北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

さて、宿題に取り掛かるとしよう。

「中世墓資料集成−北海道編−」である。

ここに至る迄には紆余曲折があった。

古書屋で入手が難しかったので、図書館から借りられれないか当たったのだが、アッサリ借りる事が出来なかった。

理由は、ほぼ公的図書館で保管されていない事。

図書館には相互に貸出し合うシステムがある。

概ね、同書の自地域版は保管されている様だが北海道編が無い。

実は、北海道内の公的図書館で引っ掛からなかった。

確か、館内閲覧専用の場合でも、借りる地域の館内閲覧で借りられる様なのだが無かった。

で、大学図書館迄検索の編みを広げた…北海道内の大学ではやはり検索には引っ掛かって来なかったとの事。

つまり、北海道内でこれを読むのは難しい事になる。

何故だ?

本州内の大学で保有しているところがあり、借りるに至る。

最悪は、国立国会図書館には必ずある。

基本的に手続きさえ踏めば、読めない本は無いのだろう。

 

では、進める。

条件は今迄と同じ。

土葬∶火葬、特徴ある副葬も検出遺跡数でカウントするので、傾向を見る事になる。

と、北海道の場合、少々厄介な点がある。

それは中世単独と言うより、中〜近世という表記が多い事だ。

理由は簡単。

編年指標が限られるので、どうしても江戸初期の火山灰の上下で振り分けられるからだ。

と言う訳でその点は、

・「近世」のみの表記遺跡はカウントしない

・火山灰表記がある場合、「上」なら近世とみなしてカウントせず「下」ならカウントする

こんな定義でやってみた。

火山灰も複数回降り注ぐ。

なので、カットポイントが1739年(樽前Ta-a)もあれば1667年(樽前Ta-b)も出てしまう。

だが、指標がそれしかないならやむを得ない。

火山灰降灰前後で分別可能だし、少なくとも「黒0」より確実に前になるのは間違い無い。

では北海道のデータを。

全道…

・遺跡総数

121

・土葬or火葬

土葬→79

火葬→13    

・特徴ある副葬

古銭→18

ガラス玉(水晶,土玉含む)→16

鏡→6

鉄鍋→23

鉄釘→10

刀剣(刀子含む)→57

陶器,かわらけ→9

漆器→40

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

鈎,ヤス→6

甲冑→6

骨角器→10

装飾品→11

・特徴ある墓制

周溝墓→6

鍋被り→2

石積塚→0

 

今迄と同じ指標で都道府県単位で比較するならこうなる。

土葬∶火葬は76∶14位。

以上…と、ここで終わっては、何か傾向が見られるのか?

「でっかいどー北海道ー」…

なら、ここから手を入れる必要がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

折角、青森を津軽側と南部側に分別したのだ。

中世の「上国」「下国」が反映するか見ない手はない。

で、分別のルールは

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

先に分布を見た「チャシ」同様に…

・道南…

渡島,桧山

・西蝦夷地…

後志,石狩,空知,上川,留萌,宗谷

・東蝦夷地…

網走,胆振,日高,十勝,釧路,根室

として、チャシとの関係も比較してみようではないか。

では、

 

道南…

・遺跡総数

28

・土葬or火葬

土葬→18

火葬→9    

・特徴ある副葬

古銭→12

ガラス玉(水晶,土玉含む)→5

鏡→0

鉄鍋→4

鉄釘→8

刀剣(刀子含む)→9

陶器,かわらけ→4

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

鈎,ヤス→1

甲冑→2

骨角器→2

装飾品→2

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→2

石積塚→0

 

西蝦夷地…

・遺跡総数

62

・土葬or火葬

土葬→45

火葬→3    

・特徴ある副葬

古銭→4

ガラス玉(水晶,土玉含む)→8

鏡→5

鉄鍋→13

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→34

陶器,かわらけ→5

漆器→20

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

鈎,ヤス→3

甲冑→3

骨角器→5

装飾品→5

・特徴ある墓制

周溝墓→5

鍋被り→0

石積塚→0

 

蝦夷地…

・遺跡総数

31

・土葬or火葬

土葬→16

火葬→1    

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→1

鉄鍋→6

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→14

陶器,かわらけ→0

漆器→11

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

鈎,ヤス→2

甲冑→1

骨角器→3 

装飾品→5

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→0

 

