https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…
では福島の延長線上、今度は北関東の傾向を見てみよう。
A,茨城県
・遺跡総数
113
・土葬or火葬
土葬→31
火葬→36
・特徴ある副葬
古銭→22
ガラス玉(水晶,土玉含む)→1
鏡→4
鉄鍋→12(全数、内耳土鍋)
鉄釘→2
刀剣(刀子含む)→6
陶器,かわらけ→39
漆器→4
仏具(五輪塔,板碑含む)→15
馬具→2
甲冑→0
羽口,鉄滓→3
※馬骨,獣骨の出土複数
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→2
石積塚→0
※「地下式坑」登場…
B,栃木県
・遺跡総数
386
・土葬or火葬
土葬→28
火葬→22
・特徴ある副葬
古銭→16
ガラス玉(水晶,土玉含む)→1
鏡→2
鉄鍋→12
鉄釘→7
刀剣(刀子含む)→14
陶器,かわらけ→35
漆器→3
仏具(五輪塔,板碑含む)→16
馬具→0
甲冑→0
羽口,鉄滓→2
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→1
石積塚→0
C,群馬県
・遺跡総数
174
・土葬or火葬
土葬→76
火葬→56
・特徴ある副葬
古銭→70
ガラス玉(水晶,土玉含む)→0
鏡→2
鉄鍋→3
鉄釘→10
刀剣(刀子含む)→6
陶器,かわらけ→47
漆器→0
仏具(五輪塔,板碑含む)→27
馬具→0
甲冑→0
羽口,鉄滓→0
・特徴ある墓制
周溝墓→1
鍋被り→0
石積塚→0
D,千葉県
・遺跡総数
492
・土葬or火葬
土葬→140
火葬→121
・特徴ある副葬
古銭→72
ガラス玉(水晶,土玉含む)→6
鏡→15
鉄鍋→22
鉄釘→5
刀剣(刀子含む)→21
陶器,かわらけ→100
漆器→8
仏具(五輪塔,板碑含む)→56
馬具→0
甲冑→1
羽口,鉄滓→2
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→3
石積塚→0
やぐら→114
E,埼玉県
・遺跡総数
200
・土葬or火葬
土葬→50
火葬→78
・特徴ある副葬
古銭→35
ガラス玉(水晶,土玉含む)→3
鏡→4
鉄鍋→7
鉄釘→6
刀剣(刀子含む)→7
陶器,かわらけ→54
漆器→2
仏具(五輪塔,板碑含む)→32
馬具→0
甲冑→1
羽口,鉄滓→0
硯→2
・特徴ある墓制
周溝墓→0
鍋被り→0
石積塚→0
やぐら→1
以上の通りである。
さて、北関東に至り、東北と北陸ではあまり使っていなかった新たなワードが2つ出てきたので確認しよう。
・「横穴式坑(又は横穴式土壙)」…
「山梨県まいぶん用語集」より…
「土坑の一種で、地下に向かって掘られた穴のこと。概ね縦に深く掘られた穴『縦坑』とその底から横に掘られた穴、さらに地下室から構成されます。その用途については諸説あり、何らかの物品の貯蔵庫であるとか故人の埋葬に関係している施設だ、などといわれています。」…との事。
始め登場した時は段がついた土壙みたいであったが、横穴と地下室の上部(屋根の部分)が潰れてしまった物だった様だ。
この手の土壙は関東には多数あり、中には単独で検出された「横穴式土壙」を中世墓としてカウントしている県もあるが、人骨を伴わない事が多い(その割に副葬同様の物が検出したりする)ので、人骨を伴わない場合はカウントしていない。
関東や中部にはある様だが、あまりそんな表現を北海道〜東北の発掘調査報告書で見掛けないので、なんだか解らなかった。
・やぐら…
こちらは千葉県で初見である。
千葉県では114/492件(23%)を占めるが、古墳期の「横穴式古墳」の様に、崖らに横穴を開け内部に祭祀場を設けた様な印象。
中には板碑や五輪塔,龕(厨子)が置かれるので墓ではあるが、これも板碑らの様に人骨が無ければカウントはしていない。
横穴式古墳の再利用をしている場合もあるようだが、同様の物は北陸にもあったが「やぐら」と言う表現はしてはいない。
では、内容について。
A,土葬or火葬…
埼玉県においては火葬リッチだが、他県ではイーブンか火葬プアの様だ。
実際に火葬墓,土葬墓の検出数で比較すれば、恐らく土葬リッチの方向に向かう感触はあるが、傾向を見る為に検出遺跡数カウントなのであくまでも叩き台である。
これを見る限り、より北陸,北関東共に、より畿内に近い方で火葬リッチの方向なので、仏教伝播に伴う北上を示す傾向と言えるのではないだろうか。
それは板碑や五輪塔らの検出数でも同様で、概ね山形県〜宮城県ライン+秋田県〜津軽の日本海ルート上で似た傾向&徐々に減衰し、岩手北部〜糠部,下北半島方面で土葬リッチが強い方向へ…つまり墓制文化グラデーションが掛かりながら北上していると言えるのではないだろうか?
