最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

さて、あとがき的ではあるが、前項で引っ掛かった事を検証してみよう。

それはどの部分か?

いきなり改めて引用してみよう。

アイヌの姿を描いた最古の史料としては、元亨元年(一三二一)に製作された重要文化財「紙本著色聖徳太子絵伝」(茨城県那珂市上宮寺蔵)が知られている(高倉新一郎編一九七三『アイヌ絵集成』番町書房)[図2]。場面は、敏達天皇一○年(五八一)に起きた蝦夷の大蜂起の際、一〇歳の聖徳太子天皇に建言して、大和国三輪山麓を流れる初瀬川(大和川の上流)の辺りでみずから蝦夷の巨酋綾糟を説服されたという伝説にもとづく「十歳降伏蝦夷所」である。おそらく描いた絵師は実際にアイヌを目にしたことはなかったと思われるが、アイヌの伝統的衣装の一つで「ラプル」とよばれる鳥の羽根でつくった衣を身にまとった人が描かれていることからわかるように、アイヌに対する知識はある程度持っていたようだ。注目されるのは、蜂起を諫める馬上の太子の前にひざまずく四名の蝦夷のうち、三名が持っている半弓とよばれる短い弓と矢筒である。当時和人がアイヌに対して弓矢に長けた人々というイメージを強く持っていたからこそ、このような絵が描かれたにちがいない。」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

この「最古の絵は「紙本著色聖徳太子絵伝」」としている点。

この様に、関根氏はほぼ断定的にそうだと記述しているが、どう考えてもこれは

擦文土器消失が14世紀だったとして、事件のある581年とは約900年、北上市三輪山の距離約700kmの時空を消し飛ばす「キング・クリムゾン効果」。

ならば、引用文献「アイヌ絵集成」上、編集した高倉新一郎博士がどんな意図を持ってこの絵をアイノ絵だとしたか?…気にならないか?

気になるなら、片っ端から確認する…これが我々グループのモットー。

と言う訳で、「アイヌ絵集成」を入手した。

本書は、江戸期に書かれたアイノ絵を集成した「図録巻」と美術史的内容も含めた解説が載る「解説巻」のニ巻構成。

有名なところでは「夷酋列像」らも収集されている。

編集は「高倉新一郎」博士。

本ブログでも度々取り上げているが、各地方史書の編纂や「松前旧記」を収集らに尽力された方、北海道史の重鎮であったのは間違いない。

後代の研究者が取り上げて当然の一人。

では、その高倉博士が上記部分をどう記述していたのか?…下記に引用する。

 

「今日残る最古のアイヌ絵は茨城県那珂町上宮寺所蔵、重要文化財聖徳太子絵伝』中 「十歳降伏蝦夷所」と説明した箇所に描かれたものである。この絵は敏達天皇十(五八一)年 に蝦夷の大蜂起があって洛中が震駭した際、当時十歳の聖徳太子天皇に献言して自ら蝦夷の巨酋綾槽を説服されたという伝説を絵にしたもので、馬上の太子の前にうずくまっ た者の外二名の蝦夷が描かれている。元享三(1三三三)年の作といわれ、鎌倉末の作品である。ここに描かれている蝦夷は必ずしもアイヌだとはいえない。全体として唐画の人物に似ていて、異民族であることを表現するために、唐絵に倣ったのだともいえるが、眼がくぼみ映がなく、眉毛および鬚が濃くて、それと相対している和人と著しい対照をなす容貌に描かれているだけではなく、頭を包み、筒袖で脞までのアイヌのアツシを思わせる衣服をつけ、鳥毛の衣服(アイヌ語=ラブリ)、毛皮の衣服(ゥリ)を重ね、脚胖をはき、腕にアイヌが伝承するものに似た矢筒(イカョップ)をつけ、半弓を持っているところは、すくなくとも筆者が、当時のアイヌを頭に描き、これを現わそうとしていたと見ても強いたものとは言えない様である。