以上。

では同様の視点で見てみよう。

A,土葬or火葬…

まずは、土葬∶火葬を見る前に、この点を言わねばなるまい。

中世墓の地域毎の検出数がべらぼうに差が出ている。

総数に対して、

道南…23%

西蝦夷地…51%

蝦夷地…26%

だ。

極限られた面積の道南と東蝦夷地が似た数値…如何に東が密度が低いか解る。

これ、検出遺跡ではなく検出墓数になると「西>道南(或いは西と道南の逆転)>東」になるかと思う。

何故ならば「墓域として確立された場所を有する」からだ。

道南には上ノ国「夷王山墳墓群」が。

西には余市「大川,入船遺跡」や千歳「広末遺跡」らがある。

東にはそんな大墳墓群が無い。

ここだけ見ても東が如何に人口密度が低く、長期定住性が低かったか解るだろう。

擦文文化期に巨大竪穴住居群を保有する東蝦夷地は中世に入り、上ノ国余市にある「継続性と定住性を失う」事になる。

再三言う、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

これが極顕著なのは「東蝦夷地」側、これを埋めるには東の発掘で大規模中世居住遺跡を見つけるしかない。

さて、もとい…

土葬∶火葬比率は概ね、

道南…7∶3

西蝦夷地…9∶1

蝦夷地…ほぼ火葬無し

となる。

これも墓数で表せばかなり見え方が変わるだろう。

それだけ「夷王山墳墓群」の火葬検出数が多いので偏りが出てくるだろう。

この辺は、先に示した青森の津軽側と南部側の差をトレースしていると考えられる。

何せ、東唯一の火葬墓こそ伊達市「オヤコツ遺跡」の方形配石火葬墓

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

なのだから。

古い地域分けをどうするか?

ここは問題があるだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050」…

「「松前旧亊記」の記述…実は松前氏は元から村が有るのを記している」…

これにして、ベースの「新羅之記録」にして、鵡川余市には人里があると記される。

一応、中世とは言え、江戸期の区分に近付け分別しているので、仮に胆振,日高迄を西側に加えると、如何に東側の人口密度が希薄になるか?、これは火を見るより明らか。

この場合、日高より東には火葬墓の検出を見ないので、より青森の結果をトレースする話は妥当性が上がる事になる。

まぁ東の薄さが想像以上だった事以外は、概ね予想通り。

 

B,特徴ある副葬について…

まずはここでも、ハッキリさせておく事がある。

これは平取町「二風谷遺跡」の墓。

アイノ文化期の墓と言えば、こんな形をイメージするだろう。

「東頭位−長方形で伸展葬−多彩な副葬」。

ここで…

道南…75∶25

西蝦夷地…55:45

蝦夷地…記述無きものありで、38∶42

これ、何の数字だろうか?

実は長方形墓∶楕円,小判形墓の比率。

これ、当初から気が付いていた。

余市「大川遺跡」でのアイノ墓とされたものの一覧。

長方形だけではなく、楕円や屈葬ではないかと思われる物があったから。

では、割と明確なところを。

千歳市「末広遺跡」。

足が折られている。

同市「カリンバ2、Ⅳ地点」。

これ、真っ直ぐ伸ばして横たえてる事が出来ているか?

見ての通り、耳飾有り。

と言う訳で、中世に於いては長方形も楕円形も、伸展葬も屈葬もごちゃ混ぜの可能性はある。

これを3つの基準で見てみよう。

A,上ノ国の視点…

「夷王山墳墓群」では、長方形墓をアイノ文化人の墓、楕円墓と火葬墓を本州系と見ていた。

が、千歳,余市らの見解で見た場合、楕円墓や屈葬墓もアイノ系と判断する事になり、アイノ系墓は殆ど検出されない事になる。

下手をしたら、武田信広の家臣団はアイノ系になってしまう。

B,千歳,余市らの視点…

千歳,余市らでは、これらは一律にアイノ系墓と見ていた。これを上ノ国の視点に合わせれば、長方形墓はアイノ系、楕円墓は本州系となりかなり混雑,,共存していた事になる。