これから同様に北海道も確認するが、土葬リッチにはなるだろう。
東北編でも述べたが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047
「末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート」…
奈良,平安(擦文文化)期の
・人的,文化らの移動は糠部方面…
・新技術や権威財の移動は秋田,津軽方面…
この図式やグラデーションの様は、中世でも維持されているのではないかと想定出来るのではないだろうか。
これ、有珠善光寺や等澍院の寺伝でも、慈覚大師円仁は恐山→胆振,日高方面へ渡った伝承。
遺跡から見る繋がりは、案外寺伝としてトレースされている様だ。
こんな表現はどうなのだろう…
北海道(特に後志,石狩平野から胆振,日高ライン)と北東北の繋がりは、
・糠部,下北半島方面→親戚付き合い
・津軽,秋田方面→商売や友人付き合い
勿論、これは比率の問題で0:100ではないし、時代によりその比率も変化するであろうから奈良,平安〜中世の傾向として…と、註釈を付けるべき「例え」だが。
B,特徴ある副葬について…
敢えてカウントはしていないが、牧が拡大されたせいなのか?不思議と馬や牛の骨が検出される記述が目立つ様になる。
最強の馬産地とされた陸奥はあまり獣骨の検出は少なかったりするのだが。
同時にほぼ千葉県に偏重するのだが、「アカニシ」ら貝を副葬している点。
同じ北関東でも千葉県以外には殆ど無いので、千葉の特徴なのだろうか?
さて北陸編で「数珠」の記述だが、素材が解らなかったが北関東では幾つか記述がある遺跡がある。
栃木県湯津上村「小松原遺跡」16世紀、長方形土壙墓の副葬が、
「人骨(壮年男性) 土師質土器3点、ガラス製数珠玉15点、永楽通宝6点」である。
また、埼玉県志木市「城山遺跡」15~16世紀、土坑墓とされる「27号土坑」の副葬が、銭貨6枚、ガラス数珠玉」となっている。
勿論、他にも「数珠のみ記載」「水晶や木玉、土玉の記載」もあるが、この通りガラス玉は数珠素材として本州でも流通していた事が解る。
数珠のみの記述の中には、ガラス玉がある可能性が出てくる。
この二箇所、ハッキリ記述された遺跡は15世紀位から使われたと推定される。
つまり、ガラス玉は15世紀には国内流通していた事になる。
北陸編で述べた様に「一乗谷朝倉氏遺跡」ではガラス工房があるし、京らでもそうだろう。
敢えて身も蓋もない事を言えば、北海道のガラス玉は北方由来で説明されるが、中世〜江戸初期位の本当にそうなのか?…この辺は、ガラス玉の成分分析で明らかに出来るだろう。
江戸期の山丹交易での「虫食い玉」から遡る事は多いのだが、それは江戸幕府の贅沢禁止令で本州のガラス工房が煽りを食らい廃れた為に見えなくなった点もあろう。
現実、こんな風に流通は証明可能。
付記すれば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/27/184710
「「ガラス玉」の背景、あとがき…主な産地の一つは「インドネシア」、そして…」…
我々が捉えているガラス玉の断片。
勿論、「フリース船隊航海記録」でも東南アジアのガラス玉は、現地yezoの人々に交換用に持ち込まれた。
江戸初期より前の時代と解る物が検出出来て、それが山丹交易でもたらされたと証明するには成分分析が必要になるが…
もう一点。
和鏡だ。
東北に於いては、墓の副葬より経塚ら祭祀場での検出が多い和鏡だが、ここ北関東に至るとそれが目立つ様になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/27/210830
「和鏡を中心にした墓の副葬について…似たような物なら日本中にある!」…
