生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/04/194340
前項にある「竈」。
これとリンクする様に変遷する物…食器である。

実は、SNS上で意見を交わさせた中で、

①擦文土器が15世紀位迄使われていたのではないか?と言う論文があった。
それによると、土器編年の研究上で食器と思われる形状,sizeの土器が、代替え品(木製品,陶磁器等)の登場を待たず欠落する時期がある
②「内耳土鍋」の分布の話で、11~13世紀から樺太では出土されているが、千島では15世紀位から集中出土し始める

この二点の話があった。
非常に興味深い話だった。
これと同時期にたまたま、古本屋に立ち寄った際、何気に入手した文献がある。
国立歴史民俗博物館の大学院セミナーの内容を記述した「考古資料と歴史学」。
当然これは、現状歴史学でのメインロードでの研究なのだろう。
上記①,②、文献の記述内容、我々がテーマとしている内容が被る事があるので、少々引用してみたい。

考古学上出土した土器を、単なる土器と捉えずに食器の一部と捉えた検討は、割と最近になってからで、古美術の陶磁器史研究からの波及らしい。
陶磁器史に関しては、海外陶磁器も含め、美術的観点から、土器らに対して先行し編年過程が解明されており、それを考古学上の時代編年へ利用している様だ。
考古学上資料は殆どが破片だが、完品での陶磁器史の場合は、文献史学を利用出来るのも特徴。何せ物によっては権力誇示の道具であるのは事実。
だが、これを応用した場合、どの様にそれら蓄財品も含めた「食器としての物流,商業」へ繋げるか?この点に問題が出るらしい。
民需も含む為、文献史での追跡,捕捉が困難になってくる。
文化拡散を見る上では、記述が少な過ぎて限界がある。
そこで破片である考古学と結びつけ、食器として考え、その拡散範囲を調べていくと言う事の様だ。
微妙な書き方だが、これで我々が専門の研究,学習を今までして来ていないズブの素人集団だと言う事は、それらをやって来た方々なら直ぐ解るだろう。
はい、全く〇からのスタートでございます🙇
ここまでが前提。
では引用を…

「上記の中世的食器様式は、考古学からさまざまな視点で中世史にアプローチする有力な素材となりうるが、ここでは、中世の開幕とともに顕在化した東西日本の大地域性-東の漆器椀、鉄鍋単一地帯と西の土器〓(筆者註:フォント都合で「土へんに宛(碗の異体字)」)、鉄鍋+土鍋複合地帯の研究の現状と論点の整理を試みる。」
「中世が煮炊方式-調理の場(火処)と調理法、器において前近代からの大転換期であったことは、十世紀に顕在化する土製煮炊具の大幅な減少、ないし中世前期の東日本における土鍋の欠落、および竈と地炉に変わる囲炉裏・五徳(金輪)の流布に端的に現れている。」
「対する東日本では、十一世紀後半、おそくとも十二世紀のうちに、北は北海道から越前と遠江を結ぶ以東一円で、縄文時代以来の土甕が姿を消し、鉄鍋が使用されたと考えざるをえない状況にある。~中略~東日本でも十五世紀初めころ関東・甲信と東北南部の一部、十五世紀半ばには東海西部(尾張遠江)一帯で内耳土鍋が復活するという事実があり~後略」
「前略~京都で瓦器がほとんど消費されず、土鍋主流でしかも村落部より使用率が低く、異質な食器空間を保持したことが注目される。その意味については、東都平泉との交渉をも視野に入れた多面的な検討が必要であるが、現象的には漆器椀・中国磁器+鉄鍋という東日本の食器組成と直結する。」
「つぎに、東日本の土製煮炊具は、十四世紀末~十五世紀初めこら関東・甲信から東北の一部で内耳土鍋の生産が開始され、十五世紀半ばには中世前期に古代後期から発達した南勢型土鍋圏に包括されていた東海で、内耳土鍋の地域圏が形成された。」
「前期~東北南部の土師主流の内耳土鍋の分布は、米沢盆地から福島県中通り北・中部にほぼ限定され、伊達氏の領国と重なるという指摘がある。」
「前略~中世後期には、鉄鍋普及にみる東西のみかけの大地域差が解消され、鉄製煮炊具の生産組織網が列島規模で整備されながら、一方で土鍋・釜の生産が小地域差を孕み付加的に存続・復活し、脇鍋などとして使用されるというレベルの普及にとどまっていた事になる。十六世紀後半、耶蘇会の宣教師が記す「日本人は鋳鉄製の鍋や器を使う」(『日欧文化比較』)段階には、内耳鉄鍋と平鉄鍋にみる東と西の大地域性が、吊耳(弦)鉄鍋によって統合され、土製煮炊具は焙烙や繭煮鍋として余命を保つのみとなり、ここに、食膳具より二世紀ばかり遅れて煮炊具の鉄器化が完了したことを示している。しかしなお、中世後期に一定の在地生産の発達がみられた東北北部では、たとえば青森県根城跡出土摺鉢(十六世紀前半)の五六%が在地産で占められながら土鍋がみられないのは、十三世紀後半以降、カワラケ不毛地帯となり漆器椀が儀礼用としても復活したと推定されるのと同質の、根強い鉄器志向の生活文化実態を伝え、経済システムのみでは説明しきれない部分が残る。」
「東日本でおそらく在家から所従・下人層まで早い段階で漆椀と鉄鍋が普及したのは、食器が種子・農具などとともに開発資材の一種であり、館を拠所として在地領主の強力な主導下に地域開発が進展したことを想起すると、貸鍋や夫役の代償として給付される、館を核とする物流サイクルシステムの所産ではないだろうか。」

