で説明が出来るのではないだろか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612
出羽三山を単なる宗教集団としてだけではなく、技術,文化の伝播も行っていたと考えると、より色濃い所で石工の活動痕跡と見る事は可能なのではないだろうか。
ここまである程度はっきりした傾向が出るのであれば、可能性の無視は出来ないであろう。
余市茂入山や周辺、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200
勝山館の館神八幡神社や、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501
飛鳥館岩の石塁、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/065526
これらを出羽三山信仰と関与を考慮すれば、それぞれ説明も可能になってくるであろうし、年代特定らも他地域の実績と合わせて仮説化出来てくるのではないだろうか。
今迄、北方由来の考察ばかりが横行してきたが、眼の前に出羽三山があるのだから、もっと着目すべきだろう。
⑤まとめとして…
要旨にあるように、たたき台や傾向を掴む為、敢えてデータまま時代範囲や各県毎に集計する等してみたが、より古い形態〜仏教色の強い地域らでは文化グラデーションや、特に集石塚ら出羽三山信仰の伝播ルートを想起させるラインが見えてくるのではないだろうか。
これらを俯瞰する限り地の宗教色は、墓制を見る限りでは先行する地の民衆や土豪の独自色が強いのではないかと想像する。
時代変遷を見る必要はあるが、
・多様である…
・地の土豪は独自に館神を祀る…
らを考慮すると、御家人や地頭,守護ら後発で派遣された施政者が自分の宗教を強要する事はなく、寺社勧進で推奨程度であったのではないだろうか。
故に奨励した宗派が浸透していっても、既存の民衆単位の宗派の痕跡が民間信仰や技術の面で残ったものと考える。
そしてそれらは、経済活動の中でルート上に痕跡として残ったのではないかと考える。
今後、同一資料らで、北海道側や北陸,関東との伝播傾向を見ると共に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/27/210830
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
鏡や御幣信仰ら、日本中にある信仰,信仰具との関連を探って行きたいと考える。
参考文献∶
「中世墓資料集成−東北編−」 中
世墓資料集成研究会 2004.3月