この頃になると、京都の勢力が直接アイヌの世界である蝦夷ヶ島即ち今日の北海道に及ぶようになった。文治五(一一八九) 年源頼朝の奥羽征討から百三十余年、北陸を通じて京都と蝦夷島の交通は次第に類繁となり、文化の中心京都のアイヌに対する興味と知識はかなり豊富になりつつあった。この絵伝より少し後れて、延元三(一二三三四)年、足利尊氏の秘書小高円忠が信濃国諏訪神社に寄進した『諏訪大明神絵巻』には、元享・正中から嘉暦(一三11 7人) 年間にかけて奥羽を騒がせ、蝦夷管領として奥羽の奥地並びに蝦夷島に勢力を張っていた安東太一族の乱を、諏訪明神の神威によって平定した顛末が記されてあり、その中に、安東太に味方したらしい「蝦夷ヶ千島」の蝦夷即ちアイヌの記事をのせている。これによると、アイヌには三つの類があるが、髪髪が多く、全身毛深い、禽獣魚肉を食として五穀の農耕を知らず、九訳を重ねても話が通じにくい。此の中に霧を起こす術、身を隠す術を知っている者があり、戦場に臨むときは、男は甲冑弓矢を帯して前陣に進み、婦人は後にあって木を削って幣帛の様なものを造り、天に向って呪文をとなえる。至って身軽で、飛ぶ鳥や走る隙に同じく、矢は骨を鏃として毒薬をぬり、一寸でも皮膚に触れると死ぬと、アイヌについてかなり正確な情報をのせている。これには名の示す通り絵が伴っていたはずであるが、残念ながら失われて、今日伺う術がない。しかし、アイヌの情報がこれだけ京都にあったとすれば、蝦夷を描くのに、これによらないはずはないと思うのである。但 し、記述も、絵も、実見をした人によって描かれたのではないから、精々それらしい姿に描いたというにすぎなかったと思われる。本当のアイヌ絵が現れるのは、更に三百八十年ほど後、江戸中期、享保以後のことであった。」

アイヌ絵集成」 高倉新一郎  番町書房  昭和48.5.20  より引用…

 

以上である。

記述順に、ちょっとポイントを…

①最古の絵は「聖徳太子絵伝」である

聖徳太子に諭された「蝦夷2名」が描かれる

③描かれている蝦夷は必ずしもアイヌだとはいえない

④唐画風に装飾

⑤京の勢力の影響が北海道に及んで交易らが盛んになる時期の作で、北海道の情報は京にも伝わっていただろう

⑥代表例は「諏訪大明神画詞」

⑦実見ではなく、情報からの想像だろう

⑧実見による本当の意味での「アイノ絵」出現は、更に380年後の江戸時代…

こんな感じか。

割と支離滅裂っぽいが、他でも肯定→否定→肯定した理由の解説…こんな構成の文は、新北海道史でもあったかと思うので、意図してやられているのだろう。

さてこれを見て、高倉博士は肯定しているか?

③にあるように一度否定しており、断定している訳ではなく持論を述べている事になるだろう。

③の部分は同書では改頁された処に記述されるので、関根氏が次頁を読まなかったと言う事はないだろう。

とするなら、関根氏は高倉博士の持論を支持してあんな記述をした…こんな感じなのだろう。

そりゃそうだ。

何度も書くが、後代に生まれた文化名、それも距離が離れる場所、それらを直接結びつけられる訳がない。

いずれにしても、引用元の文章では「高倉博士は断定まではしていない」事は間違いなさそうだ…ここまでは解った。

 

ではさて…

高倉博士は、何故そんな時空を隔てた物を繋がるものだと「仮説したのか」?

実はこれ、高倉博士はその答えを別の文章に書いてあるのだ。

それは「新北海道史」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…

既に紹介済だか、これは高倉博士が持つ史観に関わるので改めて引用しよう。

「東北の蝦夷

蝦夷とはわが国最古の史書古事記日本書紀では愛弥詩または愛比須と訓じているが、えみし、えびすはともに異民族のことである。東北に進んだ大和民族と対抗した人々を和人はこう呼んだ。しかしこう呼ばれた人々が今日のアイヌ人種に属するかどうかはわからない。記録に現われた蝦夷に関する記事には、今日のアイヌであることを的確に語ってくれるものは何もないからである。蝦夷はまた毛人とも書かれているので、世界で一番毛深い人類に属するアイヌを指したとする説があるが、これは中国の地理書に東北の海に粛慎国があり、そのさきに毛人 があるとの説から、中国の東方の異民族を夷と呼んだと同じ考えで毛人と呼んだもので、必ずしも毛深いことを現わした語とはいえない。事実今日東北地方で発掘された人骨は北海道アイヌとの類似を的確に示しているものはまだないし、明らかにアイヌ語に基因する地名は陸奥地方にやや濃厚に残されているだけである。

蝦夷すなわちアイヌ

蝦夷がすなわち今日のアイヌを意味するようになったのは、東北の異民族といえばアイヌしかほかにいなくなった時以来のことである。それは我国の勢力が奥羽の北端近くに伸び、蝦夷をえぞと呼ぶようになった平安朝末のこと、真に蝦夷アイヌであることを確実に語ったものは、正平十一(一三五六)年にできた諏方大明神画詞である。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.3.20 より引用…

先の項から改めて書き直し…

・近世以降アイノと名乗る人々は居た→

・近世アイノは千島,樺太の人々に近い→

諏訪大明神画詞の日ノ本,唐人はそれらに近い…

古事記,日本書紀蝦夷と書かれた人々がいた→

・それらは異民族→

・東北の蝦夷(エミシ)が朝廷に「服從させられ」、異民族と呼べる人々がアイノしか居なくなった…

これで「蝦夷=アイノ」と言う図式を解説している。

で、その根拠となる古書は「諏訪大明神画詞」だ…こう書けばわかり易いか。

恐らく、ほぼ無条件で「蝦夷→アイノと直訳」している方の論理はこうなのだろう。

まずは、「蝦夷」と言う人々のイメージの源流は「古事記日本書紀」による…と解った。

ではそのイメージはどうなる?