ここで述べた様に、和鏡の副葬は日本中にある。
これも北海道固有ではない。
祭祀場や和鏡については、また別途取り上げたいと考えてる。
C,周溝を含めた墓制変遷…
北関東では円形周溝墓は検出されていないが、ちょっと変わったタイプがあった。
これは、次の項で述べたいと思う。
D,集石塚について…
所謂東北、特に庄内周辺にある円錐状に石を塚状に積み上げたタイプの「集石塚」(ケールン型と言うべきか?)は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/22/112144
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝−2…山形県の「ケルン(ケールン)?」と「天神山の石組遺構」についての備忘録」…
北関東では見当たらなかった。
この辺は、データ収集者の捉え方や編集の問題で「経塚を墓と捉えるか?祭祀場と捉えるか?」らでカウント数に差が出てくる可能性はある。
例えば、青森,秋田のデータでは、発掘をしていない「板碑群」をカウントしてはいないが、北陸,北関東ではカウントされていたりする事で推察出来る。
何せ板碑は
・死者埋葬後の墓標としての「墓」の機能
・「生前建立」により死後極楽浄土へ行ける様に祈願する「祭祀場」の機能
両面持つから、データ収集者と編集者との摺合せが不足すれば、この様な事は起こり得る。
北関東で見られる「塚」は、土や砂を円錐状に盛る物の様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/21/210704
「そもそも「石垣」とは?…改めて「石積み構造物」を学んでみる」…
この素材差は「垣=結界」と言う視点から考えれば、石であれ砂であれ機能的には差は無い。
むしろ宗派の教義的な差と言うより、石の入手可否や石積技術の有無等、現地の環境や文化差が地方柄を生むのかも知れない。
ここで、石の使い方として北関東では、石を立体的に積み上げると言うより、北陸ら同様に平面的に「敷く」事が多い様だ。
例えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…
前項で取り上げた「方形配石荼毘墓(むしろ方形型火葬墓か)」に類似する事例は、
配石が薄いのでどうかとは思うが、近似と言えば近似ではないだろうか?
群馬県藤岡市「緑埜押出シB遺跡」中世(板碑紀年1286年)、集石墓。
集石と下部土壙とに年代差がある様で、土壙墓墓域に後付けで集石を施したのが妥当とある。
鎌倉街道との関係が示唆されるとの事。
又、配石パターンの真逆、方形周溝墓だが、
前橋市「鳥羽遺跡」平安後期の土葬墓ではあるが、墓と本体の周囲に方形周溝を施している。
この様に、ポツポツと方形型火葬墓と思われるものはあるのだが、北陸は富山,石川両県の様な明瞭さや数の濃さは無いようだ。
ここまで中世墓資料を、青森→埼玉、富山迄、続けざま,連続的に追ってみた。
さて、筆者の様な墓制に全く知識が無い者でも、さすがに幾つかのパターンがある事に気付いてくる。
・「方形火葬墓」…
・「十字型火葬墓」…
・円形,方形又は不規則なもの…
・T型火葬墓…
実写の「十字型」と「円形」は、「夷王山墳墓群」のもの。
この北海道上ノ国町の例の様に、北東北では「円形」「不規則」なものが多い様だ。
ここで…
・日本海側…
方形が増えていき、富山,石川両県の「方形型火葬墓」が目立ってくる。
・太平洋側…
宮城,福島辺りからT型が出現し、北関東に至るとそれが目立ってくる。
こんな傾向はある様だ。
今回のカウントは遺跡数なので、あくまでも叩き台…森を見るだ。
恐らく論文は出ているかと思うが、個別の墓の全データからこの分布を割り出せば、墓制の拡散分布と宗派別の傾向は見えるのではないだろうか?