『考古資料と歴史学国立歴史民俗博物館 「歴史資料としての陶磁器」 吉岡康暢 平成11年2月12日 より引用…

素人集団故に、なかなか難解ではあるが…
東日本の食器の傾向を抜き書きしてみた。

東日本と西日本では、使用された食器の傾向に差異がある。
特に西日本では主に煮炊では土鍋が使用されており、形状や材質により工人集団のムラの存在により、律令下の「国(大和,紀伊等の単位)」で一定の傾向を持ち、それらは分布や編年経過が研究されている。
対して東日本は出土品が少なく、一部欠落が見られる為、現状では平安末~中世での過程で、
竈,地炉→囲炉裏へ…
鉄鍋+陶磁器+漆器の組み合わせへ変遷…
この様に変遷したと考えられている。
都が一部その様な傾向を示す(鉄鍋+土鍋複合ではあるが)は、平泉の影響を加味していく必要を示唆している。
それらは社会基盤の差として、国単位で工人ムラ迄持つ西日本に対して、在地土豪の力が強く郡程度の結び付きを中心に交易した東日本…こんな違いも示唆している様である。

又そんな中、内耳土鍋が関東,甲信,南東北で復活し、特に南東北でのその地域はその当時の「伊達氏領」とリンクするようである。

どうだろう?
都と平泉の関係…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
何らかの伊達氏と北海道の関与…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/02/063246
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/07/093154
中世択捉島に眠る侍の存在…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
南部氏の動向…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
在地土豪の強さ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/02/203302
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
そして、民間のネットワークと言う視点…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/24/080958

まだまだあるが、大体、今まで我々が述べて来た話と上記引用との間に、極端な違いは出て来ない。
当然なのだ。我々は現物の動きをだけを追っており、途中論文らの解釈を排除している。
筆者の教科書は発掘調査報告書の様な物だ。
まぁ移動式竈は除かねばなるまいが。