「和漢三才図会」寺嶋良安  吉川弘文館  明治39.11.21  より引用…

 

「和漢三才図会」は1712年、寺嶋良安の手により出された、謂わば「江戸期の百科事典」…筆者の手持ちは明治に再版されたものだが。

江戸期の蝦夷に触れる記述と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/24/195739

「生きていた証、続報35…「東遊雑記」に記された「竈無し」と秋田県史との矛盾、そして「夷人」登場」…

その江戸期の武士層からみて「遅れた人々」みたいなイメージだろうか?

ここまで来たら解るだろう。

これ、「古事記,日本書紀」らに書かれたイメージが、ずーっと我が国では踏襲されてきている事になる。

平安での「安倍宗任」へのイメージ、同じく在地勢力で最初に就任した「鎮守府将軍清原武則」へのイメージ…

まぁ都の御貴族様方には、あまり良い印象で捉えられてはいない様だが。

古事記,日本書紀」で形成されたイメージが、読みつがれそのイメージをベースに「聖徳太子絵伝」らの絵図を描かれ、それは「和漢三才図会」までも受け継がれているのではないか?

と言う事は「事実とは別に」似た様な者が描かれる事になる。

これはある意味当然で、元々「古事記,日本書紀」は我が国の史書として編纂されたのだから。

言い難い事を書けば…

蝦夷をアイノと直訳する」事は、「古事記,日本書紀」に描かれた史観にアイノ文化を当て嵌める行為。

思い切りの「皇国史観」になるのでは?

戦後教育は「皇国史観」からの脱却を最重要目的とされたのは言うまでもない。

更に言えば、今迄のブログを読んでみて戴ければ解るが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

吉田菊太郎翁はこんな史観。

これは戦前生まれなので当然そんな教育を受けたから当然かも知れない。

では、考古学での発掘事例で出てくるものは?…殆ど本州産で異民族的なものは殆ど無い事実があり、蝦夷っぽいものはと言っても、奈良〜平安で既に小異はあれど、竈付きの竪穴住居に住み、末期古墳を造営し、毛皮は着るが都に出荷したのは「毛布狭布」…etc…そんな大異があるのか?宗教も大差なくなるのに。

これなら「南北朝位には同化していた」…こんな結論に至っていてもおかしくはないのでは?

なら、何故わざわざそんな結論、吉田菊太郎翁が持つ史観にせず、その「皇国史観」に近付ける必要があるのか?

これはある意味想像し易い。

・朝廷に服從させられた…

・権力で押さえつけるた…

そんな「対立軸」が霧散してしまうから…ではないのか?

故に「文化区分の定義」、つまり象徴アイテムらの設定で「文化による学術的時代区分」を明確にする事も出来ない…そう見えるのだが。

これは極めて「政治的判断」と言わざるをえないだろう。

学術的判断は、事実の探求による「普遍なもの」で、新事実の発見でアップデートされていくもの。

政治的判断は、時代の背景や世論,世相で常に変化するもの。

考古学の実績が積み上がってきた今日、わざわざ「皇国史観」に近付けず、アップデートした方が良いのでは?

この辺が筆者には理解不能なのだが…

 

話を元に戻そう。

最新刊だけ読めば最古の絵図は「聖徳太子絵伝」と思えて来るが、引用した原版では必ずしもそれを「断定していない」事は解って戴けたであろうか?

そして無条件に「蝦夷→アイノ」と直訳する事は「皇国史観」に基づく事になる…これは高倉博士の話を読んで、その根拠を確認していけば想像に易しい。

こんな感じである。

まぁ、直訳している方々がそれに気付いている様には見えないのだが…良いのだろう。

引用した著者は、その辺を理解,踏まえた上で仮説する。

その辺の理解が無い方は、著者の仮説を鵜呑みにする。

せっかく引用文を紹介してくれているのだ。

気になったなら、遡り確認すべきである。

「原版まで遡れ」…これは我々がずーっと言ってきた事。

我々はただ、実践しているに過ぎない。

 

因みに高倉博士は、喜田貞吉博士の影響を受けていたかと…

それなら、何となく納得である。

 

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 

アイヌ絵集成」 高倉新一郎  番町書房  昭和48.5.20

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.3.20 

「和漢三才図会」寺嶋良安  吉川弘文館  明治39.11.21