檀家や霞の分布の裏付けや宗派拡散の傾向や系譜の確認は出来そうな…
土器編年や年輪測定法同様、この墓制や金銀銅の不純物らの日本統一のデータバンクが有れば、系譜らは一発で引き出せそうだなと、素人考えでは思う次第。
もっともこれには「それぞれの遺構,遺物の定義化」が必要ではあるが…
まぁ、本来それをやるのが「学会」なのだろうけど…
学閥間闘争が始まるからムリなのであろうか?
E,十字型火葬墓について…
いきなり核心を。
千葉県市原市「新地遺跡」15末〜17世紀。
ここに来て、漸く「十字型」の記述があり、そのままの形状の火葬墓を見つけた。
「東北編」に書いた様にこの「十字型火葬墓」は、今のところ我々が捉えているのは、
北海道の
・上ノ国町「夷王山墳墓群」
一箇所と秋田県の
・大館市「山王岱遺跡」(14~15世紀)
・琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)
・琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)
の4箇所のみで、他の東北と北陸では見る事が出来なかった。
なので、この千葉県市原市「新地遺跡」で6例目。
ここで…
夷王山墳墓群と北海道に関しては、改めての確認になるが、夷王山墳墓群の運用時期は主に中世なのだろう。
秋田県の事例は古代〜中世、千葉県の事例は15末〜17世紀と時代が下る。
ここだけ見れば、秋田県→夷王山墳墓群→千葉県の順になり、単純な北上とはならない様だ。
ならば、
・9世紀以前に十字型があり、秋田県,北海道では古い形態が残されそれが後代に千葉県で復活…
・他のルーツがあり、早い内に秋田県へ伝播→北海道へ、同時に千葉県にはかなり遅れて伝播…
こんな事が考えられるのではないだろうか?
これらは風習…人の移動や宗派拡散が伴い発生するだろう。
何処かにそれを行った人々は居るだろう。
それが誰か?。
いずれにしても、これだけ飛び飛びになるなら、船での移動らの関与を考えねばなるまい。
江戸期には千葉県では「出羽三山信仰」が盛んになり、「三山塚」が築かれたとか。
また中世に秋田の大館周辺を治めた鎌倉御家人からの一族、「浅利氏」は熊野信仰に熱心な時代があり熊野詣での記録があるとか。
この辺の関与か?それとも…
この辺もいずれ確認範囲を広げて確認したいと思う。
F,鍋被り墓について…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/18/054340
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝…「鍋被り」の風習の東北での実績は?」…
ここで取り上げた「鍋被り墓」だが、北関東に事例はある。
茨城県は、
・つくば市「手子生城跡」戦国期
土師質擂鉢
・ひたちなか市「(武田)西塙遺跡」中世末~近世初
内耳土鍋
栃木県は、
・佐野市「小峰山遺跡」中~近世
鉄鍋?
千葉県は、
・光町「夏台遺跡」15世紀
鉄鍋
・大栄町「かのへ塚遺跡」14~16世紀
鉄鍋
・千葉市「堀之内城跡」14~15世紀,近世(鍋被り墓は17世紀代)
内耳鉄鍋
ここにある事例だけを見ると、中世末から広まり、とちらかというと海側に偏り気味。
東北事例での福島→青森と飛ぶのも、海ルートでの伝播が絡むのであろうか?