元々の①,②に話を戻してみよう。
面白いのが、根城周辺の在地系焼物が維持されたり、中世途中で復活した内耳土鍋が「伊達領に合致する」点。
これらは、最近述べているが、仮に新たな領主が入ってきても、元々そこに居る住民が総入れ替えされる事なぞ有り得ない…つまり、民間ネットワークは維持されると言う事になる、これで説明は可能。
平泉と都の関係に言及している点において、平安末の東北の状況は、在地土豪による半民間の集団を安倍,清原氏そして奥州藤原氏が統べていた様な事だ。
基本的に在地土豪は、鉄器らを自前で生産し、荘園らの租税と自給自足分の余剰を、土豪同士で交易に回す様な感じだろう。
ここで鎌倉御家人が入ってきても、室町守護が入ろうと、この土豪同士のネットワークは切れる事は無いし、都とのネットワークも切れはしない。
鎌倉幕府室町幕府も、基本的には各土豪には領土らは安堵の方針なのは、各幕府が地方に出した書状らで解るだろう。
土豪を刺激して、敵側へ寝返らせる様な馬鹿な判断を権力者はしない。
実利主義に徹し、自分の体制へ組み込むのが手っ取り早い支配の手段。
故に平安からの俘囚…エミシネットワークは維持され、それに新領主らが自分のネットワークを追加して儲けを拡大出来ると言う訳だ。
特に14世紀の段階では、南北朝の争乱が起き、北畠氏や南部宗家が陸奥国側に入ってきてからは、出羽,津軽側と陸奥側での交易ルートの問題が起こる。
当然だ、資金源になるので。
つまり、安東vs南部の抗争はそのまま利権争いになってくる。
千島での内耳土鍋の出現も、こんな陸奥側のエミシネットワークを駆使した交易ルート開設,拡大に伴うであろうし、それは根城→聖寿寺館に移った南部居城内の「銛の中柄工房」跡と見られるもので説明補足可能。
対して…
十三湊が陥落しようが、外ヶ浜や秋田湊は安東勢が抑えている。
日本海ルートはそのまま利権を維持したまま運用していれば、都ら大消費地と直結される分、儲けが無くなる事は無い。
畿内から昆布や鮭、皮らが切れる事は無い。
ならば、
土器編年が①の説の様に後年まで伸びるか?
代替え食器が既に登場していたか?
何らかの理由で人が住まず食器を必要としなかったのか?
それらの何れかになる。
が、残念ながら代替え食器の片鱗は無い。
有らば余市の様に時代変遷が見えるハズだ。それが無い。
つまり、土器がもっと新たな時代まで使用されたか、人が住んで居なかったのか?と選択になってくる。

この先、これらの視点は、北畠や南部ら陸奥側と出羽との差異…
鎌倉、南北朝と、北海道~東北の関係に至ってくる。
が、この辺、守護達が身内争いの連続になり、難解…
まぁゆっくり学んでいくしかない。
だが、パズルのピースは揃ってきている。

擦文文化の遺跡の出土品が東北と殆ど変わらないのは、こんな理由だろう。
民間レベルでは、土豪同士のネットワークにより、普通に同じ様な文化,経済圏で暮らしていた「だけ」の事。
蝦夷が何者なのか?…擦文文化人の末裔としか言い様がない。
ここまでは、ほぼ歪みはない。

つまり、
①の食器の欠落は「土器編年経過」にまだ歪みがある事は有り得、中世を消してしまっている。
②千島の内耳土鍋は銛の中柄と共に、南部領側からの太平洋ルートの拡大に伴う交易品として渡った
こんな話でも説明は可能になってくる。
民間レベルのネットワークは新領主とは無関係に、動かさなければ自分達の飯の食い上げだし、新領主にしてもその上がりで軍資金が得られる。
win-winに持ち込まねば、お互いに勢力が衰え敵に食われる。

勿論、これからまだまだ物証を得て種々の論を立証していく段階。
これだけ研究者がいる戦国期だって、城の遺構で関ヶ原合戦が、鉄砲の弾丸から長篠合戦が、それぞれの通説がひっくり返りつつある現代、文字資料が少ない北海道史は、まだまだ未開の領域。
研究者を応援して、闘魂注入する場面だと考えるが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/04/174109
だから、我々は「博物館,資料館へ行こう」と言っている訳だ。


さて、最後にセンシティブな話を一つ付け加える。
上記引用を読んで気が付いた方もいるかと。
西日本では、工人ら特殊技能を持つ人々は、国や荘園の付随とし、集団で工人村を形成している様だ。
対して東日本、特に北海道~東北では、在地土豪がそれら工人と共に交易をしてきた。
社会形態に差がある。
SNS上流れてきたのだが、一部地域での長吏頭(工人その他を束ねる役職)の担当範囲は、鋳物師や瓦器師、山師、芸人ら山や祭祀に関わる部分が多い。
御神体となり、寺社らが神域として設定し、祭祀や造営,管理運用に伴う物品を作る為、それら工人を集める必要があるからだ。
総本山が多数ある西日本、特に畿内では、寺社それぞれの勢力に直結するので当然だ。
さて…浅草彈左衛門は長吏頭。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/26/174810
西日本はこんな感じ。
北海道~東北は、それらは在地土豪が担い、分散されていた。
つまり、工人やそれに伴う利権は、民間レベルに分散されていた。
故に、そんな「集落」が無い。
微妙な問題なのでここまで。
でも、こうやって学べば、某社会問題の根っこも見えてくる。
こうすれば「朝田理論」に振り回されはしない。



参考文献:
『考古資料と歴史学国立歴史民俗博物館 「歴史資料としての陶磁器」 吉岡康暢 平成11年2月12日