C,本州から接続した視点…

墓の形は混在し、事例は少ないとは言え、ある程度津軽と南部の地域差をトレースしているので、本州と似た傾向のまま北海道まで伸びており、特異性は見られない。

となるだろう。

さて、本題。

もっとも副葬でそれっぽいと言えば、耳飾や垂飾と言ったものだろう。

ガラス玉は数珠として、骨角器も本州で実績があるので可能性を払拭出来ない。

上記では「装飾品」としてカウントしてある。

この際ピックアップしてみよう。

 

・道南…

夷王山墳墓群…15~16世紀、耳飾

久末屋敷遺跡…中~近世、耳飾

計2箇所

*近世では

瀬田内チャシ跡…鉄腕輪

 

・西蝦夷地…

末広遺跡…1739年以前、耳飾

美々4遺跡…1677年以前、垂飾

ユカンボシC15遺跡…1739年以前、耳飾

カリンバ2,Ⅳ…1739年以前、耳飾

カリンバ4遺跡…1739年以前、耳飾

計5箇所

*近世では

大川遺跡…耳飾

入船遺跡…耳飾

泊岸1遺跡…垂飾

オンコロマナイ遺跡…耳飾

 

・東蝦夷地…

入江貝津…中~近世、耳飾

オネンベツ西側台地遺跡…中~近世、垂飾

幣舞遺跡…中~近世、耳飾

温根沼第二遺跡…中~近世、耳飾

植別川遺跡…中~近世、耳飾

計5箇所

*近世では

網走川口…垂飾

コタンケシ遺跡…垂飾

別海2遺跡…耳飾

以上。

この中で明確に時期が中世と解るのは、夷王山墳墓群のⅠ地区にあるアイノ墓とされる物の一つ。

他は火山灰直下やその前時期位で、下限を決める事は出来ても明確な年代特定は不能、且つ13~15世紀位の遺跡で検出されている訳ではない。

勿論、釧らは東北でも阿光坊古墳群ら7~9世紀の末期古墳などで検出されるが、北海道で装飾品が再出現するのは今のところ早くて15世紀、遅ければ16~17世紀。

で、研究者の皆さんは「北方との関連を示唆させている」…だ。

この空白をどう説明するのだろうか?

ついでに言えば、千歳付近…開拓使が入る頃の状況は?

江戸期の火山灰直下の遺跡状況と、幕末~明治の姿を並べてみたらどうなるか?

石狩低地の多くは原野だった様な、故に道路は碁盤の目状に新規に作られた様な…

その人々は?

もとい…

検出数がやたらと少ない道東、それも根室,釧路や網走方面に割と出現している点、西側では上ノ国余市の湊町、千歳辺りに集中する傾向がありそうだ。

突発的に出現する訳ではないのは漠然と想像可能だろう。

結局、北方との繋がりを示唆すればする程に「途中に空白がある」以上、北方侵入説を払拭する事は出来なくなる。

それも時期的には中世末~近世初に、ある程度限定されてきてしまう。

だが、それを示す古文記述があったりする。わざわざ有ったか?無かったか?解らぬ戦に頼る必要なぞない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/26/205225

「「夷狄商船往還法度」とは何か?…この際、新羅之記録を読んでみる2」…

友好的に(蠣崎氏にとっては屈辱的に)、夷狄と言われた人々が近辺へ居住する事を許された記述。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」」…

わざわざ西洋人やバテレンが耳飾をしていたのは「yezo、つまりメナシ,テンショ国の人々」だと書いてくれている。

まんま答えは書いてあったりすると思うが…

これで、ある意味考古遺物と古書で整合はとれているのではないだろうか?

まぁ他の墓制はある程度、本州をトレースしている。そこにメナシ,テンショ国の人々が入って来ても、この段階で傾向がガラリと変わった訳ではないので、この段階での移住はあったとしても規模はそんなに大きくはないのだろう。

蠣崎(松前)氏が納得し、大殿が承認した話であれば、何の問題も無いが。

さて、次。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

本文内に周溝記述があるのは、中世段階では千歳辺りに集中している様だ。

勿論、近世では二風谷らでも検出するが。

ここで忘れてはいけない話。

伸展葬や周溝墓の検出は、江別や恵庭の末期古墳から。

続縄文では、楕円の屈葬が普通。

何度も書く。

 

D,集石塚について…

記述があるのは、余市の大川遺跡と伊達のオヤコツ遺跡の方形配石火葬墓のみの模様。

今のところは特異点である。

 

E,十字型火葬墓について…

これも上ノ国の夷王山墳墓群と、せたな町の利別川口遺跡にある模様で、秋田湊らと交流が有ったであろう日本海側に限られる。

本書では、火葬墓と言うより火葬施設の可能性を示唆している。

さて、本州の何処にあるであろうか?