勿論、筆者はこれを追ってる訳ではなく、中世限定の「中世墓資料集成」のみで確認しているので、記載無き事例や古代や近世の事例は捉えていない事は悪しからず。
また資料に出食わしたところで取り上げてみようと思う。
G,板碑の伝播ルート…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/25/104404
「「へっつい」を伝えたであろう石工集団…生きていた証、続報11」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/11/210211
「対岸の状況はどうだったのか-3、更にあとがき…「稲崎袰崎神社の板碑」と安東(藤)氏の関係、そして…」…
この辺で今迄も板碑は取り上げてみたが、まんまなので触れておこう。
これは秋田県井川町にある「板碑群」の一つ。
この違いが解るだろうか?
ではこれを。
自然の石の形を活かし、梵字等を彫る。
これが「関西型」とか。
対して、違いを明示して。
埼玉県さいたま市「宿の二ツ塚」の「板碑」
頭の部分は∧形、全体的に整形されて、頭の部分に二本線を施す。
これを「関東型」とか。
細かい違いや専門用語は抜いて、ざっとした違い。
北陸では幾分混在度は高いが関西型>関東型なのは言うまでもなく。
逆に北関東では関西型<関東型で、むしろ殆ど関東型では。
まだ、この辺は深堀りしていないので、原因らは別途。
先の秋田県の事例では、
・井川町…ほぼ全数が関西型。
・横手市…市内での混在で関東型も混じる。
こんな感じになり、横手市の事例は関東型を結構強く出しているのではないだろうか。
北関東と北陸で割と明確な差があるせいか、伝播先の秋田県でその伝播ルートが解ってくる。
沿岸…北陸からの北上か、関西型で殆どを占め、ほぼ北朝紀年。
内陸…関東からの北上か、関東型が混じり、南朝北朝紀年が入り交じる。
こんな傾向はある。
南北朝期を挟むので、形だけでなく紀年元号も含めると伝播ルートまで推測出来てしまう訳だ。
北陸からの日本海ルートは船で北上、関東からの太平洋ルートは陸路で陸奥側から伝播…だろう。
鎌倉御家人だった浅利氏や小野寺氏が様子見だった様な話はあるので、混在…こんな想像も面白い。
割とこの様な紀年遺物からも、あれこれ解り、それと他の事例を組合せると説得力も増してくる。
井川町周辺は、北陸との繋がりを持ちながら、早い内から北朝側へついていた事に。
さて…秋田の中世には謎がある。
・十三湊から分派した「湊(上国)安東氏」の秋田入りは何時か?
・南朝方として赴任した「葉室光顕」は誰に消されたか?
で、少なくとも吾妻鏡らに記載される「湯川湊」比定地である井川町周辺の湖東地区には、南朝紀年の板碑はほぼ存在しない…
で、十三湊安東氏はかなり早期に北朝方について、日本海ルートの運用を安堵され、京,北陸との連絡に南朝方(吉野)は邪魔…なら?
北浦日枝神社の棟札と合わせれば…
まぁ邪推はここまで。
如何だろうか?
単に古書や書状だけでなく、紀年遺物や発掘結果も合わせると、現物故に見え難いものも見えて来たりする。
今回は中世墓で東北と北陸,北関東迄追ってみた。
墓制や副葬、板碑らは鎌倉御家人や陸奥将軍府の武将より、在地土豪らの性格を示すのではないだろうか?
そんな意味で北海道と接続すれば…?
敢えて…
時代が合わぬ「北方や大陸文化」に由来を求める必要はない。
東北をグラデーション地域にして、北陸,北関東との接続は可能っぽい。
この場合、道南〜石狩低地〜胆振,日高らは、人の移動や文化伝播の対象に成り得るだろう。
丁度、擦文文化期が終わる時代の事だ。
これ、正に「口蝦夷」の領域。
口蝦夷は現状想定より、本州文化に近くなる事になる。
まぁゆっくり掘り進め様ではないか…
参考文献∶
「中世墓資料集成−関東編(1)−」 中
世墓資料集成研究会 2005.5月