https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421
「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」…
こちらから…
折角ここまでやったので、ハッキリ数値で表していなかった「津軽側と南部側」の土葬と火葬の比率差を再確認しておこう。
土葬,火葬が両方ある場合を含むのでピックアップされた遺跡数とカウント総数は差が出るので、土葬,火葬の合計数の何%か?で比べてみよう。
まず参考として、北東北3県のそれはこうなる。
・秋田県…
合計→42
土葬→20…48%
火葬→22…52%
・岩手県…
合計→40
土葬→32…80%
火葬→8…20%
では青森の県合計と津軽側,南部側それぞれの比率はこうなる。
・青森県…
合計→50
土葬→36…72%
火葬→14…28%
・津軽側…
合計→28
土葬→19…68%
火葬→9…32%
・南部側…
合計→22
土葬→17…77%
火葬→5…22%
以上の通り。
端からカウント数が少ない為に1件の重みが出易い事、本来は墓単体の数と分布で見るべきだろうがさすがにそこまで記述が無いので、あくまでも傾向しか見れない事を承知戴きたい。
日本海側は、秋田のほぼ土葬:火葬=1:1から、津軽側では土葬の比率が増えていく方向に見える。
太平洋側は、岩手の土葬:火葬=8:2から、同等又は若干火葬が高まる方向か。
津軽側は土葬,火葬共にバラける印象、南部側は火葬が八戸,七戸に集中しており、それに引っ張られる印象はある。
青森全体で見ても、土葬が増えるという文化グラデーションの変化過程にあるとは考えられるが、こと太平洋側は岩手と似た傾向を持つのだろう。
仮に火葬比率が上がる要因があるとするなら、やはり「八戸」という湊町を持つ為だろうか。
恐らく墓単体の数でプロットすれば、土葬比率が高くなりそうな印象はあるので、全体的にそうなったとしても岩手と青森の南部側の傾向はより強く出るとは思う。
まだ北海道は未確認だが、流動的要因と成り得る道南の湊町を除いて全体として土葬が多い傾向を示すならば、限りなく全数に近いか9:1位のになってくれば予想通りになるのだが。
だが、これが逆に青森南部側や岩手の傾向より火葬比率が上がるとしたら?…そうなれば既に青森南部側や岩手を通り越して、南東北以南からの流入者がそれなりの数到達しているだろうと推定出来てくるのだが…
だが、それとて想定内。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
「樺太,千島と本州人との両血統持ち、帯刀した人の痕跡…「択捉島」で出土した人骨と日本刀」…
古い論文にはこんな記録もあるのだから、驚くところではない。
まして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…
千島に出現する内耳土鍋と南東北は伊達領の関係を指摘した論。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/18/084019
「「亘理小史」に記載された古代~中世の亘理…伊達氏の海への到達と「九曜紋」「内耳土鍋」と言う断片」…
南朝方の武将「伊達氏」の羽振りが突然良くなるのも、そんな内耳土鍋が千島に出現するのに近い時期。
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−3…東北の延長線上で北関東の傾向を見てみよう」…
そして、千葉に見られる「十字型火葬墓」や「鍋被り墓」…
これらは武将そのものではなく、在地土豪や民の生活を物語る…これらがどう関連性を持つのか?
この辺は、日本海側より見え難い「太平洋ルート」の動きとなるだろう。
筆者的には違和感無し。
何せ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/16/061719
「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる①「背景編」」…
フリース船隊航海記録には、東北諸大名を表敬した「カストリカム号」は、慶長三陸地震での大津波被害を確認しながら東北太平洋沿岸を北上し、到達したのは「襟裳岬」周辺、そこから道東→北方四島へ…
八戸や亘理から北海道と通商しようとすれば、自ずと道東の「奥蝦夷」とのやり取りになってくるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947
「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…
海流を考慮すれば極当然の成り行き。
…と言う訳だ。
・道内,樺太,千島をある程度自由に行き来出来たのは、
…十三湊、秋田湊ら日本海側の湊
・道南,胆振,日高らと行き来出来たのは、
…野辺地、佐井
・十勝,道東以東に限定されるのは、
…八戸以南の太平洋側の湊
これらの影響が、墓制や城館の作りらへも痕跡として検出されば、それは交流痕跡として裏付けに出来てくる…と。
如何だろうか?
話を戻せし…
墓制としての文化グラデーションは、青森南部側,岩手からそのまま北海道へ向かう様な傾向はありそうだ。
この範囲を広げ、北海道と接続したらどうなるか?
恐らく、移動痕跡や宗教拡散へ辿り着くだろう。
実は、考えられている程北海道は孤立していた訳じゃないのではないか?と。
まぁ、ゆっくり学んでいこうではないか。
参考文献∶
「中世墓資料集成−東北編−」 中
世墓資料集成研究会 2004.3月