 

F,鍋被り墓について…

道南に2件記述あり。

函館市「弥生町」15世紀…

上ノ国町「洲崎館遺跡」15世紀…

なかなか微妙な時期、位置関係だと思うのは筆者だけであろうか?

 

G,板碑の伝播ルート…

2件の記述。

所謂、

「貞治の板碑」14世紀…

「戸井の板碑(3基)」14世紀…

上が貞治の板碑だが、関東型か関西型か微妙ではある。

戸井の板碑は頭頂付近の二本線を見る限りは関東型の様だ。

なら、陸奥側からの伝来であろうか?

この辺はまた文献らで確認したい。

 

H,中世墓とチャシとの関係…

今回、新たに出た視点である。

此処までツラツラ書いてきたので概ねお気付きではないだろうか?

墓の検出数は…

西>東となる。

チャシの検出数は…

西<東となる。

道南を抜いたら、更に顕著になるだろう。

さて、何故か?

チャシが仮に長の居館であれば、周りの人口密度が激しく薄い場所に構築した事になる。

そんな事があるだろうか?

幾つか考えてみよう。

・特定季節しか使わない…

春〜秋限定でしか使用しないとすれば、鮭の季節漁らの監視用。

が、わざわざ濠で囲う必要があるのか?…なら、豊漁祈願の神社らで説明は付きそうだが。

勿論、漁だけとは限らないとは思うが。

・常時使う…

あくまでも集団の長の居館だとすれば、一つ気になる事はある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

竪穴住居が近世迄使われていたとしたら?

幾つかある擦文文化期の大規模集落が、中世迄時代を下る可能性が出てくる。

そう、擦文文化期の時代終焉が地域によりズレている場合だ。

ズバリ書けば、メナシ,テンショ国の人々は、道南,道央,胆振辺りに比べ竪穴→平地化と土器使用が150年位は延びていた…だ。

幾つか、編年指標がズレている指摘はあったかと思う。

十勝の中世墓検出は実は一件しかない。

胆振,日高の途中迄と釧路,根室,網走方面の間に、十勝という緩衝地帯を挟み、文化グラデーションが中世迄ついていたなら…だ。

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448

空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…

Me-a(1)雌阿寒岳の噴火火山灰と近くの擦文集落との関係性らで見ていく必要があるかと考える。

仮に廃絶原因がこの噴火であれば、14世紀後半迄時代は下る。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/15/144234

「こんなに違う、住居文化…想像より北海道,樺太,千島で三者バラバラ」…

明治位迄、樺太,千島では竪穴住居の使用が認められるのだから、そこからの移動なら十勝で江戸期迄竪穴住居が使われていても何の矛盾も無い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/25/202424

「時系列上の矛盾…少ない「編年指標」と地質学からの新たなアプローチ、そして」…

農聖「石川理紀之助」翁が持ち帰ったとされる北海道系土器。

千島方面では、近い時代迄土器使用があったらしい事は聞いているので驚く話ではなさそうだが。

なら、擦文文化期終焉が地域により違っていても別に矛盾は出ては来ない。

何せ、アンジェリス&カルバリオ神父が記すyezoはメナシ,テンショ国の人々の事だろうから。

この辺は今後の課題だろう。

 

さて、如何であろうか?

何とか墓制や中世城館を本州側から接続してみて思うのは、「そんなに特異性があるようには見えない」だ。

系譜を辿れば可能であろうし、縄文この方津軽海峡は「しょっぱい川」にしか感じないのは筆者だけであろうか?

勿論、その先の大陸要素は時代に於いては持っているが、文化グラデーションが掛かるとすればそんなもんかな…が本音で、似たもんは本州にあるではないか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720」…

宗教観迄加えれば、こんな話は成り立ってくると思うが。

まぁ、所詮これは傾向を見る為のお試しデータ。

ここから細かいところを見ていけば…

宿題は山積みなのは変わらない。

 

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−北海道編−」 中

世墓資料集成研究会 2007.3月

 

「1993年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要V-」  余市町教育委員会   1994.3月